Xの記憶〜涙の見る夢〜
第6章 前夜 1.人の心
雄士が階下へ降りていくと、粋はダイニングテーブルについてファイルに目を通していた。その前にはファイルが積みあげられている。
「お早いお目覚めですね」
粋が顔を上げて声をかけた。
明らかに皮肉だったが、雄士はそれを無視して粋の斜め向かいの椅子に座ると、ファイルを一つ手に取った。
「あなたは意外に往生際がいいんですね」
雄士の無視を気にすることなく、粋はどこまでも意味ありげな口調で云った。
「それは褒め言葉か?」
「もちろんですよ。もっと時間がかかるかと思ってましたから」
皮肉っぽく云った雄士の質問に、粋はあっさりと肯定した。
「もしかしたら、この闘いが終わってしまうまで結論が出せないのではないか、とね」
粋はからかうようにニッと笑った。
これには二重の意味を含めた。
決着がついたのち、自身が気づくずっと以前から決まりきっていた結論を出しても、闘いのなかでは負担でしかない。勝利してから御方をしたところで、雄士は何をしたわけでもなく、今更、ということになる。つまりは、役立たずの卑怯者ということだ。
粋は勝算を見込んでいる。
所詮、操り人形であるDAFの異能力者に、意思を持った自分たちが負けるはずはない。
ただし、雄士が御方とはならずとも、自分たちに攻撃を仕掛けてくることはないこと、そしてグレイがシャイを抑制しきれるうちに、という前提条件でのこと。
雄士は目を細め、警告を込めて粋を見返す。
「おれは自分の心躰力量を承知している。恐れるものは何もない。だからこそ、覚悟が必要だっただけだ」
「なるほど。今は怖いものがあるってことですか」
「おまえもだろ」
それは間違いなく共通のもの。
ここにはいない恭平にとっても。
『粋』が現れて以来、雄士にいつも付き纏っていた苛立ちは、いとも簡単に弱点を認めてしまった粋の心に嫉妬したためだった。
今はその葛藤もない。粋は返事をするかわりにくすりと笑った。
「ところで、そのあなたが隙を突かれるとは、何をしでかしたんですか」
「取引を申しでただけだ」
「何を?」
「おれはDAFの閉鎖と異能力者の引き渡しを。向こうは海堂グループの存続を」
粋は唖然とした眼差しで雄士を見返す。
雄士は肩をすくめると書類に目を落とした。
まったく、突飛なのは晃実だけじゃないのか!
「あなたは相手が取引に応じるとでも思ったんですか」
「百パーセントの確率で拒否されると踏んでいた」
呆れきった粋がようやく口を開くと、雄士はゆっくりと顔を上げて答えた。
「それでも、わずかな可能性に賭けたわけですか」
「いや、自分の立場をはっきりさせたかっただけだ」
「誰に対して?」
「海堂将史、そして自分に、だ」
「でも、あなたにしてはずいぶんと隙を見せたものですね。もちろん背後からやられたんでしょう?」
粋の嫌味に、雄士は一瞬だけ眉をつり上げて不愉快さを顕わにした。が、すぐにそれは消え、驚いたことに小さくくぐもった笑みを漏らした。
「おれのすごさは認めてるってことか」
雄士は自分にとって都合のいい部分だけを解釈して、そう云い返した。
「ふーん……ここ二、三日であなたもずいぶんと大人になったんですね」
「口の減らない生意気なガキと、天然ボケのチビを相手にしなきゃならないんだ。おれくらい、まともな大人にならなきゃ収拾つかないだろ」
粋は少しだけむっとしたものの、その言葉に隠された意味に気づくと満足感を覚えた。雄士は今、はっきりと仲間であると口にして認めたのだ。
「何が可笑しいんだ?」
粋はニヤニヤしている。
「いいえ。可笑しい、ではなくて、うれしい、の間違いですよ」
雄士はしばらく粋の顔を探るようにしていたが、やがて再び書類に目を戻した。
粋もそれに倣う。
「海堂の資料をよくこれだけ集められたもんだな。公開していない情報もある」
一ページずつ捲りながらざっと目を通し、雄士は云った。
「天下の海堂にも、内部に愛社精神のない者がいるってことですかねぇ」
粋はまともに答えず、ふざけている。
「晃実たちが力を使っただけのことだろう」
雄士は取り合わず、話をさきに進める。宣言したとおりに、少し大人になるつもりのようだ。
「いいえ。これを収集したのは、晃実たちをバックアップしてきた人たちですよ。経済的にも、精神的にもね」
「人たち? おまえはそれが誰か知ってるのか?」
「ボクは少なくとも一人は知っていますよ」
雄士が、それが誰なのかを知りたがっているとわかっていて、粋はもったいぶった返事をした。
「で、誰なんだ」
雄士は辛抱強く、質問を続けた。
粋は顔を上げて、雄士の表情を注視する。
「海堂市絵、あなたのおばあさまです。もっとも、彼女は正当な意味での愛社精神を持っているということでしょうね。ボクが調べた結果、このマンションも廻り廻っておばあさまの所有になってますよ。晃実はボクが云うまで知らなかったんですけどね。巻きこまないためにあえて知らないほうがいいという考慮があるようです」
粋が思っていたより、雄士は落ち着いていた。
それは一昨日、市絵と話す機会が持てたことにある。
おそらく将史は、晃実たちのことに市絵が関わっているとは思いもしていない。市絵の自由になるこのマンションは、これ以上にない隠れ家となっている。
「灯台もと暗し、ですね」
「目のまえにある事実は見えないものだな」
ぼそっと雄士が漏らした。
「晃実に云わせれば、将史がそれに気づかないのは心がないからだそうですよ」
「心か……」
「そうです。人間としての心。あなたの母上が愛している子供を、ただ残して死ぬわけがない。身の危険はいつも感じていたんですから。誰かにあなたを託すため、なんらかを準備しているはず。それを思い当たらない海堂将史は悪の化身以外の何者でもないと」
人間として……。
「おれは……人間だ」
「ボクも人間ですよ」
二人は暗に含まれた互いの意思を確認した。
晃実の存在は絶対になりつつある。なぜ二人ともここまで易々と晃実に惹かれるのか。
「一つ、疑問があります。晃実は闘う相手が“海堂将史“であることを知ったのはごく最近の話だって云ってます。晃実に知らされなかったこと、延いてはあなたと晃実たちが素直に会えなかった理由はなんでしょう。いくら海堂の管理下に置かれていたとはいえ、あなたを連れ出す機会はあったはずです。一緒に隔離してしまえばあなたが海堂に利用されることもなかったのに」
「記憶のないおれに訊いてどうする?」
「それもそうですね」
粋が意地悪心を込めて相づちを打つと、粋の云わんとするところを察した雄士は不機嫌に顔を歪めた。
「どう足掻いても今、これ以上にわかることなんてない。それより、おまえ、晃実の教育をしろ」
出し抜けに雄士は話題を変えて命令した。
「教育って……なんのですか?」
「生活の一般形式について、だ」
「は?」
「今、晃実がどこで何をしてるか、知ってるだろ?」
雄士は顎をしゃくって二階を指した。
「当然ですよ」
粋は、それが何か? と平然としている。
「じゃあ、何を教育すべきかわかるよな」
粋は意味ありげにしばらく黙った。
「ボクはてっきりあなたも楽しんでるんだと思ってましたが」
「おれは眠ってた」
雄士はむっつりと云った。
粋はからかうように眉を跳ねあげる。
「……おまえはあのままでいいのか」
粋が惚けているとわかり、雄士は顔をしかめて念を押した。
「ボクはけっこう気に入ってるんですよ。晃実のああいう愛情表現が豊富なところ。あたりまえのことばかりじゃつまらないでしょう?」
粋は幼い子供らしく、無邪気を装ってにっこりとした。
雄士は黙りこむ。
そして。
「晃実はまさか……おまえまでベッドに連れこんだって云うんじゃないだろうな」
「そうですよ」
「…………」
雄士はなんともつかない感情を覚える。口を開きかけたが、言葉にするまえにまた閉じられた。
粋はまた笑みを浮かべた。
「冗談ですよ。同じ部屋で眠っただけです」
雄士は粋を睨みつける。
「このままにして、晃実がどうなったって文句は云わせないからな」
「ふーん……あなたが、晃実を、どうするというんですか」
「知らないね」
雄士は顔をしかめ、自分が話を振ったにもかかわらず、この話は終わりだといわんばかりに乱暴に答えた。
粋は素知らぬ顔で尚も食い下がる。
「恭平とはどうだったか、知りたくはありませんか」
「……そんなことを知ってなんになるんだ」
しばらく黙りこんだあと、雄士ははっきりと苛立ちを見せて云った。
なるほどね。
粋は心の中でつぶやいた。
この人はすべてを認めているわけではないのだ。それとも、ボクのただの勘違いなのか。そんなはずはない。苛立ちの理由は一つでしかありえないだろう。おもしろいことが増えたな。
「恭平とは別だったそうですよ。幼い頃を除いてはね。よかったですね」
雄士はまたも粋を睨みつけると、今度は何も云わずにすぐに視線を書類に向けた。
鈍い人間ではないだろうに。人間であることは認めても、プライドは捨てきれないということか。