Xの記憶〜涙の見る夢〜

第6章 前夜  5.和解

 晃実がコーヒーを飲もうとカップを取りだしているところへ、二人が戻ってきた。
 粋はすぐに晃実の傍へ来て自分のぶんを用意した。
 雄士はといえば、このうえなく不機嫌な顔をしてリビングの壁に背を預けてもたれている。
「飲みたいんだったらつくってあげようか」
 少しもそんな気はないという気持ちを込めて晃実は申しでた。
「晃実」
 さすがに粋が咎める。
「おれは淹れたやつしか飲まない」
「あっそう。ここにはコーヒーメーカーはないよ。わたしはあの音が大っ嫌いなの」
 気まずいどころではない険悪な沈黙に制された。

「いったいなんで奴が来て、それをおまえだけが知ってたんだ」
 雄士は不自然な物音を聴き取り、それから粋は晃実が部屋にいないことを確認し、二人はその音をたどって転移した。
 そこではじめてわかったのだ。DAFの異能力者が攻めに、もしくは探りに来ていることを。

「まえに住んでた部屋、恭平がすべてを話すなら、そこに来ると思った。だから、(しるし)を残してだれかが侵入したらわかるようにしてた」
「標?」
「そう、血の標。角に血を落としておく。三角でも四角でもいいんだけど、その枠の中に入ったら異変を感じるの。乾いたら役に立たないけど、わたしの血は乾きにくいから……わたしの再生力のせいだと思う」
 二人は驚きが隠せないようで、晃実は首をすくめながらフォローした。
「それはともかく、一人で行くことないだろ」
「だって向こうも一人だったよ」
「そういう問題か!」
 雄士は吐き捨てるように怒鳴った。
 晃実は怒りを避けるように窓の外へ目をやった。

「……もし、わたしが何かの理由で闘えなくなったとき……雄士も粋もあとをついでくれる気ある?」
 晃実は軽く問いかけたが、その声にはこれまでになく真剣さが含まれている。
「そうじゃないなら、おれはなんでここにいるんだ?」
 先刻とは打って変わって静かな声で、雄士は問い返した。
「ということです。不満は限りありませんよ」
 恨みとか憎しみという深い言葉は使わず、不満と云ったのが粋らしくて晃実は笑う。
 晃実は粋と二人、コーヒーを持って席に着いた。

「標に引っかかったのが一人を超えてたら、ちゃんと一緒に来てくれって頼んだよ。相手は一人だったし、ちょっと苛々してたから()け口にちょうどよかったの」
 雄士はやっと壁から背を離すと、晃実の後ろに立って彼女の顎を両手で包んで上を向かせた。
「おまえの実力は承知してる。けど、ときどき集中力をなくすだろ」
 雄士は上から覗きこむようにして云った。
「そんなことないよ」
「そんなことがあるんだ」
「じゃあ、気に留めとく」
 晃実は微笑んで云った。
 雄士は()り傷ができている晃実の頬を撫でた。
「顔に傷をつくるなよ。女だろ」
 この程度の傷ならば、コーヒーをつくることと同じくらい簡単に治せる。心配など要らない。それを承知しているはずの雄士の言葉に晃実は満足を覚えた。最後の一言は、夕食のとき喧嘩したことに対する雄士流の謝罪だと察した。
 かすり傷は雄士の手の下できれいになる。

「インスタントでいいよね」
「ああ、ブラックで」
 晃実は立ちあがってキッチンへ行った。
「喧嘩はほどほどにしてください。晃実は感情的になると何をしでかすかわからないんですから」
 雄士が椅子に座ると、粋は晃実に聴こえないよう、声を潜めて注意した。異能力者ゆえ、聴き取ろうと思えばそうできる無駄な足掻きだが。
「そんなことは百も承知だ。おまえもわかってるならどうにかしろ」
「おや、あなたの楽しみを奪っては申し訳ないと遠慮してたんですが」
 雄士は眉間にしわを寄せる。
「余計な気遣いは止めろ」
 粋はニヤニヤするだけで了解はしない。
 そのうち晃実が戻ってきて、雄士にコーヒーを渡した。

「タイプN2に何をしたんですか」
「……『N2』って?」
「あの異能力者の名前みたいなものですよ。云いませんでしたっけ。DAFは手に入れた順番で、異能力者にNORMAL(ノーマル)タイプとして番号をつけたんです。ボクはタイプARISE(アライズ)、『出現する』という意味ですけどどういう由来かは不明です。略してAと呼ばれていました」
「ノーマルタイプの能力の差は?」
「ほとんどありません」
「わたし、N2を知ってた」
 とうとつな晃実の告白は一瞬、二人を驚かせた。が、経緯を考えれば知っているというのも当然のことだ。
「あり得ることですね」
「そう。最初はびっくりしたけど。入院してたとき、わたしや恭平より以前からいた子なの。いつのまにかいなくなっちゃって……死んだのかなって」
「けど、生きていた」
「うん。名前、栄太って……DAFは家族だけじゃなくて名前まで奪ってる。わたしも半分だけとられちゃってるし」
 聞かされた経緯をあらためて考えると、雄士は顔をしかめ、粋は案じるように晃実を見つめる。
「大丈夫だよ。わたしよりつらい思いしてる人はたくさんいる。人体への放射能の影響は最悪だから。異能力者になってもならなくても同じ……DAFのせいで障害を持ってる子が何人もいる。今もずっと、その子供たちもその家族も苦しんでいる。この闘いが終わったら、治してあげられるかなって思ってるの」
 最後には晃実が笑って云うと、粋は曖昧に微笑んだが雄士は硬い表情で黙りこんだ。

「あれって本気の力じゃないよね」
 晃実は長引きそうな沈黙を一掃しようと話をもとに戻した。
 先刻が本気なら、一対一の場合、必ずこちらが勝てる。ただし、相手の死を覚悟しなければならない。つまり、相手の死がないとこちらの勝利はありえないのだ。つらい選択を強いられる。
「本気を出してもDAFの異能力者は大した力は持っていない。所詮、操り人形だ」
「それって、雄士に比べてってことじゃないよね」
「無論、おまえらでも倒せる」
 粋は『でも』という言葉に心外だといった表情を見せた。
 晃実は雄士の自惚(うぬぼ)れる力とはどれほどのものかと思う。
「痛みという感覚がない以上、(きり)なく攻撃されることは覚悟しておけ。決着をつける方法は一つしかない。けど彼らを殺すわけにはいかない……そうだな?」
「うん。あの子たちに罪はない」
「問題は闘う方法ですね」
「違うよ。闘わないでいい方法を探すの」
 雄士と粋は(いぶか)るように晃実を見やった。
「何か案があるのか?」
 晃実は首を横に振った。
 雄士は呆れたように肩をそびやかした。

「N2にはね、伝言を預けたの。かかって来いって」
「こっちから仕掛けるんじゃないんですか」
「粋、恭平はすでにBOMを埋めこまれてる」
 驚いていた粋が更に目を丸くした。
 無言の問いに晃実はうなずいて答える。
「N2を探査してわかった」
「おれのせいだな」
 雄士は淡々としてつぶやいた。その裏で舌打ちをしたい気分だった。
 ミームとBOMと二者択一を迫られるのなら、解除の可能性を考えて間違いなく単なるミームを選ぶ。
 恭平からそうできる機会を奪ったのは、雄士の、おそらくは後先をそう考えなかった行動のせいにほかならない。

「それでも恭平が助かるならそれでいい。でも……」
「なんだ?」
「……恭平の記憶が……封じたはずなのに解けてる」
「どういうことですか」
「わからない。たださっき云ったとおり、記憶がなければここがわかるはずないの」
 晃実は階上を指差した。
 粋と雄士は顔を見合わせた。
「わたしがしたミームのやり方、間違ってたのかな……とにかく、そういうこと」
 晃実は平然としているが、強がりであることは容易に察することができる。
 記憶が戻ったのであれば、恭平は間違いなく自身の心とBOMの間で苦しむ。

「だからもう、どっちから攻めたって同じだよ。お互い、相手に駆け引きだとか罠だとか通用しないし」
「できれば、向こうが分散して攻めてくるほうがやりやすいってことか」
 雄士は晃実の策略の一部を正確に読み取る。
「うん。こっちから行けば間違いなく一度に九人が相手になるし……それに時期が早いほど、体力を回復していない恭平とは闘う必要がなくなるかもしれない」
 甘い考えだけどね。
 晃実は二人に聴こえるか聴こえないかというほどの小さく吐いた。


 晃実はふと目を覚ました。
 まだ外は暗い。真っ暗な中、異能力を使ってベッド脇のテーブルに置いた時計を見た。
 午前二時――丑三(うしみ)つ時。
 都市部からちょっと離れているだけなのに、気味悪いくらいに静かだ。
 閉めきった遮光性のカーテンは外にある人工の光も一切遮断し、孤独を際立たせる。
 浅い眠りの中で見た夢。
 孤独な夢。哀しみの中に独りだけ取り残された。
 起きあがると、片方の目から一粒の涙が手もとに落ちた。夢が現実と繋がる。
 晃実はふっと笑みを浮かべた。
 いつになったら強くなれる、晃実。
 自分に声をかけた。
 雫の跡を払い、真上の部屋へ転移した。

 タオルケットだけを纏い、ベッドに横になった人物にそっと近づいた。
 晃実はベッドの脇に(ひざまず)くとその額に触れた。
 彼はビクリと目を覚まし、自分に触れた晃実の手を強くつかむと何も身につけていない上半身を起こした。
 晃実と同じ力を使い、彼女の顔を確認すると、その口からため息が漏れた。
「晃実か。どうした?」
「……一緒に寝ていい?」
 露骨に告げられたその言葉を受けて、雄士は顔をしかめた。

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