Xの記憶〜涙の見る夢〜

第6章 前夜  6.甦る渇望

 雄士が選んで以来、晃実の中に切望が宿った。
 それは恭平が云った、漏れだすというような感覚。思考ではなく、まったく別のところで動く心。
 それが失っている記憶と関連していることは疑いようがなく、記憶を奪われる必要があったということは、そうされるきっかけがけっしていいことではないということ。
 それだけが鮮明になっていく。
 だからこそ、今、その切望を叶えたい。知ってしまうまえに。
 知ってしまったら――。

「ブレスがいるだろ?」
「ブレスはわたしが眠るとどっか行っちゃうから。今もいなくなってる」
 雄士はタンクトップに短パンという晃実の格好を一瞥(いちべつ)した。
「……普通、その年で男と一緒に寝るか? お互い、小学生のガキじゃないんだ。そのさきがどうなるかくらい知ってるだろ」
「でも、雄士は年上にしか興味ないって云った」
 雄士は額にかかった前髪をかきあげる。
「おれが云ったのは、遊ぶには年上が都合いいってことだ。第一、今は年上とかそういう問題じゃないだろ」
「だめなの?」
 普通なら悲しみや願いを込めて云うべきセリフを、晃実は無表情、尚且つ無感情な声で訊ねた。
 雄士はしばらく黙って答えなかった。が、結局は晃実のその心許ない様に負ける。
「……ったく、だからガキだって云われるんだ。粋にいったいなんて云い訳するんだ」
 それは許可を下ろした言葉に違いない。
 晃実は笑みを浮かべ、そう広くないベッドにあがる。
「でも、粋は昨日のことは何も云わなかったよ」
「おまえには、な」
 雄士が横になりながら云った。
 晃実は目を丸くして、次の瞬間にはクスクスと笑った。
 雄士を向いてその(わき)の下に丸くなると、晃実の躰にタオルケットがかけられた。

「雄士、わたし、恭平に記憶を操作されてたって云ったよね……それで……わかったことがある」
「なんだ?」
「……雄士に……云わなくちゃいけないことがある……」
「あのとき、云いかけてたことか?」
「うん」
 その返事のあと、雄士は告白を待ったが晃実はなかなか口を開こうとしない。
 雄士は左の肘をついて躰を起こした。見下ろした晃実は姿勢を変えず、目を伏せたままでいる。
「どうしたんだ?」
「なんだか……怖い」
「何が?」
「わからない。云わなくちゃいけなことはわかってるけど……そうしたら…… なんだか……独り……取り残されそう……記憶がないのって……怖いよ……ね?」
 雄士はしばらく晃実の横顔を眺めていたが、つとその頬にかかる長い髪をはらった。
「云いたくないなら今じゃなくてもいいだろ」
 その言葉に少なくとも自分の選択は間違っていない気がして、晃実はゆっくりと目を開き、それから起きあがった。
 (なら)って雄士も起きあがる。
「ううん……大丈夫……」
 晃実はかすかにためらいを見せた。

「わたしと雄士はずっと前に会ってる」
 薄っすらとそう思ってはいたものの、事実として伝えられると、雄士の中に安堵と畏れが相まみえる。
「それに恭平も。雄士の記憶がないのは……わたしのせい。わたしが閉じた」
 晃実がおずおずと告げると、雄士はわずかに顔をしかめたが、何も云わずにうなずいた。
「今からそれを解く。どこでもいいから傷をいれて」
「わかった」
 雄士は手のひらを上に向けて左前腕の中央に一筋の傷を入れた。出口を待っていたように血がぷっくりとふくれる。
 晃実も指先に傷を入れると、傷口から流れる血を雄士の傷口に垂らす。

 どくんっ。
 意思を持ったように晃実の血液が雄士の躰の内部を侵食していく。
 血管が息衝き、共振していく感覚に伴って汗が噴きでる額に晃実の両手が触れた。
 フラッシュバックのように数えきれない情景が脳裡をよぎる。
 耐えられないほどの熱が体内を覆い尽くし、飢えた衝動が躰中を駆け廻った。

    ユウちゃん――。

 何度もそう呼ぶ声。

    ねぇ、何やってるの?
    ユウシッ、触るなっ。
    秘密にしてくれる?
    誓いの印に契約すればいいんだ。
    あたしたち、会えなくなるの?
    なくしてあげる。
    ぎゅってして。
    さよならみたいだ。
    ユウシ、ごめん。
    父さん、放してよ!
    それに向かうには小さすぎるんだ。
    ごめんね、雄士。
    お願いだよ!
    ぼくが守るよ。
    怖がってるんだよっ。
    その時が来るまで。
    ぼくが行かなきゃっ。
    約束だ。

 雄士の瞳が驚愕に開く。
 父さん……。恭平……おまえは……。

    雄士、晃実の記憶はおまえが封じるんだ!
    けど……!
    今は閉じこめないと、誰も暴走を止められない。
    僕が一緒にいてやる。そうしたら……。
    おまえは許せるのか? 責めることはないと誓えるのかっ。
    ……。
    すぐに答えられないような迷いは必要ないっ。
    迷いなんかじゃない。僕は……。
    見ろっ。この状況を抱えて晃実の精神状態が普通でいられると思うか?!
    恭平、どうして一緒にいられないんだ?!

    まだその時じゃないんだ。力が足りない。わかってるはずだ。
    父さんたちが死んだ時、僕は血の契約で晃実の記憶を操作した。
    けど、晃実は自力で記憶を取り戻した。
    それに引きずられておまえも記憶を取り戻した。
    それくらい、感情が強すぎる。
    今のおまえは間違いなく、晃実を制御するどころか逆に引きずられる。
    だから! おまえもぼくも晃実も、成長しなくちゃいけないんだ!
    晃実の記憶はおまえに預ける。
    PROMISE(やくそくだ)――おまえに誓うよ。
    おまえがまた晃実を選ぶまで絶対に晃実を守る。

 信じられない光景が記憶として雄士の中に鮮やかに甦る。
 弱音を吐くなら、信じたくないと云ったほうが正しいのかもしれない。

    偉大なる光――転じる先を間違ってはならない。
    雄士、答えはおまえが出さなくちゃならない。
    その答えを父さんは信じている。

 恭平、おまえは……何を見たんだ?

 雄士の顔によぎるわずかな感情を見逃さず、晃実は額に置いた手を頬まで滑らせた。
 その動きに反応して、すべての見えるものを通り越していた雄士の瞳が晃実を捉えた。
 同時に堪えきれず、雄士の瞳に愕然(がくぜん)とした様が映る。
「雄士……?」

 母さん……。

 晃実の瞳を通して、あの惨劇がまざまざと脳裡に映しだされた。

    私が犯した判断の過ちのつけは、いつまで残り、続くのかしら。
    私の身に何が起きるとしても、悲しみも後悔も要らない。
    すべて私自身が導いたことだから。
    ただ、私の罪を雄士に押しつけたくはなかった。
    幼いあなたに苦しみを与えてごめんなさい。
    どうか、何があろうと二人を守って。

 耐えられるのか。
 小さすぎる力量の理由。

    雄士、約束してくれ。絶対にシャイを見棄てないことを。

 グレイ、おまえは……思いだしたんだな……。

 見棄てる理由なんてない。それどころか……。
 それよりも……繊細すぎる、甘すぎる心のどこでそれに耐えられるのか。

「雄士……どんな感じ?」
 晃実がためらいつつ、長い沈黙を破ると、雄士は瞳を閉じた。
「記憶が……溢れそうだ」
「つらい?」
 雄士はその言葉に再び目を開けた。
「……いや」
 雄士は短く否定した。
 つらい――?
 何よりもまずそう訊ねた晃実の言葉の裏に、彼女が宿してきた運命や使命感、そして何よりも畏れと闘ってきた苦しさが見えたような気がした。

 封じられていた記憶は、事実の深刻さを雄士に叩きつける。
 記憶の封印が解けるとともに自分の中に甦った能力は晃実をらくにさせられる。
 が、その一方で想いはどこに向かう? 隠したままでいられるのか。
 隠せなかったとき、晃実は何を選ぶ?
 永遠の孤独か。
 人は所詮、すべてが孤独な生きものだ。過去から未来に(わた)る共存はありえても、永遠の共生はありえない。
 善を邪魔する悪は、幸をさえぎる欲は、すべて感情がもたらすもの。その愚かな人間の感情が、間違いなく、時を限りある未来に導くだろう。人の(ごう)はけっして途絶えることはない。
 だが今、業がそうするまえに悲しみが破滅を招くかもしれない。
 溢れる力を破滅という孤独へと、誰がいつになぜにそれを望むのか。

 自分を凝視する雄士の眼差しに晃実は戸惑った。明らかに晃実が話したこととは別のなんらかの事実を雄士は思いだしている。
 やはり感じずにはいられない取り残された感覚。
 雄士は何を知ったの?

「おじさまたちのこと……わたしが云ったことは間違ってなかった?」
「ああ、間違ってない」
「わたしに話してくれること……ある?」
 問いかけると、あまり感情を顕わにしない雄士がはっきりとした迷いを見せた。
 怖い……。
 雄士の頬から手を放すと、逆に晃実の頬が雄士の手に包まれた。
「大丈夫だ」
 晃実の感情を察したように雄士がなだめる。
 晃実に向けられた瞳には悲しみ、後悔、自責、そして晃実と同じ切望が宿っている。
「雄士?」
「いつか……話す。覚悟が必要なのはおまえじゃない。おれだ……約束する」
 そう云った雄士の声にも瞳にも真摯(しんし)な心が見える。晃実はほっと肩の力を抜いた。
「うん、わかった。ねぇ……雄士……」
「なんだ?」
「抱きしめて」
 雄士は思ってもいなかった願いに顔をしかめると同時に、それまであった感情が瞳から消える。
「だめ?」
 雄士が答えるまえに晃実は文字どおり、駄目押しをした。
 すべて記憶を取り戻した今、抵抗する理由も迷う理由もなくなった。むしろ、劣情と見紛うほど、はじめて出会った幼い日と同じ飢えを感じる。
 くぐもった笑みを漏らし、晃実の頬から手を放すとその背に腕を回した。
 晃実の中にずっとあった欲求はやっと叶った。腕を上げて雄士の肩から後ろに回すと、晃実は顎をその肩に載せた。
 互いの渇望が、晃実の纏う一枚の薄い布を通り越し、無意識のうちにふたりは鼓動を重ねていく。
 互いの躰が互いを侵して境界線が混じりあうような錯覚(さっかく)

――雄士っ。
 晃実の中に突如として見知らぬ感覚が生まれる。
 一方で雄士の中にも同じ感覚があった。それは人間が交わす快楽に似ていた。
 んっ。
 くっ。
 耐えようとすればするほど、抱いている腕を緩めることができずにますます深みにはまる。
 鼓動が破裂しそうな勢いで共鳴音を奏でる。
 何が起きてる?
 逆らうほどに巨大な何かがふくらんでいく。このままではあの時のように……。
――晃実、逆らうな。感覚に任せるんだ。
 その言葉を待っていたように晃実は感覚の中に身を投じた。
 晃実が放った悲鳴に似た呻きを追って、雄士も溢れる感覚を解き放つ。
 体内で起きた爆破とともに激しく打つ鼓動がすれ違い、腕の呪縛が解かれた。
 荒い呼吸を繰り返しながら、互いの瞳に見入った。

「大丈夫か?」
 呼吸が落ち着きを取り戻し、ようやく雄士は口を開いた。
「……雄……士……さっきの……何……?」
 いったんそこに入ったら、沈んでいるのか浮遊しているのか、止められない感覚。それどころか、ほかには何も考えられず、ただ身を任せたい、もっと、という我慾(がよく)が満ちた。
 晃実は困惑しながら問い返した。ともすれば上気しているのとは別に顔が赤くなっている。
 当然だろう。似た感覚を知っているおれさえ戸惑っている。
「……わからない」
 なぜ、ここまで惹かれるのか。
 まだ知らないなんらかの理由がある。
 雄士は漠然とそう思った。
 再び手を上げて頬に触れると、晃実の躰がぴくりと慄いた。

「眠れよ」
「……うん」
 触れるのが怖くなった晃実はベッドに横たわると、今度は雄士に背を向けて丸くなり、目を閉じた。
 しばらく眠れないようだったが、やがて晃実の呼吸は規則的になった。
 今ある自分と昔あった自分のギャップを埋めきれず、雄士が眠りにつくまで、更に時間を要した。

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