Xの記憶〜涙の見る夢〜

第7章 真の果て  11.雄大なヒカリ

 環の気配をたどり、行き着いたのは海堂の屋敷の一室だった。
 クリーム色を基調にした環らしい柔らかい感じのする部屋の気配は、その清楚(せいそ)さとは真逆に不安に(よど)んでいる。
「環おばさま、どうかしたの?!」
「晃実ちゃん!」
 ベッドに座りこんでいた環は顔を上げ、突然現れた晃実を驚いた眼差しで迎えた。
「大丈夫。それより晃実ちゃんはこんなところに来ちゃだめ。云ったでしょう。それが晃実ちゃんたちのためなんだから」
「だってなんだか……」
 会えなくなる気がしたの。
 晃実は云い淀んだ。
 環は顔を曇らせて目の前の晃実の頭を撫でると、しばらく考えこむように黙りこんでいた。
「心配かけてごめんね……晃実ちゃん、会いにきてくれたついでに一つお願いがあるの」
「うん?」
 環は膝の上にいたブレスを晃実に差しだした。
「晃実ちゃん、来てくれてありがとう。私は余計なことまでしようとしてたのかもしれない。私だけで充分なのに」
 環は何かを思い直したらしいが、晃実にはわからなかった。
「環おばさま……洸己おじさまは晃実たちの傍にいるの。環おばさまもいるよね……?」
 ブレスを受け取りながらためらうように晃実は訊ねた。環の言葉とブレスを託されたことで別れを確信した。
「そうよ。ブレスをお願いね」
 環は微笑んだ。

「……ユウちゃんはどこ?」
「晃実ちゃん?」
 とうとつに問いかけた晃実に環は驚愕した目を向けた。
「環おばさま、あたしはちゃんと考えて力を使えるよ? 洸己おじさまが云ったの。そうできるようになったら、ユウちゃんと会っていいって」
「晃実ちゃん? 何を……」
「あたし、思いだしたの。洸己おじさまたちと一緒に病院を粉々にしたのはあたし。その時、洸己おじさまが約束してくれた」
 環はさらに目を見開いた。
「晃実ちゃん、まだ早いの。恭平くんが――」
「恭平ちゃんは意地悪。晃実からユウちゃんのことを全部消しちゃったの! 環おばさま、今、ユウちゃんと会えなかったらずっと会えない気がする。だから――」
 環の瞳に脅威が映る。香恵がたまに見せる瞳と同じ瞳だ。
 それを見て晃実は泣きたい気持ちになった。求める心が広がっていく。

――ユウちゃん、ユウちゃん、どこっ? ユウちゃんっ!
 晃実は四方に気配を廻らせ、何度も呼び続けた。
――……誰……僕を呼ぶのは……?
――ユウちゃん!
――……君は……――――アキミちゃんっ。
 悲鳴じみた晃実の問いかけが雄士を覚醒させ、封じられたはずの力を無意識のうちに使った。
 声をたどった部屋に入ると、真っ先に環の前に立っている女の子に気づいた。一気に記憶が還る。

「雄士!」
 環が呼びかけるも、声は耳に入らず、雄士は飢えた眼差しを晃実に注ぐ。
「アキミちゃん!」
「ずっと待ってたのにっ」
「ごめん――」
「雄士、だめなの!」
 環は立ちあがり、晃実に近づこうとする雄士の肩をつかんで引き止めた。
「おばさま?」
「晃実ちゃん、ごめんね。雄士、思いだしたのならわかるわね? まだその時じゃないのよ」
 環は殊更(ことさら)厳しく雄士に云い聞かせた。
「何を待たなくちゃいけないんだ?」
「おばさま、どうしてなの?」
「とにかく、今はだめなの。晃実ちゃん、必ず会える時が来るからお願い。ここは危険だわ」
「母さん、なぜなんだ」
「約束なの。洸己さん……あなたのお父さんとの約束なの。あなたたちを守るためだから。雄士、わかって」
「……わからない」
 答えたのは晃実だった。
「晃実ちゃん……」

 腕のないさみしさと不安は誰にもわからない。
 いつ溢れるかわからない力と闘い続けなければならない怖さは誰にもわからない。
 助けて。
 叫んでも答えてくれる声がないということの悲しみは誰にもわからない。
 それを全部消してくれるのは雄士だけなのに。

「わからないっ」
 叫ぶのと同時に環の躰が飛んだ。壁に叩きつけられた環は悲鳴を上げることもなくその場に崩れ落ちた。
「アキミちゃんっ」
 制止する雄士の声に晃実は自分のしたことを知った。
 あたし……。
 雄士が環と同じ瞳で晃実を見つめる。
 立ち尽くした晃実の瞳から涙が零れた。
 環は立ちあがった。
「晃実ちゃん、ごめんね」
 優しい声も晃実には責めているように聴こえた。晃実は後ずさりした。それでも近づいてくる環を無意識で跳ねのけた。
 怖いよ……。
 体内出血を起こしたのか、環は口から血を吐き、滴らせながらもまた立ちあがった。
「アキミちゃん、大丈夫だから!」
 雄士はひたすらに晃実に呼びかけた。
「大丈夫……じゃない。会いにくるって云ったのに全然来てくれなかった。ユウちゃんも……」
『嘘吐きっ』
 晃実の声が二重になって叫んだ。
 なだめる声は役に立たず、制止しようと広げた雄士の手を晃実の無意識に放った力が突き抜け、環を壁に()しつけてその息の根を止めた。その衝撃の(すさ)まじさを表すように部屋中に赤が飛び散る。
 晃実の腕からブレスが飛び降り、環のところへ駆けていった。

「晃実!」
 晃実の叫び声に引きずられた恭平は、着いた現場を目にして息を呑んだ。
 壁際で服に血を滲ませていく環の躰。
「雄士……」
 恭平は立ち尽くした。目をやった雄士は左腕を消失し、そこから血を滴らせている。
「あたし……あたしは……」
 晃実の口から泣き声が漏れ、瞳からはせきを切ったように涙が零れた。
 その傍らにある赤黒い球体を目にすると、恭平はすぐにあの“涙”だと察した。
 今、晃実が流す涙は地に落ちるとともに色を変えていく。直後、まるで環と同じ傷を負っているかのように、見る見るうちに晃実の服が血に染まり、その躰を伝った。
 恭平は晃実自身が自らを傷つけたのだと悟った。
「晃実、血を止めるんだ! できるだろ?!」
 恭平が促しても晃実は首を振って応えない。
 赤黒い球体が大量に流れる血をすくう。
「ユウちゃん……恭平……ちゃん……うっ……ぇっ……怖い……」
「アキミ……ちゃん……大丈夫だよ。僕がいるから……」
 雄士のなぐさめにも晃実は首を振り、流れる血とともに感情を吐きだした。
 晃実の記憶が流れこみ、雄士と恭平は四年前にあった爆破の真実を知った。
「あたしは……ユウちゃんの父さまにケガさせた……ユウちゃんの母さま……死んじゃった……ユウちゃんも傷つけた……あたしはユウちゃんと……一緒にいちゃいけない……って……」
 血の気を失うにつれ、晃実の声はだんだんと感情を無くしていった。
「僕はちゃんといるよ!」
 雄士が叫ぶも、晃実は反応を示さず、明らかに伝わっていない。
「あたしは……こんな力……いらない……」
 晃実は無表情な声でつぶやいた。

 その意思で放棄している晃実の力は赤黒い球体へと流れている。球体は息衝くように脈を打ち始め、急速に形を変え、やがて幼い子供の姿を象った。その姿はまるで――。
 恭平は愕然とその様を見守った。
 まさか、これが――。
 恭平は自分と同じように言葉を失った雄士を見やり、そうしたことに既視感を覚えたとたん、あの瞬間を思いだした。
 零れた“涙”に落ちた一滴の血。あれは“涙”を生命体に変えたのかもしれない。
 “涙”が消えることを願う一方で、一滴の血がそれを望まないのなら。そこに生じるのは“エラー”。つまりは歪む。
 晃実の涙は止まることなく、嗚咽に変わる。
 晃実に共鳴したのか、それとも晃実自身であるのか、生命体までもが泣きだし、不安定になっていく。
 このままでは……。

「雄士っ、血の契約だ! 雄士、晃実の記憶はおまえが封じるんだ!」
「けど――!」
「僕は見たんだ」
 恭平は雄士をさえぎった。
「見た……って?」
「永遠の孤独を。何もない闇を。僕はそんなところに晃実を閉じこめたくない」
「恭平、何を云ってるんだ?」
「おまえの父さんと約束した。闇じゃなくて光に変えることを。けど、今は無理だ。晃実の力は……今は閉じこめないと、誰も暴走を止められない」
「僕が一緒にいてやる。そうしたら……!」
 恭平は疑うように強く首を捻り、横たわる血塗(ちまみ)れの躰を指差した。
「おまえは許せるのか? 責めることはないと誓えるのかっ」
 …………。
「すぐに答えられないような迷いは必要ないっ」
「迷いなんかじゃない。僕は……!」
 答えられなかったのは自分の心を畏れたせいかもしれない。腕が千切れた痛みを感じないほど、母への罪悪感を感じるほど、晃実を切望している。
「見ろ。この状況を抱えて晃実の精神状態が普通でいられると思うか?! もう僕たちの声さえ聴こえてない。会うには早すぎたんだっ」
 恭平の云うとおり、晃実は自分で自分を傷つけるほど心に傷を持った。雄士は歯を食いしばる。
「恭平、どうして一緒にいられないんだ?!」
「まだその時じゃないんだ。力が足りない。わかってるはずだ。父さんたちが死んだ時、僕は血の契約で晃実の記憶を操作した。けど、晃実は自力で記憶を取り戻した。それに引きずられておまえも記憶を取り戻した。それくらい、感情が強すぎる。今のおまえは、感情的にも異能力者としても間違いなく、晃実を制御するどころか逆に引きずられる。晃実とおまえはその血で生命体を作りだしたんだ。あの時のこと、覚えてるだろ? その重大さはわかるだろ? だから! おまえも僕も晃実も、成長しなくちゃいけないんだ! 晃実の記憶はおまえに預ける。PROMISE(やくそくだ)――おまえに誓うよ。おまえがまた晃実を選ぶまで絶対に晃実を守る」
「僕は……」

 雄士は渇望を振りきるように強く目を瞑った。
 決心を募り、目を開くと、雄士は右腕で晃実を抱きしめた。
 雄士を濡らす血と、晃実を濡らす血が混じりあい、血を失った晃実の躰が雄士の傷口からその血を吸いあげた。同時に、互いの無意識の願いなのか、まるで生えるように雄士の左腕が再形成され、晃実の血も止まった。
 雄士は晃実から自分の記憶を消して腕を解いた。見知らぬように晃実から見返され、雄士は泣きたくなった。

「ユウちゃん……」
 つぶやいたのは晃実と同じ声を出す生命体だった。晃実の感情が途切れて穏やかになった生命体は雄士の手に自分の手を滑りこませた。
 それを見て恭平はもう一つ、不安を払拭(ふっしょく)しなければならないことに気づいた。
「雄士、これまでのこと話しておく」
 そう云って恭平が打ち明けたことは、雄士の足もとを揺るがすように心許(こころもと)なくさせた。
「雄士、この生命体にはおまえも共存したほうがいい。それがこの生命体を守ることになる気がするんだ」
「どうやるんだ?」
「たぶん、晃実がやったように血を分ければいい」
 雄士はうなずいて答えると、生命体の手を解き、自分の手のひらに傷を作り、また手を繋いだ。
「くすぐったいよ」
 どんな感触があるのか、生命体がくすくすと笑う。
「なんだかヘンな感じだ」
 笑い声に続いてまったく別の声が同じ躰から発せられた。その声のトーンは雄士とそっくりで、心なしか顔も変化したように見えた。
「これでいい。雄士、この“晃実”はおまえに頼む。晃実の力は極端に落ちたみたいだ。少なくとも力の暴走は止められる。今は引き離すほうが安全だ」
「わかった」
「雄士、おまえはあいつの手に落ちることになる。この生命体がいる以上、世間に知られないように、そのほうがかえっていいのかもしれない。だから、おまえの記憶も封じる。おまえの記憶は晃実に預けておく。おれは成長したおまえを待ってる。それが晃実を守ることになるんだ」
「いつまでなんだ?」
「わからない。時を待つしかない。偉大な光がなんなのか。今ここで、僕は僕が見た未来の意味をわかったかもしれない。闇なんかじゃない。雄大な晃(グレイト・シャイン)。おまえと晃実の名前だ。ふたりは一緒にいるべきなんだ。僕のその願いをおまえに預ける」
「……わかった。恭平、一回だけ……」
 雄士は生命体から手を離すと、目の前の晃実を強く強く抱きしめた。
「……いいよ」
 雄士は晃実を離して恭平を見つめ、二人は無言の決心を()み交わす。

「晃実?」
 恭平が呼びかけると、それまで(うつ)ろだった晃実の瞳が確かになる。
 晃実は辺りを見渡し、その惨劇に気づいてびっくり(まなこ)になり、次には(おのの)いた表情になった。
「恭平ちゃん、環おばさまが……!」
「わかってる。晃実」
「早く助けなくちゃ!」
「雄士の記憶を全部無くしてほしいんだ」
「雄士って……どうやって?」
 噛み合わない会話のなかで、晃実は目の前に立つ男の子が雄士だと見当をつけた。突拍子もない言葉に、晃実は怯えたことも忘れてきょとんと恭平を見つめた。
「僕の云うとおりにして。それが雄士のためになるんだ」
「……うん。恭平ちゃんの云うことに間違いないもんね?」
 そう云ってから晃実は雄士を覗きこむように見上げた。
「いい?」
 晃実は喰い入るように自分を見つめる雄士を見て戸惑った。
「いいよ」
 少し顔を歪めて雄士はつぶやいた。
 読み取ることのできない雄士の激情が自分に向けられ、晃実はそれに臆しながらも、恭平の指示のままに雄士と血の契約を交わした。
 雄士の瞳がいざ意思を失うと、晃実はなぜかさみしいような気持ちになった。
 その『なぜ』を解くまえに、
「晃実、今度は僕」
と、恭平は訊ねる間もなく、雄士にしたのと同じことを晃実にやって眠らせた。

 恭平は生命体に向き直り、その顔を見分けた。
「君の名前は?」
「……?」
 血を分けると同時に雄士はこの『晃実』の記憶も閉じたらしく、生命体は首をかしげた。
 恭平はそこに雄士の決意を知った。
「君の名前はシャイだ。君と一緒にいるのはグレイ。ふたりはずっと一緒だ。雄士を守ってくれるだろう?」
「ユー?」
「そう。いい?」
 シャイは晃実の無邪気さそのものでこっくりとうなずいた。
 恭平はシャイの手を取り、血の契約を交わす。

「雄士」
 呼びかけるとシャイの顔が消え、雄士の顔をかたどった。
「おまえの名前はグレイだ」
「ああ」
「グレイ、僕たちがまた会う時までシャイを守ってほしい」
「わかってる」
「時が満ちるまで」
「僕は強くなる。PROMISE。僕は忘れない」
「PROMISE――約束、だ」

 そうして恭平は生命体と血の契約を交わした。
 惨劇と、そうしなければ先にある悲劇を隠蔽(いんぺい)するために、血の契約は約束の名の(もと)緻密(ちみつ)に繰り返された。


   * * * *


 晃実の口から嗚咽が漏れ、シャイのそれと重なった。
「晃実、おまえ一人で背負いこむことじゃない。おまえのせいじゃないんだ」
 雄士は泰然(たいぜん)とした様を見せて晃実を諭した。
 晃実はゆっくりと首を振り、三人を見回した。
 ここでも、雄士も恭平も、そして粋も知っていて、わたしだけが知らない。
「わたしは……ほかに何を忘れてるの……?」
「もう何もない」
「……何も……信じられない」
 自分を見つめる、いくつもの脅威の眼差しが脳裡に現れ、それはあの時の雄士の眼差しでもあり、晃実は逃げるように雄士の腕の中から転移した。
 その瞬間、再び首筋がチクリとした。呼吸が覚束(おぼつか)なくなる。
「合言葉は」
 将史が促した。
 その言葉が聞こえたのを最後に晃実を静寂が包む。
「晃実!」
「MEG」
 雄士の制止する声も聞こえず、晃実は答えた。
 将史が満足げに口を歪めた。
「さあ、来い」
 その声も晃実には届かなかった。
 ドクン。
 嫌い……嘘吐きばっかり。
 ドクンッ。
 信じて――。
 そう繰り返す声をわたしは傷つけた。
 晃実ちゃん、ごめんね。
 そう云って撫でる手をわたしは……殺した――。
 ドクン。
 ドクン。
 共鳴する鼓動。力が溢れていく。
 頬を生温い液体が伝った。
 顔をうつむけ、すくうように手のひらを広げる。受け止める涙は赤黒く色を変えていった。

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