Xの記憶〜涙の見る夢〜

第7章 真の果て  7.孤独

 浅い眠りの中に惑わす声が侵入した。

―― おまえが待ち望んだ雄士が来たぞ。

 見えない壁は誰かの命で出ることを許さない。

 誰の声も聞えなくなった。
 グレイの声も、雄士の声も。
 誰の心も見えなくなった。
 グレイの心も、雄士の心も。

 唯一、繋ぐのは惑わす声。

―― ほんとに取り戻してくれるの?

―― 確かめたらいい。

―― 約束?

―― 裏切ったのは誰だ? 私は嘘を吐いたか?

 あたしの世界が闇に閉ざされようとしている。
 最後の(とりで)

 信じて。

 囁く声が頭の中から消えない。


   * * * *


 焦点の定まらない目をした六人の異能力者と、置いてきた粋のクローンが三人、室内を囲むように位置した。
 対峙した隙を狙って所員たちがドアへと向かうと、雄士が素早く行く手をふさいだ。
「晃実」
「わかってる」
 晃実は雄士の背後にある、この部屋唯一の出入り口となるドアを溶接した。所員たちが怯え、退く。
「晃実、クローンは見限っていいですか」
 こちらの出方を探っているかのように、一向に攻撃を仕掛けてこない異能力者を一瞥して粋が訊ねた。
「だめ。治せるかもしれない」
 晃実がさっきやった遺伝子の組み換えを示唆(しさ)すると、粋は思い至り、しばらく考え廻った。

―― 晃実、組み換えは比較的、簡単だったんですよね?
 粋は呼応に切り換えて訊ねた。
―― うん。
―― ではボクの云うとおりにしてもらえますか。まず血の契約でクローンを制御してください。そして、晃実の塩基配列(シークエンス)を除去する。それだけです。
―― ……それでどうなるの?
―― ボクがクローンを操れるようになります。
 晃実は怪訝に首をかしげて粋を見やった。
―― 晃実、説明はあとだ。今は粋の云うとおりにしてくれ。殺さないという以上、一対一まで持っていけたらラクになる。
―― ……わかった。
 どこか納得いかないながらも、雄士の云うことにも一理あり、晃実は渋々と了解した。
―― とりあえず、シャイが気にしているのはおれの動向だろう。ノーマルタイプを競技場のほうへ連れ出す。
 雄士はうなずいた晃実の頬を挟み、その額に自分の額をコンと当てる。それは精神的にも体力的にも、雄士が晃実を気遣う恒例のしぐさとなった。
 雄士は晃実が小さく笑んだのを認め、片方の口端を上げて応えた。それからノーマルタイプの躰に次々と触れて飛ばすと、最後に自分も消えた。

 思ったとおり、シャイの気配はすべて雄士についてきた。
―― シャイ……シャイ。
 先刻と変わらず、呼びかけても応答はまったくない。
 ノーマルタイプが攻撃を開始する。
 シャイの世界で試しの場が用意された。


   * * * *


 あとに残った晃実と粋は所員の見守るなか一人のクローンを選んだ。粋に付き添われながら晃実は血の契約をする。
「大丈夫、まったく抵抗ないよ」
「ではボクは監視してますのであとをお願いします」
 晃実は立ったまま、恭平より少し幼い顔をしたクローンの額と心臓の上に手を置き、躰内へと意識を侵入させた。
 粋は晃実と残ったクローンの間に入り、所員にも目を光らせる。
 雄士の云ったとおり、シャイがもっとも頼りにし、そして今、測っているのは雄士自身なのだろう。いまクローンに対してシャイの影響は感じられず、粋は苦もなく三体を制御した。
 出口をふさがれて逃げ場を失った所長の井上を含む所員たちを見渡すと、慄きながらも晃実が何をやっているのか成り行きを見守っている。
 タイプN3でDNAの仕組みを把握した晃実は、難なく三人のクローンの遺伝子を置き換えた。組み換え遺伝子は意思を持ったウィルスのように急速に既存の遺伝子を侵略していく。
 ほどなく粋は意識を分散して三人のクローンを乗っ取った。
「粋、どう?」
「問題ありません」
「じゃあ、雄士のところへ行って。わたしはこっち整理してからすぐ行く」
「大丈夫ですか」
「ここまで来て迷いなんてないよ」
 不機嫌そうに晃実が云うと、粋はくすりと笑う。
「わかりました。先に行ってます」

 粋がクローンとともに消えると、所員たちがどよめき、晃実は冷ややかに眺めた。
 部屋を歩き回りながらコンピュータに触れてすべて灰にした。競技場に面した大きなガラス窓も、ドアと同じように溶接する。強化ガラスが使われていて、そう簡単に割れることもないようだ。たとえ、割って脱出しようとしてもその先に待っているのはこの場所より酷い戦場だろう。

「さっきはクローンに何をやったんだ?」
 晃実は振り向いて口にした所員に目を向けた。
「遺伝子の操作」
「……どういうことだ?」
「さあ……」
「どうやったんだ?」
 晃実は不可解に眉をひそめた。
「それを知ってどうするの?」
 所員はなぜか晃実に期待に満ちた目を向ける。
「MEG」
 とうとつな言葉は呼びかけているような響きだ。
「誰?」
「井上だ。覚えて――」
「そうじゃなくて。メグって誰?」
 晃実がさえぎって問い返すと、井上は目を見開く。
「……やはり、ただでは……効かないのか……」
 晃実は理解できないといったように首を(ひね)った。
 問い質すにも今は先にするべきことがある。ガラス窓の向こうでは、雄士が二人と、粋とクローンがそれぞれ一人と相対している。
 再び彼らに視線を戻すと、半ば呆然とつぶやいた井上に同調し、ほかの所員にもさらなる動揺が広がったようだ。
「殺したりなんかしない。それより、死んだほうがマシって思うくらいに生きていることを苦しんでもらう」

 異能力者にとって、人を手にかけるということは赤子の手を捻るようなもので、弱い者(いじ)めでしかない。いつのときも正しいのは、強者は弱者を守る立場にあるということ。
 けれど。
 恭平に死を選ばせるほどの状況を設定し、今尚、恭平はどこかで苦しんでいる。
 いったんは恭平のために命を譲った粋を、利用するためだけに生かし、心を歪めさせた。おまえの命はDAFの手中にある、と絶えず脅しながら。
 記憶をなくした雄士は、苦しみのなかで逆らえないままつらい訓練を強いられた。雄士はつらかったとはけっして云わない。けれどあのとき、慣れた、と云ったその言葉に痛みが見えた気がした。
 そして、自分が普通の人間ではないと気づくまもなく両親と引き裂かれ、意思を奪われた異能力者。治療の名の(もと)に、(もてあそ)ばれた数々の命と、その親たちの嘆き。
 自らの力では及ばず、けっして望むことではないのに、子供に託さざるを得なかった洸己たち。
 わたしは神じゃない。罰する権利などない。
 たとえ人を創造した神の存在があるとしても、行く末は自らが招いたことであり、愚かなのは神自身で罰する権利に値しない。
 愚者(ぐしゃ)は愚者を生む。
 復讐、あるいは報復も何も還るものはなく、目の前にいる愚者の手によって得られたこの生命(いのち)も愚者にほかならず、ならばためらいもなく魔になるだけ。
 恭平、わたしたちの決心はそういうことだよね?

 彼らは追い詰められたネズミのようで、目が怖れに揺らめいている。

「見てればいい。あなたたちがどんな人間を作ったのか。その果てにある世界がどうなるのか思い知ればいい」

 今は泣いているときではない。愚者に泣く理由なんてない。それでも。
 恭平、どこにいるの?
 つかの間、途方に暮れた。
 不安と焦りを絶えず感じて、ともすればそれに押し潰されそうになる。
 雄士と粋がいるだろう?
 恭平ならこう云うに違いない。
 わたしは何も云ってやれない。
 今の恭平は孤独だ。
 わたしが消えるまえに与えたもの。
 彼らにとっては悪魔の笑みだったかもしれない。


   * * * *


「大丈夫?」
「このくらいなんでもないですよ。何度も云いますが、倒すことができるのならもっとラクなんですけどね」
 競技場へ転移するなり、晃実はただ攻撃を流している二人に声をかけると、粋とクローンが声をそろえて答えた。
「おまえは大丈夫か?」
「わたし? 全然なんともないよ」
 晃実は雄士が相手をしているうち一人を引き受けた。晃実が加わることで六対六の勝負になる。
「では一気に終わらせましょう」
「打開策は?」
「クローンにやったのと同じ方法でいく。当面、おまえを頼ることになる。おれが力を略するよりは早い」
 晃実は答えた雄士を気難しく見やった。
 さっきはわけもわからず、云われるままにそうしたものの、晃実の思い至らない何かが隠されているのは間違いない。
「それって……キャッ」
 突然、雄士にすくわれて、そう離れてはいない場所へと転移させられた。それまで晃実がいた場所をノーマルタイプの力が通り抜け、その先にあった座席を破壊した。

「バカ。今は理由を説明してる場合じゃないんだ!」
 雄士は晃実を怒鳴りつけた。
「晃実、頼むから今は目の前のことに集中してくれ。こっちの身が持たないだろ。いくら優勢だからって油断するな」
「本気で心配してるの?」
 見上げた雄士は晃実を離し、答えることなくただ顔をしかめた。
「行くぞ」
 返事は聞けなかったが、雄士の顔によぎった刹那の感情を読み取った。
 恭平と二人きりのときは、互いが互いのことを気にかけすぎて絶えず不安だった。雄士はその畏れを感じさせない。
 大切な人に対し持つ心配が消えることこそないが、心配されることが切ないことではなく、うれしいことだと知った。
 その理由はたぶん、雄士の異能力者としての強さだけではない。
 晃実は今までにない、安心に似た望みを抱いている。
 それを叶えるには洸己たちが願う結果を導くこと。
「大丈夫」
「そう願ってる」
 雄士はかすかに口を歪めた。
「雄士、シャイは?」
「気配は感じるが応えはない」
「そう……」
「だから、今は気にするな。わかったか?」
 晃実がうなずくと雄士は額を重ねた。

 すぐに二人は持ち場に復帰し、またそれぞれに相対する。
「粋、無理しないでね」
「晃実が思ってるほど、これは難しいことではないんですよ。もとはボクの躰なんですから。こっちにしてみれば晃実の再生力のほうがよっぽど大変そうです」
 集中力を四つに分散しなければならない粋を(いた)わると、粋は晃実の心配を打ち消すように力強く応じた。
 粋が意識を分散するように、シャイもまたその力をこなす。
 手加減できないくらいに隙のない攻撃が仕掛けられ、血の契約に至るまでにも緻密(ちみつ)な計算が必要だ。
 シャイへの明確な対策がないだけに、シャイ自身が動くまえにどうにかしなければそれこそ窮地(きゅうち)(おちい)る。
 一方で雄士は転移の勢いのままノーマルタイプを壁に押さえこみ、略を試みるがそのまえに逃げられ、埒が明かない。
「晃実、粋の相手を一人、先にやってくれ。おれがその間、二人の相手をする」
 雄士はバックネット裏の最上段でノーマルタイプと向かいあったまま声をかけた。
「わかった。粋!」
「了解です。ボクは誰よりも賢いつもりですけどね、思いきった攻撃ができないぶん、負担が増してますから。まあ、いざとなったら自分が大事ですし、倒すまで、ですが」
 冗談とも云い訳とも取れる発言だ。一見余裕がありそうだが、粋にしては弱音に近い。消耗戦になっていることに違いなく、特に粋は精神を分散させているのだから当然のことだろう。

「晃実、行きますよ。雄士、一瞬ですが、クローンから意識が離れます」
「こっちは気にするな」
 粋は相手していたノーマルタイプを引きつけながら競技場の中心部から離れた。
 ミームを得意としたシャイが相手なだけに長時間の神経略は無理だ。粋が略をした一瞬の効力を利用するしかない。
 粋とのタイミングを計って晃実はノーマルタイプの腕を切りつける。その間、クローンが倒れ、ほかのノーマルタイプが粋と晃実を狙い撃ちする。雄士は転移を駆使しながらその力すべてをさえぎった。
 手早く血の契約を結び、晃実がノーマルタイプを制御したところで粋は意識を分散する。粋に付き添われながらDNAを操作した。クローンで三度繰り返しただけに造作ない。
 ノーマルタイプは指示者を失い、薬漬けだったせいか、自身の意識も還ることなくその場に倒れてしまった。
「同情している暇はありませんよ。次です。雄士のところへ行ってください。一体、ボクが引き受けます」
 晃実の顔によぎった表情を見破り、粋は声をかけた。
「うん」

 晃実は雄士に目を向けた。
 普通の人間では見分けにくい突風のような攻撃は、野球ボールを二〇〇キロの速さで投げるのと同じくらいの威力がある。避けることのほうが簡単で躰力的にも影響は少なくすむのだが、外部への異常事態漏えいは避けなければならず、雄士は近距離でそれを受け止め続けた。
 異能力種に違いはあっても、基本的な異能力、つまり、ある程度の透視、聴力、転移、そして力の放射自体に差はほとんどなく、ましてやこっちは倒すことが目的ではないだけに一人以上の相手は無理を強いる。そのうえ、神経略をしても攻撃は止まない。
 最小限に破壊を止めようと攻撃を受け続ける雄士のもとへ、二人は即座に転移した。
「雄士、今度はその子」
「強引に行くぞ」
 雄士は云うなり、転移よりは視野に映るくらいの緩いスピードでぶつかるようにノーマルタイプの肩をつかんだ。雄士はそのまま背後の壁にノーマルタイプを押さえつけた。転移されるまえの怯んだ一瞬を狙って晃実は血の契約を施す。
 粋と雄士との間にある、言葉にしなくても通じる阿吽(あうん)の呼吸はまるで恭平と(つちか)ってきたものと同等に値する。やがて雄士は力を失ったノーマルタイプの躰をスタンドの席の上に横たえた。

「大丈夫か?」
 その言葉は合言葉になりつつある。
「学習能力は人並み以上だよ」
 わざと控えめに云うと、雄士は短く笑みを漏らして額を合わせた。
「次だ」
「任せて」
「粋、こっちはいい。おまえはクローンに集中しろ」
「わかりました」
 粋が引きあげ、雄士は取り残されたノーマルタイプをまた同じようにスピードをつけて(さら)い、ちょうど仮のコントロール室の下で羽交い絞めにした。
 晃実はすかさず、余裕さえ持ってDNAを置き換えた。
 雄士がノーマルタイプを横たえるのを少し離れて見守っているとき突然、晃実は異質を捉える。
 悪とも(こん)ともつかない気配が、云い知れぬ孤独という空気感とともに漂ってきた。
 ゾッとするような冷たい空気だ。その空気が背後からまっすぐに自分に向かってくるのを感じた。
「雄士、そのまま転移して!」
 叫んだ直後、素早く反応した雄士はノーマルタイプを引き連れて転移し、晃実自らも転移に入った。
 晃実と雄士を結ぶ直線上からその力は放たれた。
 瞬後、今まで居た場所の壁が轟音をたてると、ひびが入ってその破片がごっそりと崩れ落ちた。
 その上の部屋で恐る恐るも状況を見守っていた所員たちの、衝撃という感情が波動として伝わってくる。
 雄士が反応してくれることは確信していたものの、無事を確認すると晃実はほっと胸を撫でおろす。

 来るべき時がついに来たか。
 雄士は心の中でつぶやいた。
 雄士だけでなく、晃実も、そしてその場の変化を敏感に感じ取った粋も同じく思った。
 誰が放った力なのか、その方向をたどった三人はあるべき姿を見出す。

 そこには海堂将史と、少し離れた隣に心許なげに佇んでいるシャイがいた。

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