Xの記憶〜涙の見る夢〜

第7章 真の果て  3.コンタクト

―― ……グレイ? グレイ……どこ……?

 いつも一緒にいた心が消えた。
 一緒があたりまえだと思っていた心が消えた。

―― X、雄士がおまえを捨てた。

 その声に目が覚めた。

 目覚めたら、いなくなっていた。
 ユーも、グレイも、消えていた。

―― ユー……怖いよ……グレイ……助けて………グレイ……っ……!

 グレイが応えないのなら確かな存在は唯一だけ。

 ……ユーを返して……。


 涙が永い眠りから心を覚醒させる。


 …………信じて……最後まで信じてほしいんだ……。
 願う声が叫ぶ。
 逢いたい……。
 愛しさに止まない心が集う。


   * * * *


 三人とも声を失い、ほんの今まで将史がいた椅子を信じられない思いで凝視した。
 なんてことをっ!
 将史が晃実たちを恐れなかった理由がやっと明らかになった。
「……自分をも異能力者に仕立てていたんですね」
 やがて、粋が信じられない事実を口にした。
「おじさまたちがあんなに頭痛で苦しんでいたことを知ってるのに?!」
「それほど野心に満ちているということだろう」
「しかも、その頭痛を甘く見ていたのかもしれません」
「海堂は頭痛を持ってるの?」
 日頃からデスクの上に常備されている水の入ったグラスをちらりと目にし、雄士はデスクに近づくと、右袖のいちばん上の引き出しを開けた。そこから透視で見つけだした、錠剤入りの小さな(びん)を取りあげて掲げる。
「愚かとしか云いようがありませんね」
 粋が首を振りながら云った。
「海堂将史はほかに何を云っていた?」
「え? えっと……一緒に世界を手に入れないかって……」
 小瓶をデスクに戻しながら雄士が向けた問いに、晃実は戸惑いつつ答えた。そのあとの内容については云っていいものかどうかを迷う。相談を持ちかけるように晃実は粋に視線をやった。
 雄士は見逃すことなく、粋? と呼びかけてさきを促した。
「海堂将史はあなたの母親に執着していたんですよ。将史が云うには『愛』、晃実が云うには『自分よがりのわがまま』。ボクが思うに、あの人の心は病的に歪んでしまっている。それがいつ始まったかはわかりませんけどね」
 粋は淡々と事実を述べた。
 晃実は雄士の腕に触れた。晃実が無言のまま気遣う眼差しを向けると、粋の簡潔な説明のなかでもなんらかの結論を出したように雄士は小さく笑みを見せる。
「おれはこんなことに振り回されたりしない。むしろ、すべてのピースがあるべきところに納まって、すっきりしたってところだ」

 晃実と雄士を見ていた粋は案じてわずかに眉をひそめる。
 血は争えない……か。最悪のパターン。さきにあるのは悲劇か、それとも必然か。さて、そこにどういう選択があるのか。

「すっきりした?」
「そうだ。粋が云ったとおり、伯父は修復が不可能なくらいに歪んだ人間だ。それは大企業の総帥(そうすい)として、他人を頼るな、信用するなと育てられてきたせいかもしれない。母にとっての父のような存在になる誰かを見出せなかったからかもしれない。同じ位置にいて、且つ、信頼の置ける人間は、あの人にとっては母しかいなかった」
 雄士は祖母との会話を思いだしながら、そう口にした。


   * * * * * * *


 将史はおじいさんの躾を誤解したまま育ってしまったの。
 それに気づいたのは、洸己さんが亡くなって、環から事情を打ち明けられたときだった。
 おじいさんが何を云っても、将史は聴く耳を持たなかったわ。
 環が死んでしまったときは憔悴(しょうすい)しきっていたけど、おじいさんはようやく結論を見出したの。将史を後継者候補から外すことを。それを重役会議で発言するはずだった日、心臓発作を起こしてそのまま……。
 心臓なんて弱くなかったのに。もしかしたら……。
 将史の罪に対する、私への断罪は(いと)わないわ。

 人を当てにしてはいけない。道は自分で切り(ひら)くもの。
 人を見極める力を持て。人の心とは裏腹なもの。
 自分にとってかけがえのない理解者を見出せ。一人でいい。
 人を愛することは力になる。どんな困難に遭っても前途は拓けるだろう。

 当初、おじいさんが環の結婚に反対したのは、洸己さんに身寄りがないこともあったけど、経済的な問題も含めて若すぎることが理由でもあったの。
 でも環は結婚に踏みきって、援助も受けずにそれまでの贅沢な暮らしから簡単に抜けだした。それから環に無理やり引き合わされて洸己さんを知るうちに、おじいさんも気に入ったらしくて。環はおじいさんの教えを、その意味を真にまっとうできる心眼を持っていた。
 将史は、この三つのおじいさんの教えを、間違って捉えてしまったの。
 あなたは正しく理解できるわね、雄士?


   * * * *


 心に真の強さを身につけるための教え。
 それを将史はすべて逆の観点から意味を捉え、保守に回り、()いては逆手に利用することに変えてしまった。

「伯父が母のことを異常なほど大切にしていたことは、祖母から聞いた。母が父……要するに自分以外の人間を選んだことは、伯父にとっては裏切りだった。歪みはそのときから表面に出てきたのかもしれない」
「海堂将史は……かわいそうな人なの?」
 晃実が誰にともなくつぶやいた。
「そうじゃない。伯父は権力の誘惑に負けた利己的な人間だ。生まれてきたときから両親に()びる連中にもてはやされてきた伯父は、祖父の教えを真の意味で理解できる人間ではなくなっていた。不幸な人間かもしれないが、かわいそうな人間ではない」
()いて云えば弱いんです」
「弱い?」
「伯父は自分の立場を守ることに執着した。自分自身の守りに入ると知らないうちに弱さが露呈する」
 雄士が粋を補足した。これまでの自分にも云えることだからこそ、今は認め、理解できる。
「それを隠すために海堂は冷酷さを身につけて、ついには自分の中の悪魔に自身を(ゆだ)ねた。百歩譲って歪んだ理由が不幸でかわいそうであるとしましょう。ただ、ほぼ同じ位置にいた妹、つまりはあなたの母親はどうですか」
「環おばさまは強い人だよ。全部、責任を負って、つらくても自分から逃げることのない人」
 雄士のかわりに晃実が答えた。

 環のいつもまっすぐな瞳が晃実を射抜いたのは曖昧な記憶の中。
『晃実ちゃん、ごめんね。まだ早すぎるのかもしれない。でもきっとまた雄士に会えるから……』
『いつ? いつまで待てばいいの?』
 さえぎって問いかけた晃実の頬に環の手が触れる。
『何度もごめんね。いつって返事はできないの』
『どうして、わかんないよ?』
『晃実ちゃんに嘘は吐きたくないから……』
 そこで途切れる記憶。
 そのなかで責める晃実から真摯(しんし)な眼差しが逸れることはなかった。

「そうだよね?」
 同意を求めた晃実に雄士は無言でうなずき、窓の外に目をやった。
 晃実はかすかに首をかしげる。
 露骨なしぐさではなかったが、雄士が意図的に視線を逸らしたと思ったのは気のせいだろうか。
「そうであれば、海堂に同情の余地はありませんよ」
「自分の(おもむ)くまま、何も云い訳にはならないほどのことをやってる。自力での更正が望めるような人間じゃない」
 視線を戻した雄士は何も変わりなく、晃実の同情を払拭するほど断言した。
「うん」
 晃実のやさしさは厄介(やっかい)だ。
 晃実は納得したようだが、雄士と粋は同じことを思った。晃実の性格は闘いには向いていない。だからこそ、恭平が、粋が、そして雄士が必要だ。
 晃実のやさしさを間違った方向に持っていってはいけない。本来、やさしさに間違いなどないはずが、この闘いのなかでは、そのやさしさが晃実を無防備にして、晃実自身を追い詰める。
 もちろん、方向性について、最終的な判断を下すのは晃実自身なのだが。
 そしてもう一つの気がかり。
 闘う方法を間違わなければ――。
 将史が策ありげに告げた言葉が引っかかる。

「もう待たなくていいよね」
 晃実が不意にポツリとつぶやいた。
 その様子から、何かを不安に思っていることがわかる。
「どうした?」
 晃実の両側の頬に手を当て、雄士は探るように顔を見つめる。
「わかんない。ただ……」
「ただ?」
「泣いてる」
「泣いてる?」
「誰が泣いてるんですか?」
 雄士と粋がともに問い返すと、晃実は雄士の手を離れ、社長室の奥一面の窓辺に佇んで遠くを見つめた。
 繰り返される願い。
『ユーを返して』
 その声はいつか交信した廻り合うべき声。
 今、晃実から問いかけても応えることはない。
 その願いがだんだんとその声の主自身を閉じこめている。
 早くしないとその声は『ユー』が返っても気づく心を失くしそうな気がした。
 在り処(ありか)のはっきりしない心がなぐさめる声も届いていない。

 晃実は振り返って雄士を見上げた。
「雄士、聞こえない?」
「なんだ? いったい誰がおまえを誘っている?」
「ユーを返してって……」
「……シャイ……か……」
 雄士が思案げにつぶやくと晃実はうなずいた。
「たぶん。わたしの声が届かないの」
 雄士は晃実の口調から敏感に察した。
「……通じたことがあるのか?」
 陽炎(かげろう)のように薄っすらと記憶の中に存在し、恭平が血の破約をしてもまだなお鮮明にならないなかで、案じていた『あの子』が雄士であると確信したように、雄士の記憶を閉じたあの場に存在したけっして捕まえることのできない影は、今、シャイとグレイであることを晃実は確信している。
 雄士と融合したとき、シャイを避けるように雄士の奥底に隠れた自分には、記憶がないなかでも無意識に目を(そむ)けたい枢要(すうよう)な事実があると認識せざるをえない。それは疑いようもなく、シャイとグレイに密接に関係している。
「その時はシャイってわからなかったけど……ちょっとだけ」
 晃実が答えると、雄士もまたさっきの晃実のように窓の外に目を向け、貫くように彼方を見つめた。

「それにもう一つ、違う声も……」
「誰だ?」
「わからないよ」
 雄士は眉をひそめた。
 対して晃実は困った顔をする。隠し事をするなと云った雄士の言葉を思いだすが、本当にわからないのだ。
 ただ一つの確信を除いて。
「なんて云ってるんですか」
 黙って様子を窺っていた粋が訊ねた。
「信じて……って。それに誰かを求めてる……嫌な感じは受けないよ」
「……そう見せかけてるってことは?」
「ない。それだけははっきりとわかる」
 だから余計に不安を感じた。すべてが今に集結している。
「確かだな?」
 雄士が窓際の晃実の傍にきて念を押す。
 晃実は笑みを漏らすと、頬に添えられた雄士の手に自分の手を重ねた。
「雄士って意外と心配性だったりする?」
 雄士は顔をしかめた。
「からかってるのか?」
「ううん。うれしいんだよ」
 素直な感情をそのまま口にする晃実は、雄士の不機嫌さをすぐに解除した。

「仲のよろしいことで。ですが、事は急ぐんでしょう? やるべきことを早急に整理すべきではありませんか」
 至って冷静に口を挟んだ粋を、晃実が何か云いたそうに見る。
「なんですか」
「粋……仲間外れにしてるわけじゃないからね。粋も手、繋ぐ?」
 ……。
 晃実の差しだした手を見て、今度は粋が何か云いたそうにしている。
「どうしたの?」
 邪気のない顔に、粋はため息を吐く。
「いいえ!」
 ボクは嫉妬したんじゃない。二人を冷やかしたんですよ!
 口にはせずに心の中で訂正した。
「さすがのおまえも、晃実には形無しのようだな」
 雄士が口を歪めて粋を見やった。
 ふーん。おまえも、ですか。
 冷静に、的確に判断できることはある意味で損だ。
「ボクが反論しないのはあなたのプライドを救うためですよ」
「そんな気遣いは無用だ。プライドは自分で守れる」

 自分の心底にも気づかないあなたが、ですか? それとも。
「あなたは認めたんですか?」
「なんの話だ?」
 粋は視線を晃実に送る。
 雄士もまたそれを追い、そして粋に戻した。
「迷う必要はない」
 記憶を取り戻して落ち着いたのか、認めるどころか雄士には不敵な様が見える。
「ねぇ、二人でなんの話してるの?」
「その言葉が本物であることを祈るのみです」
 晃実の質問には答えず、粋は雄士を(けしか)ける。
「何を見当つけているのかは知らないが、おれは迷うわけにはいかない」
 雄士は肩をそびやかして答えた。
 では、その意思が揺るがないものであると認めておきましょう。いや、そうあってもらわないと困る。
 云い負かすことだけがボクの悦楽ではない。
 予測がつかない晃実の行動は大いに楽しみを提供してくれる。伴う雄士の当惑も。その楽しみは誰にも奪わせない。
「では行きましょうか」

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