Xの記憶〜涙の見る夢〜

第6章 前夜  3.戯れ

 晃実は粋の見事な手さばきを見ていた。
「粋、すごーい」
 手を叩きながら賞賛の声を出した。
「これくらいどうってことないですよ。踏み台に載る必要性がちょっと情けないですけどね」
 粋は軽く応じる。それと同じくしてその手は、包丁の扱いを軽々とこなしている。キャベツの千切りは芸術品並みの細さだ。
「ガキだから仕方ない」
 フォローを装って雄士が口を挟んだ。
 粋は眉をつりあげながらも、別のところで応酬する。
「家の中でなんの役にも立たないような男にはなりたくないですからね」
 晃実の拍手が響く。いつも中立の立場をとる晃実だが、このときばかりは粋の肩を持った。
「そのとおりだよね。いまの世の中、男女平等があたりまえなんだから」
「晃実、おまえが料理に関して男女平等を引き合いに出しても説得力に欠ける。自分ができないってだけだろ」
 雄士は変わらず書類に目を通していて、顔も上げないまま無造作に云われると、晃実は不快感に黙りこんだ。

 長年、(たずさ)わってきたとはいえ、確かに晃実が手がけた昼食はお世辞にも手際よいとは云い難かった。
 夏だからこその冷やし中華も、電気の節約と、麺を入れて沸騰したあとスイッチを切っていた間にトッピングの準備をしていた晃実は、そのことをすっかり忘れ、気づいたときには歯ごたえのまったくない団子麺になっていた。
「だいたい、異能力があるんだから電気じゃなくてガス台の方が都合いいのよね、ガスなんて使わなくても火は起こせるんだから。人間の便利って異能力者には必要ない」
 そうつぶやきながら晃実は弁解した。
 結局は粋がもう一度、新しいのを()でなおした。
 晃実が手がけたトッピングの卵は錦糸卵とは云えないほど線が太かったが、とりあえず味は問題なく美味しいものにはありつけた。

 不自然に黙った晃実と雄士を見比べて、粋は一波乱起こりそうな気配に身をすくめた。
 晃実は対面カウンターを回ってダイニングテーブルに近づいた。雄士が見ている書類の上に、サラダを盛ったお皿をこれ見よがしに音を立てて置く。
 どんなに不器用であろうがそれなりに頑張っている。無神経にケチをつけられる筋合いはない。
 雄士はゆっくりと顔を上げる。目が冷たく据わっている。

「……どういうことだ」
「手伝って! それって海堂の自室で充分に把握してるはずじゃない。だから、手伝って」
 書類を指差しながら、晃実は頼むというよりは命令した。
「……おまえ一人で充分だろ」
 雄士の脅すような眼差しにも怯まず、晃実はむっつりとして睨み返す。
 やがて根負けしたのは雄士で、大きくため息を吐いた。立ちあがると、晃実の頭に手を置く。
「わかった。一緒にやろう」
 一瞬にして晃実の表情が破願した。

「ったく。誰が晃実をこんなに甘やかしたんだ」
 粋の背後にある戸棚から食器を取りだしながら、雄士は独り言のようにつぶやいた。
 粋は凝った肉料理のソースに取りかかり、最後の仕上げに向かう。フライパンから香ばしいデミグラス風の匂いが立ちこめる。
「ボクはあなたが甘やかしてるんだと思いますけど」
「おれが?」
「そうです」
 焼ける音のなか、二人は、カウンターの向こう側でテーブルの上を片づけている晃実を見やる。
「晃実は恭平がいないことで弱っていますから。その状況下で自分より遥かに力量を上回る人間に――異能力者であるあなたが付いた」
「甘えたくなるのは当然か……」
「そういうことです」
 いつになく生真面目な粋の分析に雄士はしばし考えこむ。

 精一杯の虚勢を張って生きてきて――たとえ、それが本物であっても、まだ大人になりきれていない晃実にとってはどれほどの重荷だったのだろうかと思う。こう云う自分でさえ、処理できずに目を瞑ってきた事実がある。
 そう思い至って、雄士は忌々しさに顔をかすかに歪めた。ふと視線を感じたのか、晃実は顔を上げ、雄士が素早く表情を消すと、気づかなかった晃実は笑った。

「早くしようよ。おなか減った。それとも、わたしがあんまりきれいだから見惚(みと)れてるの?」
 晃実は近づいてきて、雄士の正面に立つと、覗きこむようにして云った。
 雄士は吹きだしたとも取れるような笑い方をする。
「その笑いはどういう意味?」
「きれいでかわいいってことだ」
 少しふくらんだ晃実の頬を両手で挟んで潰す。
「そういう軽いセリフ。雄士って女慣れしてる?」
「そういう(はす)っ葉な質問は、おまえには似合わない」
「ごまかした」
「この人はですね、晃実の云うとおり、中学の頃からすでに相当の遊び人ですよ」
 粋が横から口を挟んだ。
「誤解を招くようなことを云うな。遊びは相手も同じだ」
「認めた!」
「おれは十九でも、精神的にはそこら辺にいる奴より遥かに上だ」
 雄士は悪びれた様子もなく、当然だという顔をしている。
「けど、年上に拘っているところを見ると、マザコンの可能性ありますよねぇ。それが大人といえるかどうか疑問です」
 雄士は粋に向かって威嚇(いかく)するように目を細めた。
「別に覗いたわけじゃありませんよ。偶然何度か見かけただけです」
「マザコンじゃない。おれは母親を覚えていない。年上のほうが後腐れがないっていうだけだ。それより、おまえも相当に遊んでたようだな」
「ベッドの上は退屈ですから」
「退屈だって? ベッドの上がいちばんの快楽の場所だろ」

 また口喧嘩がはじまりそうな雰囲気だ。
 晃実は今までにない種類の苛立ちを感じて、今回は喧嘩を止めようとは思わなかった。
「いいわよね。二人ともお気楽で!」
 結局はその投げやりな、怒ったような云い方は、雄士と粋を黙らせることになった。

 それから始まった夕食会は、とても美味しいだの不味いだの、味わっていられるような雰囲気ではなかった。
 ただし、例外がいる。粋だ。彼だけは、自分が作った代物に満足して、ほかのふたりより(はし)の進み具合が早い。
 問題の一人、粋の横に座った晃実は箸を持った手をどう見ても義務感で動かしているとしか思えない。あとの一人、雄士は何気なく食事をしているが、かすかに苛々が見え隠れしている。
 晃実は自分でも怒りの理由がわかっていなかった。ましてや、ほかの人間にわかるはずがない。
 が、粋は先刻承知だ。だからこそ、二人の不穏な様子を気にすることなく食を進めている。

「晃実、いいかげんにしろよ」
 食事が終わる頃、雄士が沈黙を破った。
 雄士の正面に座った晃実は無視してお茶を飲む。
「粋、その口でなんとかしろ」
「あなたは女性の扱いには慣れていらっしゃるんじゃないですか」
「女、にはな」
 まるっきり子ども扱いを認める発言だった。
 パシャッ。
「わたし、何もしてないから」
 怒られるまえに、晃実はすまして無罪を主張した。
「……何もしていない、だと?」
 雄士の顔は、お茶を浴びせられて雫が滴っている。冷静な云い方はかえって凄みを増した。
「そうよ。手、動かしてないし、お湯呑み持ってるだけだよ」
「そんな云い訳が、おれたちの間で、まさか通用するとは思ってないよな」
 雄士は一言一言を強調して云い返し、目がきらりと光を放つ。
「凄んでも怖くない。粋のことは大人の扱いしてるくせに、わたしを子供扱いするからだよ」
「こういうことを平気でするからガキだって云ってるんだ」
 しばらく晃実は静かに雄士を睨んでいた。
 雄士はそれを平然と見返す。
 粋はそんな二人を静かに見守った。
 その時、晃実は、張っていた領域に異変を感じ取った。晃実にしかわからない異変だ。

「気分が悪いから寝る」
 とうとつに晃実は立ちあがった。
「人を不愉快にさせたまま逃げるつもりか」
「勝手に不愉快になってるだけでしょ。お互いさまだよ」
「かたづけろ。少なくとも自分のものは」
 晃実は目の前にある自分の食器を見下ろす。軽く手を触れると、(まばた)き一つでそれらを粉々にし、辺りに散らした。
「か・た・づ・け・ま・し・た。これで文句ないでしょ」
 反抗的に云い残し、次の瞬間には跡形もなく晃実は消え失せた。

「あなたは何もわかってないんですね」
 少しの沈黙の後、粋は訳知り顔で云った。
「おまえに何がわかっているというんだ」
「まあ、それなりに」

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