Xの記憶〜涙の見る夢〜

第7章 真の果て  10.理由

 密葬された理由はここにあった。環の躰は冷たく凍らせてずっと保存されていたのだ。
 そのショックとは別に晃実の中に畏れという衝撃が宿った。
 ただ独り冷静に眺めていた粋は、スタッフから何かを受け取った将史が目に付いた。
「何を――!」
 粋が不意に叫び、云い終わらないうちに環から目を放せないでいた晃実の首筋がチクリとした。
 ドクン。
「晃実!」
 刺さった物を首筋から抜くと、注射器だった。
 粋が晃実の手から素早く注射器を取りあげる。
「これは……雄士、トランス剤です!」

 大嫌いな注射。
 ドクン。
 んはぁっ……。
「息が……」
 呼吸が止まる。意識にはなくとも躰がこの薬を覚えていた。
 眠りを誘う大嫌いな注射。
 この病院、嫌い……大嫌い……嘘吐き……ばっかり……。
 叫ぶのは誰……?
 晃実は顔を上げて雄士を見つめた。
「晃実、薬を除去しろ!」
 衝撃が尾を引き、命令した恭平に目を移すのが精一杯で、晃実は首を振ってその余裕がないことを知らせた。
 ドクン。
 鼓動が耳もとで大きく響く。

 信じて――。
 そう云うやさしい人をわたしは傷つけた。
 漠然と晃実は思った。それとも思いだしたくない記憶を思いだしたのか。
 息を吐くことさえままならない。
 雄……士…………助けてっ。
 わたしはまえにもそう求めた。
 ……ユウちゃんっ。
 それなのに……。
 嘘吐きっ。
 息苦しさとともに自分とはかけ離れた他人事のような記憶が交差する。

「MEG」
 ドク――ッ。
 その言葉に鼓動が途絶えた。深く沈む感覚が晃実を包む。
「MEGってなんだ」
「わたしは……MEG」
 怪訝に将史を見やり、つぶやいた雄士に答えたのは晃実だった。雄士が晃実に視線を戻すと、意思が欠如したようにその瞳はぼんやりとしていた。
「雄士、晃実はトランスにはまったようです」
「粋、おまえはMEGを知ってるのか?」
「いいえ」
 粋は気難しく眉間にしわを寄せて考えこんだ。
「所長も同じ言葉を云った。DAFの命令で動く完全体……――」
 雄士は井上の云ったことを繰り返している途中で、突然険しく表情を変え、自分で答えを見つけた。粋も雄士の言葉から思い至る。
「そうです、晃実自身が云ったとおり、晃実のことです。早く解かないと――」
「晃実? 晃実! 大丈夫だ、晃実。おれがつかまえてやるから。晃実、上がってこい。晃実っ」
 雄士は粋に応え、あの病院で付き添っていたときのように、何度も晃実の名を呼んで云い聞かせた。
 繰り返し呼ぶ声は晃実をあの瞬間に退行させる。ずっと求めていた、応える声。それが再び晃実の鼓動を息衝かせた。

「ユウ……ちゃん、助けて……」
 晃実は幼い子供みたいにたどたどしく求めた。
 雄士は訝るように目を細めて晃実の顔をすくった。
 晃実の記憶はまた自力で戻りかけているのかもしれない。
「大丈夫だ」
「ユウちゃん……来てくれないかと思った」
 雄士が声をかけると、晃実は安心したように笑った。
 今はまずい。
 事態は深刻さを増していく。
 幼い頃に戻ったように雄士はがむしゃらに晃実を抱きしめた。
 その窮屈さは晃実の中で、薬に閉じこめられた世界から現実へと浮上させてくれた、安堵を呼ぶ腕の感覚を甦らせる。重なる力強い鼓動が晃実の鼓動を落ち着かせた。
「雄士……?」
 晃実が呼んだ名に気づいて雄士は少し腕を緩めた。間近で見下ろした晃実の瞳は意思を取り戻している。
「MEG」
 雄士は晃実の瞳に向かってつぶやいた。
「嫌い」
 晃実の瞳に恐怖が浮かんだものの、トランスに陥ることはなく、雄士は大きく息を吐いて、腕を解いた。
「嫌い?」
「その言葉、はっきりしないけど……病院にいるとき薬を打たれるたびに云われてた気がする」
「晃実、今、何か思いだしてるのか?」
「……たぶん」
 雄士の問いに慄きながら晃実は曖昧に首をかしげ、目を逸らした。
「晃実、思いだすのはあとだよ」
 恭平が変わらず保護者然とした口調で晃実を諭した。一瞬、晃実は現状を忘れ、習性的に抗議しそうになった。
 それをさえぎったのは将史の信じられない言葉だった。

「MEG、きみの力が欲しい。きみの力さえあれば環は甦る」
 雄士は眉をひそめて将史を見やった。
「何を云ってる? そんなことやってどうなるんだ。生き返ったからといってあなたは母を手に入れることはできない。母がどれだけ父に想いを置いていたかを、おれはわかっている」
「想いとかいうものは簡単に変わる。どうだ雄士、おまえたちが知りたがっていることを教えてやろう。愚かな人間の心がいかにあてにならないものかという証明だ」
 雄士は口もとを引き締め、鋭く目を細めた。
 粋だけが将史の云わんとすることの見当をつけた。
 ボクの見解が正しければ……。
「MEGとはMaternally Expressed Genes。つまり母親から受け継がれる遺伝子のことだ。気づいているか? MEG以外に異能力者にメスがいないことを」
 雄士は粋に目をやり、粋は応えてうなずく。
「異能力を引き継ぐにはメスが必要だ。我々は何度も試みたが、結局メスは着床すらしなかった」
「それなら――?」
「雄士!」
 思わず粋はさえぎった。
 こんなときにこんな形で露呈されるべきではない。立場を確実にしていない二人には重すぎる。
 結末にあるのは悲劇か必然か。
()ります!」
 粋は出し抜けに手のひらを将史に向けた。
「粋?!」
 驚く晃実を尻目に粋は力を放った。

 Xが動かない今、将史は自分で応戦するしかなく、手をかざして粋の攻撃を迎え撃った。将史を頭痛が襲い来る。
 もう恐れるものは何もない。
 そう心の内でつぶやいて将史ははたと思考を止める。
 恐れるもの――? そんなものなど私にはない。
 将史は口を歪めて含み笑った。

「真実を知りたくはないかね?」
「聴かせて」
 (いち)早く答えたのは晃実だった。
「晃実、だめだ。あとでって云っただろ」
「晃実、あとでボクが――」
「粋は噛み合わせてるだけって云ったよ」
 晃実は恭平に続いて止めた粋をさえぎった。それから恭平に目をやった。
「恭平は知ってるの? それとも予測?」
「……予測だ。けど、確信してる。海堂から聴く必要なんてない」
「何をそんなに隠したがるの?」
 晃実の問いに恭平はわずかにだが顔を苦々しくしかめた。
 それを見た晃実は非難をこめて首を振り、それから将史の横で嗚咽の止まらないシャイを見下ろした。その痛みが晃実に事実を知るべきだと伝える。
 ここで終わりにしなければ、終わりも始まりもない気がした。
「雄士。雄士も止めるの?」
 見上げた雄士は何も表情に表わさず、ただ喰い入るように晃実を見つめる。
 将史の薄笑いが広がった。
「環の子宮は特別だったらしい。それとも、遺伝子が特別だったのか」
 話しだした将史は挑発するかのように眉を跳ねあげ、含みを持たせて言葉を切った。
 雄士は将史を睨みつけながら、何を云わんとしているのか素早く考えを巡らせた。やがて手間取ることもなく市絵の告白にたどり着いた。

「雄士、おまえは一卵性の双子だった。その片割れがおまえだ」

 情けのない将史の言明を信じられない面持ちで見つめ、刹那、呼吸を忘れた。
 将史が腕をまっすぐに伸ばし、人差し指を向けたのは晃実だった。


   * * * *


 あなたは双子だったの。一卵性ではめったにない男の子と女の子の双子。でも女の子は育たなかった。早いうちに心音が消えて、やがて小さくなっていって姿も見えなくなったの。双子の場合、そんなふうに(まれ)に一方が吸収されてしまうことがあるらしいんだけど。
 生まれるという頃には環も精神的に落ち着いていたんだけど、やっぱり云わないほうがいいと思って。
 いざ生まれる時期になると、私は安全策を取って帝王切開を勧めたわ。そしたら……。
 消えたと思っていた女の子はあなたの腕の中で眠っていた。担当したドクターは、まるで守るという意思を持って抱きしめているみたいだったって……。
 会わせてもらった女の子はほんとに小さくてやっぱり亡くなっていたけど、私たちが思っているよりずっと長く生きていたのかもしれない。姿形は何も問題なかったから。
 そして――。


   * * * *


 ……そういう……ことか……。
 雄士は半ば愕然と内心でつぶやいた。
「異性一卵性双生児という極々稀な現象だ」
「妹は埋葬されたはずです」
「知っていたのか?」
 将史の言及に雄士は肩をそびやかして答えなかった。
 将史は聞かなくともどこから雄士が知りえたのかを見当つけた。もう今更どうでもいいことだ。
「確かにMEGは死んだ。しかし、残されていたんだよ。遺伝子は」
「あなたは……臍帯(さいたい)血が保存されていたのを知っていたんですね」
「お喋りで能天気な母の唯一、賢い行いだろうな」
 将史は自分の母親までをも小馬鹿に嘲った。
「……ほんとなの?」
 雄士の横で晃実が問いかけた。その声には感情が見えない。
「……ああ」
 ためらったすえ、ぶっきらぼうに雄士が肯定した。
「おまえを素直に手渡していれば、その遺伝子からMEGはもっと早くに誕生し、強力な再生力であの男たちも死ぬことはなかっただろうに」
「違います。晃実は晃実だから再生力が使えるんです。MEGだから使えるわけではありませんよ」
「云っていることがつまらんな」
 粋の否定も、人としての心を無くした将史には通じない。

「雄士、わたしたちは……兄妹?」
 晃実はさらに確認した。
 雄士は答えなかった。逆にそれが肯定したことにほかならない。
 二分の一の確率でそうであろうことは頭に入っていた。しかし、事実はそれ以上だった。
 晃実が雄士に惹かれ、雄士が晃実を放っておけなかった理由が、晃実にはわかったような気がした。
 同じ遺伝子がそうさせたのだ。
 動揺しているなかでも、晃実は恭平と粋が驚いていないことに気づいた。
 ここでも知らないのはわたしだけ……。
 信じられないのではなくて信じたくない事実。
 わたしは……何を信じればいいの?

「雄士、私の痛みがわかるか」
「――。……わかってたまるかっ」
 雄士は吐き捨てるように答えた。
 この瞬間に、はっきりとできなかった心の在り処(ありか)を、ふたり、ともに知ったのかもしれない。
 一緒にいることの安心が苦悩にすり替えられたような気がした。
「人の心はあてにならないだろう? たった一つの事実でいとも簡単に揺らぐ。あの男が現れるまでは環にとっては私がすべてだった」
 そう云って環を見下ろした将史から感じるバイオフォトンは憎しみにも見える。
 将史が環の顔に触れようとした瞬間、それを邪魔するかのように物体が通り過ぎた。
「ブレス!」
 手を引っ掻かれ、将史は罵声(ばせい)を吐いて後ずさった。
 ブレスは環の横におり、毛を逆立てて将史を威嚇(いかく)している。
 将史がブレスに手をかざしたとたん、恭平が力を放ち、一点集中でその手を弾いた。

 将史は苦しげに呻いた。伴って力を何度も使ったせいで頭痛が激しくなる。
 MEGを意のままに操ることさえできればすべては解決するのだ。トランス剤をもう一度使えば……。
「タイプA、その名の真実を教えよう。水野恭平、タイプA、おまえたちを生んだのはそこにいるMEGだ。おまえたちは環の中でMEGが誕生させた。雄士が生まれたとき、おまえたちもともに生まれ、生存していた。医者と母の判断で殺されたがね。なぜなら、ARISE(アライズ)。Xと同じなのだよ」

 わたしが誕生させた? Xと同じ?
 将史からシャイに視線を走らせた。晃実は混乱していく。


   * * * *


 そして――もう一人、赤ん坊がいたわ。
 でも普通じゃなかった。小さいけれどちゃんと生きていて形は赤ん坊そのままなのに、躰が赤黒くてまるで血の塊のような……。
 ドクターと話し合ったすえに私の判断で(ほうむ)ってしまったの。だからせめてと、あなたと女の子の臍帯血と一緒にその躰から採血して保存したわ。


   * * * *


 市絵の言葉を噛み合わせ、雄士の中ですべての辻と妻が合った。
 将史は楽しんでいるかのようにほくそ笑んで晃実を見据えた。

「MEG、忘れているようだが、環を殺したのは、きみ、だよ。だからきみがその力を手にしているのなら生き返らせるのは当然だろう。償うべきだ」

 ドクンッ。
 鼓動が波打ち、ほんの傍で苦しげに毒づく声が聞こえ、晃実を取り巻く空間がぴんと張り詰めた。
「晃実」
 雄士に呼ばれると同時にその腕に晃実は頭を抱きこまれた。
「僕たちがどこから生まれようがどうだっていい。それより、あんたはなんで――」
 恭平は云いかけてやめた。それを訊いたら認めたことになると気づいた。
 が、将史は止めを刺した。
「残留思念だよ。環の思念が流れてきた。たどったあの部屋には環の恐怖が残っていた」


 環の恐怖。それは将史にも向けられていた。
 それがだんだんと大きくなって晃実に届いた。晃実の中に畏れが宿り、別れを予感させた。環との別れではなく、“誰”と断定できない誰かとの別れ。
 あの爆破の時以降、環と電話で話すことはよくあったが、発見の危険を避けるために会ったのは数えるほどしかない。
 それでも環の感情に共鳴したのは、晃実が環の子供であるという、無下に明かされた事実のせいかもしれない。
 その環から伝染した畏れが、なんの意味もないはずのまだ幼かったあの日に、晃実の記憶を開いたのだ。

 そしてまた今、消された記憶は晃実自身によって開かれていく。

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