Xの記憶〜涙の見る夢〜

第6章 前夜  2.訪問者

 無言で書類に目を通していると突然、玄関の鍵が解除される音がした。
 雄士と粋は顔を見合わせた。晃実はまだ眠っている。
「鍵を持っているからには晃実の知り合いだろ」
 雄士は同意を求めると、粋は、
「たぶん」
と同調した。

 その人物はまっすぐに二人がいるリビングへと入ってきた。晃実の居住区に彼女以外の人の存在を知ってその足が止まった。
「晃実はどこに?」
 生やした口ひげを一擦(ひとさす)りすると、四十代と思われる男は戸惑いながら訊ねた。
「二階で寝てますよ」
 粋が答え、男は粋に焦点を合わせた。その目が驚きの表情を宿す。
「きみは恭平の双子の兄か?」
 男は粋の顔に幼かった恭平を見出した。
「あなたは?」
 雄士と再び顔を見合わせたあと、粋が問い返した。
 男は名乗ることにはっきりと迷いを見せる。
「私は、晃実の許可なしには名乗れないんでね。今は勘弁してほしい」
 男はそう云うと空いている椅子に座った。

「きみは躰の機能が不充分なように聞いていたが……晃実の力で?」
 粋を見て男は訊ねた。
「そうです」
「そうか。よかった」
 自分に云い聴かせるように男はつぶやいた。
「名前は訊けないだろうね?」
 自らが名乗っていないぶん、男は遠慮がちだ。
「かまいません。粋、です。晃実がつけた名前ですよ」
 彼はうれしそうにうなずくと、今度は雄士を向いた。
 不自然なくらい長く無言のままに雄士を見つめ、その間、男の顔には計り知れない複雑な表情が幾つもよぎった。

「きみは……雄士くんだな」
「……晃実から訊かれたんですか」
 一方的に知られているのは気分のいいものではなく、雄士はわずかに顔をしかめた。
「いや……晃実はきみに逢ったとは云わなかった。 とにかく、ここでこんなに早くきみに逢えるとは思っていなかった。昔のことは聞いたかね?」
「はい」
 雄士が答えると、感極まったように男はくしゃりと顔を歪めた。
「きみの父親は私の親友だった」
「父……と?」
 一瞬、雄士の冷静さが欠け、表情に驚きが満ちた。
「そうだ。いまだかつて、洸己ほどいい男に廻り合ったことはない。すべてを知っていながら何も力になれなかったことが無念でならん。環ちゃんのことも……」
 男は言葉を詰まらせた。
「母のことも?」
「ああ、知ってる。環ちゃんは最後まですべてが自分のせいだと苦しんでいた」
「母の死の経過はご存知ですか?」
「……いや、何も公にはされなかった。密葬で参列も叶わず……。正確に云うなら、公にされなかったんではなく、自殺として報告された」
「自殺?」
 雄士は不信に目を細める。
「私も信じていない。きみを置いて、そうするはずはないのに。DAFに追い詰められない限り。私は海堂からきみを救えなかったこともずっと悔やんでいた。ただ、そうしなかった理由がある」
「なんですか?」
「恭平が止めた。まだ早すぎる、と」
「早すぎる?」
「恭平は理由を一切、口にしなかった。その恭平がいない今、知ることができるのか……。いずれにしろ、今、きみはここにいる。それが答えだったのかもしれん。とにかく、晃実が独りでないことは救いだ。あの子は抱えているものが大きすぎてな……」
 男はやり切れないように顔を曇らせて言葉を切った。
「……きみたちがいるとわかって安心した」
 しばらく経ってからそうつぶやき、彼は微笑んだ。
 そのとき、心持ち急いで階段を下りてくる足音がした。

「雄士は大丈夫?」
 リビングに入ってくると、そこにいる顔ぶれを確認するまもなく、晃実は訊ねた。
「ああ、大丈夫だ」
 雄士の声にほっとした笑みを見せた晃実は、そこに予定していなかった人物がいることに気づいた。
「先生! どうしてここへ?」
「ちょっとおまえの顔を見に来た。独りじゃなかったんだな」
「うん。でもだめじゃない。もしもってこともあるんだから。これからは電話だけにしてね」
「ああ、わかったよ」
 晃実は雄士と粋の問いかけるような眼差しに気づいた。
「紹介、まだよね?」
 晃実の問いに先生はうなずいた。最低の約束事は守ってくれたと知って、晃実は安心する。もっとも、先生は約束を破ったことなど一度もない。
「先生はずっとわたしと恭平の面倒を見てくれてるの……名前とか職業とかは知らなくていいよね?」
 雄士と粋の様子を窺いながら、晃実はおずおずと云った。
 すると、何か云いた気な二人を見ていた先生がフォローする。
「私を巻きこみたくないという、母親たちの気遣いでな。晃実も恭平も私のことは何も知らんのだよ」
「それでかまいませんよ」
 粋は一度チラッと雄士を見やってから答えた。
「ね、先生? 独りじゃないし、だからわたしのことは心配しないでいい。危ない真似はしないで」
「ああ、わかったよ。それで海堂の反応はどうなんだ」

「あれだけ派手にやれば動かざるをえない」
 雄士が口を挟んだ。
「誰が何を派手にやったの?」
 少し沈黙したあと、晃実が誰にともなく訊ねた。
「晃実、おまえだ」
 雄士は呆れた声で答えた。
 晃実は眉間にしわを寄せて自分がしたことを考え廻る。
「何も派手にしたつもりはないけど……」
「そうですね。DAFを挑発するにはあのくらいやらないと、効き目はないでしょう。まあ、直接ドンを目の前にして、宣戦布告をするような人よりかは地味でしょうね」
 粋は晃実を(かば)った。が、そこで終わるわけがなく、もう一人のほうを槍玉(やりだま)にあげるところはやはり粋だ。
「誰のことを云ってるんだ?」
「晃実と変わらないくらい無鉄砲な人のことですよ」
「おれは考えがあってやってることだ」
「おや、誰があなたのことだと云ったんですか」
 雄士が怒りと苛立ちを抑えているのが見て取れる。晃実は止めようと口を開いたが、雄士のほうが早かった。
「じゃあ、誰のことを云ってるんだ?」
「あなたのことじゃないとは云ってませんよ」
 雄士は完全に粋のおもちゃにされてしまっている。いくら寛大さを身につけるとしても、やられているだけでは腹の虫が治まらない。何事にも我慢の限界がある。
「粋、おまえ……」
 あ――――っ。
 これ以上の不毛な口喧嘩を止めようと、晃実が叫び声をあげてさえぎった。

「ストップ! あのね、先生、この二人ってホントは仲がいいの。今のは、この二人流の娯楽なんだよ」
 まずは先生が心配しないようにと弁明した。
「そうか。まあ、喧嘩するほど仲がいいとは云うな、確かに」
 本心から彼がそう云ったのか、はっきりはわからず、雄士は抗議もできない。
「とにかく、おまえたちの様子を見て安心したよ」
 先生はにこやかに三人を見渡した。
 どうやら本心だったらしい。
 晃実の天然さはこの先生譲りだと雄士は断定した。

 先生は(おもむろ)に立ちあがり、晃実を向いた。
「これで帰るが……晃実、ここまで来たんだ。最後まで必ずやりとおしなさい」
「うん」
 晃実は安心させるように微笑みを見せた。
「これだけはずっと心に留めておくんだ。万が一、この闘いで死者が出たとしても、自分のために大事な人間が死んだとしても、悲しむまえに、それらの死を無意味なものにしてはいけない」
 晃実が(くじ)けないようにと念を押した先生の言葉の意味は理解できる。正論だ。
 それが受け入れられるのなら、悩むことも苦しむこともないのに。
「どんなことがあっても、DAFは必ず潰すよ。母さまたちの想いだし、おじさまたちの願いだから」
 晃実は慰めるように纏わりついてきたブレスを抱き取る。

 傍に――もしくは晃実の心の中に、洸己や母たちのすべての哀しみがうごめいている。それは一時も消えることなく、いつも息衝いている。 その哀しみを解放したい。

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