Xの記憶〜涙の見る夢〜

第5章 駆引  1.可能性

 異能力者ゆえの記憶力は欠如(けつじょ)を許さない。
 人間の記憶を司る海馬(かいば)は再生されることがなく、生まれたときのまま増えることもない。三十才を超えると、老化という過程で必要とする酸素や栄養素を充分に送れず、海馬の脳細胞は徐々に失われていく。
 けれど異能力者は躰内が常に活性化されていて退化を知らない。引っ張りだせばどれだけでも出てくる。
 それはある意味でつらいことだ。人間はつらいことをいつまでも鮮明に記憶していたら、生への気力を失くしてしまう。だからこそ、海馬の働きとは別に、人間には“忘れる”という本能がある。記憶は次第に曖昧になっていく。
 異能力者の記憶は曖昧さがない。操作されない限り。

 粋には伝えたが、晃実の記憶の中には途切れている時間があり、よって雄士にも、話したことは晃実に限って残されたという前提の下の“事実”であることを承知させた。
「それから?」
 異能力者の所以(ゆえん)、海堂将史がやったこと、洸己たちが自爆という道を選んだことを伝え終わると、雄士はさらにそのあとの説明を求めた。

「環おばさまは雄士を連れて実家へ戻った。環おばさまは、兄さまを……海堂将史を恐れてた。でも見届ける必要があったの。異能力の研究は終わったんだって確認しなきゃいけなかった。雄士とわたしと恭平と、そして異能力を封じられた子供たちを守らなきゃいけなかった。それが洸己おじさまの遺志だったから……環おばさまは、自分の責任だっていつも自分を責めてた」

 今となってはその結果は云わずと知れている。
「それで母は?」
「環おばさまのことは……わたしの中ではすごく曖昧なの……」
 晃実は途方にくれたように首をかしげた。
「わたしの母さまは……母さまも舞子ママも、わたしや恭平を危険にさらさないために家には戻らなかった。着の身着のままでここに来たの。父さまにも黙って……。二年経った頃に母さまは父さまに会いにいこうとしたの。でも環おばさまが、さきに自分が説明したほうがいいって……」
 そこまで云って晃実は深く息を吐いた。
 粋が晃実の肩に手を置く。
 晃実はそのなぐさめに、ありがとうという意味を込めて粋に笑んで見せた。
 雄士は傍で片膝を立てて床に座り、その膝の上に片手を預けたまま、表情をなくしている。

「あの爆破で、わたしと母さまと恭平は死んだことになってるの。それなのにいきなり訪ねていったら、ただでさえ感情的になるようなことだから、パニックになるに決まってる。だから……」
「何があった?」
 言葉に詰まった晃実に、雄士は心持ち穏やかさを見せて促した。
「海堂将史は予想以上に忍耐強い人間だった。自分の欲を満たすためなら、どんな悪も平気な人間だった……。彼はわたしたちが生きてると考えてたの。そう信じてたの。母さまが父さまのところに現れるのを待ってた」
「死体がないんだから、当然そう思うでしょう?」
 粋は、将史があきらめていなかったことより、将史がそれらの死を納得していると晃実たちが楽観視していたことのほうが()せないようだ。
 晃実はうつむいて首を横に振った。
「あの爆破は、おじさまたちの内部から放たれた力だよ。もとがなんだったのか、鉄屑か紙屑か、わからないくらいの粉塵(ふんじん)になったって。公にはされなかったけど、おじさまたちの躰だって欠片も探しだせなかった。海堂将史はおじさまたちが死んだことも信じていないのかもしれない」
「その可能性は?」

 雄士が訊ねた。
 晃実は顔を上げて雄士を見た。
 雄士がどういう意図でそう訊ねたのか確認したかったのだが、彼の無表情な顔は何も語っていない。
「ない」
 雄士の心によぎった想いが悲しかったが、晃実は否定するしかなかった。

 あの爆破の直前、一カ月くらいの記憶は途切れ途切れで、ここにはけっしてつかむことのできない影を追っている感覚がある。
 爆破時点で仮死状態だった晃実は、それでも洸己たちの想いを感じ取り、哀しみという心の痛みをはじめて知った。
 行かないで……傍にいて……。
 眠りゆくなかで晃実はそう祈ったことだけは確かな記憶として残っている。

「わたしたちははじめから異能力者としての生命体だから、身体的になんの抵抗もなくて生活していける。でも、おじさまたちは生きている途中での突然変異だったから、頭痛っていうリスクを背負った。異能力を使うたびに酷くなったって。薬もだんだん強いものを使うようになって、それでも全然良くはならない。あの頭痛からきっと解放されたかったんだと思う」
「だからといってただで死ぬわけにはいかなかったんですね」
 結局、洸己たちは安らぎを得ることはできなかった。
 今度こそ完全な終焉(しゅうえん)を迎えるために、新たなる闘いをせざるをえないのだから。それも、彼らがいちばん案じていた子供たちがやるしかない闘いなのだ。
「海堂将史は、父さまの家を訪ねた環おばさまを問い詰めた。でもおばさまは絶対に話そうとしなかった。そして……それからはわからない」
「わからない?」
 雄士は目を細める。
「……その時の記憶が途切れてるの」

 それから何があったのか。
 空白の時間を飛び越してある記憶は、血に(まみ)れた部屋の情景。
 血の中に横たわっていたのは環だ。
 なぜ、わたしはそこにいたのか。
 恭平とわたしと、そこに『雄士』もいた。そして……あとはだれ……?
 わたしたち三人のほかに誰かがいたことは確か。
 ここでも影は感じるのに、そこへ目を向けようとすると影は逃げ、たどり着けない。

「“血の破約”で記憶を解かれるまえは、環おばさまのことは自殺だって認識してた。無理やり自白をさせられるまえに。でも今、あやふやになったってことはそうじゃなかったってこと……。ただ、環おばさまが死んでしまったことははっきりしてる。ごめん、役に立たなくて」

 手が伸びてきて晃実の頭を優しく揺する。その感触は、あたりまえのように洸己と似ていた。
 今は、その手の持ち主こそがいちばんの衝撃を受けて、いちばん悲しんでいるはずなのに。本来は雄士こそが環から守ってもらうべき人間なのに……。

『ブレスをお願いね』
 猫を晃実の腕に預けてそう云った環。
 その時、晃実は覚悟を感じた。
 それだからこそ、環は可愛がっていたブレスを晃実に託した。
『環おばさま、洸己おじさまたちは晃実たちの傍にいるの。環おばさまもずっといるよね?』
 そう訊ねたときの、悲しみが宿った環の表情が忘れられない。苦しかったはずなのにその痛みはどこにも見えず、ただ悲しみだけが張りついていた。
『ええ、そうよ』
 それがおそらくは最後の笑顔。
 環の最後となったそのときの笑顔はこれまで以上に綺麗(きれい)(はかな)かった。
 今、晃実の傍らで、ブレスは彼女に寄り添うように眠っている。少なくとも十年以上を生きている猫なのに、老衰するどころかまだまだ若い猫のようにぴんぴんしている。

「晃実のお母さんとボクの母はどうやって?」
 まるで天気の話をしているかのように、粋は淡々と問いかけた。
「……わたしの母さまはまたその二年後に、父さまに会いにいった。嫌いで別れたわけじゃないから……」
「そして?」
「海堂将史はまだあきらめてなかった。四六時中、父さまを見張ってたの。環おばさまの沈黙で、わたしたちが生きていることを確信したのかもしれない」


   * * * *


「ごめんね」
 晃実が六歳になった日、海に連れて来てくれた香恵が云った。
 晃実はその言葉の意味を正確に理解した。
「父さまに会いにいくの?」

 香恵のいつも悲しそうな顔は最後まで変わらなかった。笑うときも悲しみが消えたことはない。ただ、涙は見せなかった。少なくとも晃実の前では。

「大丈夫、ちゃんと帰ってくるわ」
 香恵は今も笑っているけれど、その目に映る悲しみは、いつも晃実をつらくさせる。それは全部、自分のためだと知っているから。
「晃実ね、もう自分で生きていけるよ。恭平ちゃんも舞子おばちゃまも先生もいるから。だから父さまと一緒にいて。晃実はそっちのほうがうれしい」
 そのとき、香恵がはじめて涙を見せる。それを隠すように香恵は晃実を抱きしめた。
「子供にそんなこと云わせるなんて、私はだめな母親ね。晃実、一才の頃……入院が決まったときにそのまえにって、海に行ったことを覚えてる?」
「うん。父さまと母さまと行った。父さま、肩車してくれたよ」
 記憶がなくならないことを知っている香恵はなぐさめるように晃実の頭を撫でた。望むことをすればまた一つ、晃実の中に悲しい記憶をつくってしまうかもしれない。
「波を見て……ほら、大きい波のときと小さい波のときがあるでしょう?」
「うん」
 砂浜の波打ち際まで近づき、二人は手を繋いで海を見渡した。

「大きい波はね、いくつもの小さな波が重なり合って、こんなに大きくなって岸にたどり着くの」
「うん。小さいのは?」
「小さい波は、波と波がぶつかり合って、お互いを打ち消してしまうの。人間も同じよ。反目しても何も生まれない。でも、一人では叶わないことも、二人でならやれるかもしれない。同じ気持ちで(のぞ)んだら、可能性は無限に広がる」
 晃実はうなずいた。
「晃実、恭平ちゃんと頑張る。力を使って悪いことはしない。使わなくちゃいけないときは、ちゃんと、人が悲しくならないか、いいことなのか、考えてから使うよ」
「晃実が頭の良い子でよかった。これはね、父さまの言葉なの……プロポーズの言葉」
 このときの香恵はとてもうれしそうで、とても幸せそうだった。


「舞子、私の我が侭(わがまま)をきいてくれてありがとう。このまま舞子にすべてを押しつけてしまうことになるかもしれない。……もし私に何かあったら晃実をお願いね」
「ええ。思うとおりにして。私はこの世には恭平以外になんの未練もないし、晃実ちゃんのことも同じように思ってる。今でもあなたを待ってる愛しの旦那さまによろしく」
 皮肉にも海堂病院で無二の親友を得た二人は、抱き合って無事を願った。

 その夜、香恵は夫を訪ねていった。
 香恵がマンションの七階にある一室のドアをノックすると、澄ました耳に足音が届く。
「はい……」
 部屋の主である高城(たかしろ)は、その訪問者を見ると言葉をなくした。
 一方で香恵も何も云えなかった。
 高城が香恵の腕を引いて中に入れる。
「どうしてここへ来た……晃実は!?」
 二年前に環から事情を聴かされていた高城は責めるように云った。
「大丈夫。ちゃんと見てくれる人がいるから……私、会いたかったの……(あやま)りたくて……」
「バカ……おれも……待ってた。いつか……会えると……」
 言葉にならない想いが溢れ、二人はそれ以上何も云えなかった。
 そこへ突然、玄関のドアノブが乱暴に回される音が割りこんだ。鍵がかかっているとわかると、今度は鍵穴を(いじ)るような金属音が響く。
 二人ははっと顔を見合わせる。
 ドアがうるさく音を立てて開けられたが、チェーンが邪魔をして開け放たれるのを防いだ。
「なぜ、鍵が……?」
 高城が不審そうにつぶやいた。
「海堂……だわ」
 香恵が囁くと同時に高城が玄関へ行った。
「何をやってるんだ? 警察を呼ぶぞ!」
「奥さんがいらっしゃるでしょう。奥さんに聴きたいことがあるんですよ。答えていただいたら帰りますから、開けてください」
 狭いドアの隙間から黒服の男が見えた。
 高城が香恵のほうを振り向くと、彼女は無言で首を横に振った。
「妻は四年前に死にました。帰ってください!」
 高城はドアを強引に閉め、部屋の奥へと戻ってきた。
 すぐにまたドアが開いて、今度はチェーンを(こす)るような音が聞こえる。
「警察を……」
「もう……まにあわないわ。それに、私は死んだ人間よ。何も説明できない」
 香恵はとっさにベランダへと出た。エアコンの室外機を足台にしようと片足をかけた。
 高城は急いで香恵を引き戻す。
「何をしてる! 晃実はどうするんだ!」
「ごめんなさい。私が無理に子供を望んだせいで、あなたの人生をめちゃくちゃにしてしまった」
「違う、おれも望んだ。晃実を生んだこと、後悔してないだろう?」
 香恵は曖昧に首を横に振った。

「それより今は……!」
「どちらにしろ、もう戻れない。彼らはどこまでも追ってくる。彼らの手から晃実を守らなくちゃならないの。お願い、わかって」
「じゃあ、おれも一緒に逝くよ。見逃せるわけないだろう」
 高城は迷いなくそう告げた。
 香恵は再び首を振る。
「だめよ。晃実はあなたの……」
「おれたちの子供だよ」
「違うの」
 香恵は絶望的に首を振り続けた。
「おれたちの子供だ」
 高城は事実を知っているはずなのに、きっぱりとそう繰り返した。
「もう離れるのはやめよう。……命を自ら絶てば魂はここに残るって云うよな。きみの案内なしでは、おれは晃実のところへは行けない。二人で晃実を守ろう」
「……晃実はとてもいい子なの。とてもやさしい子。それって、あなたにとても似てるわ」
 二人は笑みを交わした。

 ドアが開け放たれた。
 彼らが土足で侵入してくる。
 それと同時に、二人は互いの躰に手を回して空中に身を投じた。

 晃実、ごめんね――。

 晃実――たった一人の愛する娘よ、父を覚えているか? やっと会える。約束をしよう。いつも見ている――。

BACKNEXTDOOR