Xの記憶〜涙の見る夢〜
第6章 前夜 7.辻と褄
朝になって下に降りると、すでに粋が起きていて、ベーコンエッグの香ばしい匂いに迎えられた。すでにといっても八時はとうに過ぎている。晃実はトーストをセットして、テーブルの準備をした。
すぐあとから降りてきた雄士と三人でテーブルにつき、他愛ない応酬のなかでゆっくりと朝食をとった。
「ねぇ……」
食べ終える頃、晃実が声をかけると、雄士と粋はほぼ同時に顔を上げる。
「わたしと恭平の目的は……というより、恭平が本当のところどう考えていたのかはわからないけど、わたしが考えてたのはDAFがやってることを世間へ公表することだった。証拠書類を掲示して直訴するつもり――」
「だめですよ」
「だめだ。極悪なのは海堂将史だけじゃない」
二人は即座に同じ意見を示した。
「そうだよね」
晃実は笑った。その瞳には笑みと反比例して残忍な光を宿す。
「海堂将史には世間から葬り去られる屈辱を与えようと思ってたけど、公表したらまた別の誰かが同じことを始める。じゃあ、海堂にとって何がいちばんの苦しみになるの?」
そう云ったとたん、椅子に座っている晃実の膝の上にブレスが飛び乗った。まるで諭すかのようにブレスが鳴く。
いつもにない晃実の発言に、正面にいる雄士は鋭く目を細め、隣に座った粋は懸念した表情を浮かべる。
「……ごめん。たまに全部をめちゃくちゃに切り裂きたくなるような気分になるの。わたしはやさしい人間じゃないんだよ、たぶん」
「これまでの晃実の苦しみを知っているなら、誰もそれを残酷だとは思いませんよ」
雄士は何も云わず、脇に置いていた煙草を一本取ると、めずらしくライターは使わずに異能力で火をつけ、しばらく考えこむように眉間にしわを寄せていた。
「晃実、昨日は云い忘れたけど隠し事はしてほしくない。今のような、思っていることも含めて」
一服すると、雄士はごく真剣な顔で云った。
晃実は首をかしげる。
「ボクもそう思ってます。勝手に事を進めたりするのは絶対に止めてください。心臓に悪いですから」
驚いたことに、いつも雄士の揚げ足を取る粋が雄士の言葉に賛同した。
もっとも、二人は――自身たちが気づいているかどうかは別として、根本的には同じ考えを持っている人間なのだ。特に、晃実に関しては。ついでに云えば、心臓の健康状態なんて気にする必要がないくらい、このなかでは粋がいちばん図太いはずだ。
「隠し事って……したつもりはないけど……ああ、もちろん、協力者じゃなかったときは別だけど」
嘘吐け、というような批難の眼差しを受けて、晃実は慌てて付け加えた。が、それでも二人は納得できない様子だ。
「じゃあ、昨日のことはなんなんだ。聞いてなかった」
「あれは云う機会がなかっただけだよ。それに、引っかかることはないって思ってたし」
また昨日のことを蒸し返して不機嫌な雄士の顔色を窺いつつ、晃実は云い訳をした。
「それでも独りで向かうのはいただけない」
「晃実には四六時中の見張りが必要ですね」
晃実を完全に子供扱いした粋の発言だった。
今度は晃実が不機嫌になる。こうなると決まって晃実は突拍子もないことを、行動で、または言葉で示す。
「そういうことなら、わたしが雄士のところで寝ようが、もちろん文句云わないよね」
ついさっき、この場で、粋はこの件に関して雄士をからかったのだ。それだけに粋は返答に詰まったすえ、仕方なく肩を窄めた。
「よかったね、雄士」
晃実はすまして雄士ににっこり微笑む。
このなかでいちばん厄介なのは晃実だ。
それまで、それが粋だと思っていた雄士は考えを改めた。
まあいい。あの感覚のあとの様子からすると、晃実がこれからもそれを本気で実行するのか疑問でもあるし、少なくとも粋からの攻撃事由は一つ減った。
雄士は肩をすくめると、晃実をじっと見つめた。
それはそれとして、たまには薬も必要だろう。
雄士の口もとがにやりと笑みに歪む。
「……何?」
「けど夜中は怖がってたみたいだけどな……って云うよりは……恥ずかしい、か?」
雄士の思わぬ攻撃に、晃実は口を開きかけ、またすぐに閉じた。
意地悪だよ。
困惑したくちびるがかすかにその言葉を象った。
「何をやったんですか?」
粋が口を挟んだ。
「男と女が一つのベッドに入ればやることはなんだ?」
「そういうことですか」
粋は平然と応じ、これまでと打って変わって余裕をかます雄士を窺うように見やった。
「粋、違うから! 説明するよっ」
「別にいいですよ。だいたいの見当はついていますから」
「……見当ついてるっ……て?」
晃実が惚ける傍らで、粋は確信に満ちた視線を雄士に送る。
「あなたは記憶を取り戻したんですね」
雄士は訝しく粋を見返した。
「粋! どうしてそれ……」
「ボクの得意技ですよ。晃実が再生してくれたとき、晃実の思考を探査して経緯は大方つかんでました。まあ昨日のような突発的なのはともかく、ボクに隠し事をしようと思ってもそれは無理ですから」
粋はきっぱりと云いきった。
煙草を吹かしている雄士はおもしろくなさそうな表情で粋を見やっている。
「粋……そうやってなんでもわかりすぎると人生つまんないよ」
晃実は渋い顔をして云った。
「つまらないなんて思ったことありませんよ。特に今は、ね」
「どうして?」
「おまえがいるから、だとさ」
雄士は視線で晃実を指しながら、粋のかわりに答えた。
「……どういう意味よ」
誉め言葉ではないことは明白で、晃実は剥れる。
「誤解しないでください。正確に云えば、晃実を取り巻く状況に興味を持っているんですよ。もちろん、ボク自身も含めて」
「……ふーん……」
端から粋のまともな答えなどを聞けるとは思っていなかったが、それでも晃実は納得がいかないといった相づちを打った。
「それで、あなたはどこまで知ったんですか?」
粋は雄士に向かい、穿鑿した眼差しを向けた。
「およそのことは」
「およそ、ねぇ」
「何が云いたい?」
「覚悟はあるのかと思っただけです」
「……おまえは何を知ってる?」
雄士は目を細め、半ば睨みつけて粋を測るように見やった。
「何も知りませんよ。経緯はわかりませんが……噛み合わせているだけです」
疚しいことはないと云うかわりに粋が肩をすくめた。
何かわかるかもしれないと、粋の答えに期待していた晃実はがっかりと肩を落とす。
ちょうどそのとき、めったに使うことのない携帯が、リビングにある空っぽの書棚の中でカタカタと音を立てた。
「たぶん、先生」
晃実はつぶやいて書棚のところへ行くと、引き出しの中から携帯を取りだす。
思ったとおり、先生からだった。
『晃実、雄士くんのおばあさんが、雄士くんと連絡を取りたいと云ってる。折り返し携帯にかけさせるから雄士くんに取り次いでほしい』
「わかった」
電話は手短に終わり、晃実は雄士に携帯を差しだした。
雄士は問うように晃実を見つめた。
「雄士のおばあちゃんが何か話したいことがあるんだって」
晃実がテーブルの上を片づけ始めると、粋も手伝おうと立ちあがった。
まもなく、携帯がまた振動した。
「はい、雄士です。どうされたんですか」
『さっき、享くんと遺伝子の話をしてて思いだしたことがあるの。破棄しないと利用されるかもしれないと思って……』
「……享くんて?」
『……あら、ごめんなさい。私の知り合いで遺伝子関係の仕事についている人なんだけど……』
急くようにとうとつに話しだした市絵だったが、雄士に問い返されて自分の失言に気づいた。
「それで?」
雄士はそれが誰なのかを容易に見当をつけたが、素知らぬふりで市絵を促した。
晃実が食器を洗っている傍で粋が見守るなか、雄士の表情は時間がたつにつれ険しくなっていく。
なるほど……そういうことですか。
すかさず盗み聴きをした粋にとって、辻も褄もすべて合致した。
『ごめんなさい。親の勝手な判断で、環も知らなかったことなのよ。あなたがお腹にいた最初の頃はまだ頭痛が酷くて、私は環の検診に付き添ったの。当時は事情をまったく知らなくて、ただ悩んでいることは知ってたから、それから毎回、立ち会うようになったわ。最初は順調だったんだけど……実際に稀にあるケースとして環には吸収されたんだと思わせたの。あなたに悪影響があるなら処置することも考えられていたけど、幸いに何事もなかった。帝王切開した時はそれ以上の、誰もが思ってもいなかった状況で……ドクターさえ卒倒しそうな顔で……私は報告を受けたの。ドクターはすべてにおいてめずらしいケースだと仰ってたけど、異能力者であるからこそありえたのかもしれない。妊娠中も出産後も女性にとってはデリケートな時期だから、あとで知らせようと思ってたわ。せめて何か残しておきたいと思ってあなたのと一緒に保存したの。告白する機会を窺っているうちに、環から深刻な事情を聴かされて、洸己さんにも話せなくてそのままにしてしまってたわ。このことを知っているのは、私と当時の海堂総合病院の産科にいた医療関係者だけ。権力を持ってしまうと余計なことをしてしまう。そのうえ、忘れていたなんて。私も将史と同じように傲慢なんだわ』
「そんなことはありませんよ。それどころではなかっただけのことでしょう。その件はおれが調べます」
携帯を切ると、雄士はその場に佇んだまま考えこんだ。
「雄士、どうかした?」
雄士は心配そうに問いかける晃実に顔を向ける。
何かが見えそうだった。
カウンターの向こうで晃実とともに食器を片づけている粋に目を向けると挑むように見返される。
聴いていたに違いなく、雄士はわずかに顔を歪めた。
「いや……」
――ユ――――――ッ!
雄士が云いかけたのをさえぎるようにその“声“が割りこんだ。
地鳴りのように鈍い音が振動とともに足もとに伝わってどこまでも揺るがし、空間は淀み、禍々しい空気が瞬時にして広範囲に行き渡っていく。
三人は顔を見合わせた。
「雄士、これは……」
「シャイだ」
雄士は即答した。
テレビが自動で立ちあがる。マンションのあちこちの部屋から驚きの声を聴き取った。この部屋だけではないらしい。
テレビではこの時間帯を占領しているワイドショーのアナウンサーが、いつになく緊迫した様子で臨時ニュースを繰り返している。
互いに傍に寄ってテレビに目を向けていた三人は再び顔を見合わせる。
『富士山の火山活動が急激に活発化しています! 今後の情報に注意してください!』
映像は伴っていないが、チャンネルを変えてもどこも同じ情報を流している。
「シャイはミームを発動したんですね」
これがDAFの仕業であることを、粋は口にして明確にさせた。
当然、三人ともがその報道に驚くことはなく、晃実と雄士は粋の言葉に頷いて同意見を示す。
活火山であるとはいえ、富士山がこんなにとうとつに活動を開始するとはとても考えられない。
加えて、地と空気を揺るがす、並みの人間では感じない程度の戦ぎは自然の産物ではない。
「雄士……」
案じるように雄士を見上げると、なぜか晃実にも同じ視線が向けられていた。
「……?」
晃実がかすかに首をかしげると、雄士の右手が左の頬に触れる。
市絵の告白を鑑みれば求めあう理由がわかりそうな気がした。が、シャイが動いた今、もう確かめる時間がない。
「すべては終わってからだ。それから始めよう」
「……何?」
「この闘いは終結という勝利のためにある、ということだ。おれの言葉を忘れないと約束してくれ」
雄士の瞳にはこれまでに見たことのない真情がある。
「……わかった」
瞳を交わしたまま晃実が応えると、雄士もうなずいた。
「では、一気に行きましょう」
憂慮するように見守っていた粋が声をかけると、三人は同時にそれぞれの片手を差しだした。雄士の手の上に晃実の手、その上に粋の手と重ねた。
それぞれのエネルギーが重なり、三人を包みこむ。
「行きます!」
晃実の声が合図になる。
フッ――。
彼らが転移に入って消えた直後、その場の空気がわずかに歪む。
ニャーン。
ブレスがその空に向かって案じるように鳴いた。