Xの記憶〜涙の見る夢〜

第5章 駆引  4.裏切り

――お兄さま!
 中学校から帰るなり、車から降りた将史のところへ駆けてくると立ち止まる間もなく、環は将史の手を取って引っ張った。
 連れて行かれたのは海堂家の広い庭の片隅だった。
 ほぼ中央に位置した噴水を突っきった先に小さな赤い薔薇の木、レッドメイディランドがある。その下に小さな子猫が丸まって震えていて、見るからに弱っていた。

――死んじゃう?
 環が不安そうに将史を見上げた。
――大丈夫。

 将史は猫をすくい上げ、家の中に連れて行った。
 家政婦から(ぬる)くしたミルクとストローをもらうと、将史はストローでミルクを吸いあげ、猫の口もとにあてがった。
 猫がペロペロと()め始めると、将史は、どうだ? と訊ねるように環を見る。

――お兄さま、すごい。飲んでるよ!
 じっと子猫を見守っていた環が顔を上げて、びっくり眼で将史を覗きこむ。
 庭師からもらってきた(かご)に暖かい寝床を作って、将史は三日三晩、子猫の様子をつぶさに見守った。その甲斐あって数日後に子猫は歩き始めた。

――もう大丈夫。心配ないよ。
――お兄さまにできないことってないのね!
 環は憧憬(どうけい)の眼差しを将史に向けた。
――そんなことはないよ。
――お兄さま、大好き! 環、大きくなったらお兄さまのお嫁さんになる!
――ははっ。そうできたらいいな、環。


   * * * *


「きれいな女性だ」
 将史がやっと重い口を開いた。
 それが過去形ではないことに、雄士は気づいた。
『ここで一緒に生きてるから』
 晃実の言葉を思いだす。

「母のことをどう想っていたんですか」
「どう?」
 雄士は将史のほうを向いた。
「好きとか嫌いとか、そういう感情があったでしょう?」
 現在形であることに意味があるのなら、なぜそこまで環を苦しめる必要があったのか。
「愛してるよ」
 将史は懐かしむように目を細めて宙を見つめた。
 それが本物なのか演技なのか見当もつかない。また現在形。
 雄士は将史から視線を外して、二本目の煙草に手をつけた。
「どうして亡くなったんですか」
「病気だ」

 嘘、か……。
 雄士をなんのために甥ではなく自分の息子として育てたのか。調べればすぐにわかるようなことを、なぜ語ろうとしないのか。血縁で縛り、ただ利用するためなのか。疑問は溢れていくばかりだ。

「おやめください!」
 (にわ)かに騒がしくなった廊下から秘書の制止する声が届くと同時に、いきなりドアが開いた。
「申し訳ありません。止めたんですが……」
「海堂っ! いったいいつまで待てばいいんだっ!」
 秘書の声に(かぶ)せるように、代議士の松中が金切り声で将史に怒りを向けた。
 政治家にあるまじきヒステリックな様は一瞬、雄士を唖然とさせた。
 小太りの躰を精一杯大きく見せようと、普段の堂々とした落ち着きっぷりが今は欠片もなく、オールバッグに撫でつけた髪が乱れて、その顔色は血圧の高さを示すように赤黒い。
 一方で、そんな松中を目にしても将史は泰然(たいぜん)とかまえている。
「下がっていい」
 将史が云うと秘書は一礼した。
 頭を上げた秘書はさっと室内を見渡したとたん、雄士がいることを知って驚いたように目を見開いたが、何も云わずに出ていった。

「いつもの付き添いの方はどうされたんですか」
「今日は連れて来ておらん! きみと話を付けに来たんだっ。いたら話ができんだろう!」
 将史の口もとが歪む。
 なんだ?

 将史と松中を見比べながら、雄士は眉をひそめた。
「申しあげたでしょう。解決策はあると。そんなに取り乱しては政治家たる者の沽券(こけん)に係わりますよ。今は息子と大事な話をしています。終わるまでそこに座って落ち着かれるがよろしい。それから解決策を出しましょう」
 松中はそう云われ、やっとソファに座った雄士の存在が目に入ったらしい。まだ云い足りなさそうにしていたがさすがにばつが悪いらしく、体裁(ていさい)を取り(つくろ)うように髪をなでつけた。
「わ、わかった。解決策があるというのなら待とう」
 松中は雄士の斜め向かいのソファに腰を下ろした。座るとほぼ同時に突然、松中はうっと呻き声を出して頭を抱えた。酷い痛みを(こら)えるように顔を歪めている。

 どう見ても普通の有り様じゃない。何がある?
 雄士は不審を抱く。
「雄士、それでほかに何が訊きたい?」
 将史は平然と訊ねると、雄士は問うように見返した。
「この人の前で話してもいいんですか?」
「かまわん。都合が悪いことでもあるのか?」
「おれにはありませんよ。あなたにはあっても」
『あなた』という言葉に反応して将史は眉をつり上げた。
「おれの父親は誰ですか、“伯父さん”」
「…………」
 その場の空気が震えた。かすかな動揺が確かな緊張に変わる。
 その沈黙のなか、雄士はすまして煙草をふかし続けた。
「おまえの父親は私だ」
「冗談を。おれの母親はあなたの妹ですよ」
 あくまで白を切る将史を見て、雄士はせせら笑った。
「誰に訊いた?」
「自分で調べたんですよ」

「なぜ……おまえは今まで一度もそんなことを訊かなかっただろう。少なくとも二カ月前の時点では、自分の出生に興味など露ほどもなかったはずだ。急に思い立ったわけでもあるまい?」
 雄士がくだらない方向へ動きだすきっかけとなったものがなんなのか、それをDAF以外の異能力者が現れたことと結びつけるのは、将史にとって造作もない。
 雄士は将史の云い含むところを察したが、道を決めた今、動じることはなかった。
「興味を持たないよう、おれに示唆(しさ)していたのはあなただ。その(から)は破った。神河洸己。これがおれの父親の名だ。そうですよね」
「そんな男は知らんね」

 この()に及んで、この人は……。
 雄士は将史を向き、そして驚いた。将史がめずらしく感情をはっきりとその目に宿している。それは憎しみだった。
 誰に対するものなのか。
 洸己か。
 だとすれば、洸己と将史の間にいったい何があったというのか。

「知らないはずないでしょう。妹の結婚相手ですよ。おまけに異能力の研究材料として、あなたが利用していた男ですよ」
「私は結婚を認めていない」
 驚く言葉ばかりが返ってくる。
 将史の憎しみと言葉を重ね合わせれば何かが判明するだろうが、今は現実の話を詰めなければならない時だ。過去のことはすべてが終わったあとにでもゆっくりと整理していけばいい。

 雄士は煙草を灰皿に押しつけると立ちあがり、将史のデスク正面に立った。
「取引しませんか」
「取引?」
 将史は椅子に仰け反って、怪訝そうに問い返した。
「そうです」
 雄士はデスクの上に少し身を乗りだすように両手をついた。
「DAFの閉鎖を要求します」
「それで私は何を得るのだ?」
 将史はまったくの無表情に戻った。
「今の地位の継続ですよ」
「どういう意味だ?」

「DAFの存在が世間に知れたらまずいでしょう? 何を研究しているのか知れた場合、世界中から批難を余儀なくされることは承知のはずだ。研究というよりはその過程が大問題になる。それらが公になれば、当然、海堂は潰れますよ」
 顔色一つ変えない将史の顔を、何も見逃すまいと雄士はまっすぐに凝視する。
「そうなれば、おまえも困るだろう」
「おれが? 異能力者のおれに財産や地位が必要だと思われますか?」
 異能力者にとって、手に入れることが不可能なものなど何もない。多少の悪事に目を瞑れば、たとえ働かなくともなんの問題もなく生きていける。
「海堂が潰れたら社員はどうなる。何十万、いや、末端を含めれば何百、何千万という人間が路頭に迷うぞ」
「あなたの言葉とは思えないな。おれは労働組合員じゃない。そういうセリフは彼らに云うべきものでしょう」
 雄士はせせら笑う。そしてすぐに真剣な顔に戻った。
「一人の命と千人の命のどっちが大事か、なんていう話をあなたとするつもりはない。おれが要求するのは、DAFの閉鎖と異能力者たちの引き渡しだ」
「異能力者をどうするつもりだ」
「どうもしませんよ」
 動かなかった将史の表情に不意に笑みが宿った。

 ……なんだ? 
 それは余裕以外の何ものでもない。
 何が……うっ。
 首の後ろがチクリとし、雄士が振り向くとDAFの異能力者、タイプ(ノーマル)1が一人立っていた。
 身動きしたとたんに雄士は躰に違和を感じた。

 驚いた松中が奇声を上げる。

 私情に気を取られすぎていた。
 雄士は押さえた首もとから小さな針、おそらくは麻酔針を抜いた。
 雄士は自分の不注意に舌打ちをする。
 思考回路とともに躰は早くも(しび)れを感じだす。それを振り払うように首を振って、雄士は将史に向き直った。

「環の子であるからこそと思って育ててきたんだが、やはりおまえは神河の子らしい。神河の子などどうでもいい。これからは駒として働いてもらおうか」
 将史が(いびつ)にぼやけていく。

 ……くそっ。捕まるわけにはいかない。恭平と同じ立場になってはいけない。
 晃実たちの力ではおれを倒せない。少なくとも持久戦になったとき、力尽きるのは晃実たちだ。
 おれまでもが敵となっては……。

 雄士は本能的に転移をした――刹那、タイプN1が雄士の両腕をつかむ。
 その瞬間に、力ではなく精神力で雄士の躰が束縛された。

――ミーム……シャイ……か……?
 雄士が問うと、体格的にも遥かに劣るタイプN1の瞳が(にご)った。

――そう、あたしよ、ユー。
――なぜ……だ……?
――あたしを裏切るって。ユーはあたしを捨てるんだって、ユーのパパが云ったの。
――違う……んだ……。
――だめ。わかるの。ユーの心からあたしは消えかけてる。あたしはまたユーと会えなくなる。

 目を見開くがかすみは進行を止めず、意識もまた不明瞭(ふめいりょう)になっていく。それでも雄士はシャイの言葉から違和を聞き逃さなかった。

――……また……?
――わからない……ユー、あたしは離さない。
――シャイ……。
――もう離れ離れになるのはいやっ!

 そうシャイが叫んだとたん、雄士の意識が消え、躰がドサリとその場に崩れ落ちた。

――晃実……――――。

「な、何をやってるんだ?!」
 息子に対する将史の仕打ちに、松中が驚愕の叫び声を上げる。
「解決策を提供するだけですよ。連れて行け」
 将史が命じると、タイプN1はロボットのように反応を示さないまま、耳もとの髪に付着させていた針を取って、ダーツを投げるように松中へと麻酔針を放った。

「どうかされましたか」
 ドアをノックする音とともに秘書の声がした。
「いや、大丈夫だ。松中代議士は休んでいらっしゃる。私が付き添っておく。きみはもう帰りたまえ」
「承知しました。それではお先に失礼致します」

「行け」
 その言葉を合図に、タイプN1は眠りについた松中と床に倒れた雄士を連れて消え失せた。
 将史はデスクの隅に置いたケースから葉巻を取って咥え、受話器を取りあげる。
「今、送りやった。おまけがついてる。おかしな反応をした奴は処分しろ。松中の手下だ。時期は早まったが、松中の処分は計画どおりにやってくれ」
 所長の井上が即座に応えると受話器を戻した。
 ため息を吐くように一服したところで不意に顔を歪めた将史は、デスクの(そで)の引き出しを開けた。

 まだだ。まだあきらめん。

水の入ったコップを手にして、将史は引き出しから取りだしたアスピリンを呑みこんだ。

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