Xの記憶〜涙の見る夢〜

第5章 駆引  2.変化

「心って悲しい。母さまたちの想いが流れこんできて、死んじゃったんだってわかって……すぐにそれをたどっていった。そしたら、母さまたちの記憶がまだその場所に残ってた」
 悲しみと相反して無表情な声で告げると晃実はうつむいた。長い髪が晃実の顔を隠す。
「今は父さまも行方不明ということになってる。母さまと父さまを一緒に海に(かえ)したかった。あのままだったら母さまの身元がわからなくて離れ離れにされちゃうから」

 感情をでき得る限りで抑制しながら、晃実は二人を連れて転移をした。
 海にたどり着くと力を放った。
 ――――っ。
 二人の躰は海の彼方に飛ばされ、力が途切れる瞬間、晃実はもう一度精神を集中した。
 一瞬だけ光り輝き、直後、その姿は灰となって海に散った。
 晃実は力尽きたように座りこんで、恭平が追ってくるまでずっと声を上げて泣いていた。

「粋の母さまはね、わたしと恭平とを分け隔てなく育ててくれた素敵な人だよ。いつも前向きで、明るくて……。一緒にいると心強く感じる。そんなところ、粋と舞子ママはそっくりだよ」
 舞子は陽気な頼りになる姉貴タイプの人だった。環と香恵の哀しみに対して、彼女はいつも笑顔を浮かべていた。
「四年前……でしたよね」
「うん……。あれは偶然だった。舞子ママはわたしたちを隔離するんじゃなくて、なるべく『普通』と触れさせようとしてた。大型のスーパーで買い物をしてるときに見られたの」
「誰に?」
「本当なら粋の父さまである人……妊娠中に浮気して舞子ママに離婚を云い渡された人よ。おまけに体外受精を自分も望んでたくせに、いざとなったら自分の子じゃないって云って、子育てに協力しなかった身勝手な人」
 あんな身勝手な男がいなかったら、舞子はまだ生きていたはずだ。
 舞子の笑顔はいつのときも晃実と恭平に安らぎを与えていた。
 が、今になって思う。舞子自身の安らぎはいったいどこにあったのか。いや、そんなものはどこにもなかったのだ、と。

「事実、あの男の子供じゃないけど、それは舞子ママも知らなかったことで…… とにかく、逃げようとしたけど買い物してる間中、しつこく追ってくるの」
「彼は海堂将史に連絡した……」
 雄士が口を挟んだ。
「すごい、ビンゴだ。舞子ママも気づいて、すぐに逃げようって。まさか、離婚して無縁の人間までに触手をのばしてるとは思わなかったの。わたしたち、油断してたのかもしれない……」
「海堂将史が率いるDAFの執念深さは天下一品だな」
 雄士は冷めた口調で皮肉っぽく吐いた。
 晃実も粋も、雄士が将史のことを父と呼ばなくなったことに気づく。
「わたしたちはスーパーを出たところで、彼らと鉢合わせしたの」

 まず、舞子の腕が捕まれた。
『恭平、晃実を連れて逃げなさいっ、早く!』
 恭平は云われるままに、晃実の手を引っ張って走った。
 それは、恭平と晃実は絶対に捕まるなという、舞子と恭平の約束だった。
 人の間を縫って人目のないところまで走り抜け、そこで転移した。
 そうなったら彼らは追ってこれない。
 その間に、舞子は彼らの手を振り払って逃れた。
 私も捕まるわけにはいかない! こんな無防備な状態で。
 彼らは追ってくる。大通りに出たその時、大きなトラックが道路を突っ走ってくるのが見えた。
 私のせっかくの美貌(びぼう)が台無しだわね。
 舞子は道路に足を踏みだした。
 迷いは欠片もなかった。
 微笑みを浮かべた舞子の躰が宙に舞う。

 恭平、晃実、あなたたちのやさしさは強さだからね。それを忘れないで。あなたたちがこれから何をするつもりなのかわかってる。私は止めないわ。環さんも香恵も止めるだろうけど、私は止めない。
 だから間違っちゃだめよ。道を、想いを間違えてはだめ。
 私はずっと一緒にいるわ。あなたたちの道標(みちしるべ)になる――。

「わたしたちが舞子ママのところへ戻ったときは……もう息はなかった。わたしは泣いているだけで……」

 慌てふためく人だかりのなか、恭平は人の視線を逸らすために近くに止まっていた無人の車を爆破させ、その間に晃実と舞子を連れて、香恵を(ほうむ)った海へと転移した。
 泣きじゃくる晃実を怒鳴って、恭平は舞子を香恵と同じように海に還すよう命令した。

「舞子ママの顔……笑ってた。いろんな場面の舞子ママを思いだすけど、笑顔しかないの。それって余計に悲しい」
 晃実は立てていた膝に肘をつくと、事実から目を逸らすようにつかの間だけ両手で顔を覆った。手を放したときは、晃実の顔から感情が消えていた。
「普通の人間の躰は転移に耐えられない。舞子ママを置いていくしかなかった。あの時……逃げるんじゃなくて、置いていくんじゃなくて……闘えば……殺してしまえばよかった。力って肝心なときに役に立たない。助けたいのに助けられない。悲しいことって、普通の人間なら風化していくものじゃない? でも大きくなっていく。少しずつ感情を抑制できるようになったけど、それでも悲しいのは外に溢れだすの。わたしの再生力は感情に左右されて必要なときに役立たない」

 泣いても何も変わらない。何も始まらない。泣いたら逃げになるだけ。弱い自分しか残らない。
 何度自分に云い聞かせても、たった一人の奸計(かんけい)のために踊らされ、利用され、そして死を余儀なくされた人間たちの命の重みは、晃実の心にどうしようもない感情だけを創造していく。
 それは涙にしかならない。

「それでも抑えているというのか?」
 雄士が訊ねた。
 晃実を叱責(しっせき)しているわけでも、皮肉を云っているわけでもない。半分は自分に問いかけているようなつぶやきだった。
「いちおう、はね。記憶が風化しないのってしんどいかな」
「晃実と恭平の経緯は特別ですからね」
「粋も雄士もそうでしょう?」
「ボクらはあくまで自分のことしか考える必要がなかった。そうですよね?」
 粋の言葉に、雄士はかすかにうなずく。
 経緯を知れば知るほど、晃実が異能の力で蓄積してきた記憶は過酷という言葉そのものだと思った。そう思い至る自分に雄士は戸惑う。

「一つ訊きたいんですが、母はどうして海に……行方不明ではあっても、母は法律上も生きている人間だったんでしょう?」
 そういう質問をすること自体が、粋に人間としての感情が備わっていることを裏付けている。粋は気づいているだろうか。
「恭平がどうしてそうしたのか、わたしにもわからなかった。訊いたのは最近なの。『あの女性(ひと)は、ああ見えてもロマンチストなんだよ』って」
 照れくさいのか、『母』とは云わず、『あの女性』と呼ぶようになった恭平は笑って云った。
「過去形ではないんですね」
「そうだよ。みんなここで一緒に生きてるから」
 晃実は自分の胸に手を置いた。
 そのとき、雄士が話は終わったといわんばかりにいきなり立ちあがった。
「おれは戻る」
 雄士は何かを断ちきるように、一言だけそう云った。
 晃実は雄士が消えるまえにと急いで立ちあがった。
「わたし、まだ雄士に云わなくちゃいけないことが……」
「あとだ」
 冷たい表情に様変わりした雄士は晃実の言葉をさえぎった。これ以上は聞きたくないと突っぱねるように。
「恭平のことは覚悟しておけ」
 そう云い残して、雄士はふっと消えた。

 晃実と粋は顔を見合わせた。
 ……。
 晃実は口を開きかけてまた閉じた。
 雄士の中にはっきりと変化を感じた。あの顔に浮かんだ冷酷さは誰に向けられたものなのか。
「あの人は、プライドと感情のどちらを優先するか、揺れてるんですよ。どちらにしろ、結果は決まってるのに」
 粋はしたり顔で云った。
「どんな結果?」
「きっと許せないんでしょうね。自分以外の人間に支配されることが」
「答えになってない!」
 粋の的外れな返事に、晃実はむくれる。答えないということは、粋には教えるつもりがないということだ。
「答えは晃実も知ってるはずですよ。あとは時間の問題です。あの人に比べれば、ボクのほうがずいぶんと素直でした。意外にも」
 粋はそう云ってニヤリと笑った。

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