Xの記憶~涙の見る夢~
第4章 境遇の支配 8.約束
環は眠りについた雄士を抱きあげると、洸己に向き直った。
「洸己さん……」
「悪かった。最後までいてやれなくて。守ってやれなくて」
「ううん……貴方にはもう、らくになってほしい。それに……判断を間違ったのは私なの」
「違う……そうであったとしても……おれは思うんだ。こういうことがなかったら、ここまで頑張れないまま頭痛に負けて、雄士の成長を見ることも、ここまできみと長くいられることもなかったかもしれない。思い残すことは限りないほどある。けど、幸せだったよ、間違いなく。きみと出会えて……環、ありがとう」
めったに泣くことのない環の瞳から涙が零れる。
洸己はそれを見るとからかうように笑った。
「環さん、泣いたら怪しまれるよ。こういうときこそ『環さん』でなくちゃ」
「うん……大丈夫」
泣き笑いしながら自分を見上げた環を、洸己は雄士ごと包んだ。
「愛してるよ、おれの奥さん。ずっと……見てるから」
「私もずっと愛してる」
ふたりは躰を離すと、互いの姿を目に焼きつけるように見つめた。
洸己の手が環の涙を拭う。
「雄士たちを頼むよ。さぁ……行って」
環はうなずくとドアを開けて病室を出た。
洸己が見守っていると、環は最後にもう一度だけ振り向いた。
ありがとう。
声にしたら決心が鈍るのだろう。また泣きそうに笑いながら、環の震えるくちびるがそう形づくった。
洸己はうなずいて笑みで応えた。
ドアが閉まった。
香恵は握った小さな手がかすかに動いたのを感じ取った。
かあ……さま……。
続いて脳裡に入ってきた声は晃実のものにほかならない。
……晃実……生きてるの……?
返事はない。
しかし、香恵は本能的に信じた。
それとともに、この病院に対する不信。
どうやって……。
医者は、準備を、と看護師たちに云い残して部屋を出ていく。看護師も続いて出ていった。一人残った看護師。
「主人に……連絡を……取ってもらえませんか……」
晃実の小さな肩に顔を埋めたまま、香恵は動揺を装ってくぐもった声で云った。
言葉をかけようのない看護師は、わかりましたと云うかわりに香恵の背を軽く叩く。
「晃実ちゃんといてあげてください」
知っているのか、まったく何も知らないのか、看護師はやさしく声をかけて出ていった。
それを確認すると、香恵は晃実を抱きかかえ、開けっ放しのドアから廊下を窺った。
ナースステーションでは忙しく看護師たちが動き回っている。
今しかない。
香恵はそっと病室を出て、ナースステーションとは逆の非常口へと足早に向かった。
洸己は加瀬に向き直ると、無言で合意の確認を取った。二人はうなずき合う。
一つしか見出せなかった決着をつける手段を実行に移す時だと、洸己たちは暗黙のうちに了解した。
彼らの頭痛は動くことも、喋ることすらも苦痛になるほど酷く、我慢の限界だった。どんな薬ももう間に合わない。
この頭痛に負けてしまったら、異能力は制御不能となって暴走してしまうかもしれない。
恭平の見たものが確実な未来であっても、洸己たちには確かな未来はない。
この状況下、練り直す時間もない。
それならせめて、今できることの精一杯、この非情な空間を無くすこと、を成し遂げる。
加瀬は状況を把握すべく透視を使うと、香恵が晃実を連れ出そうとしているところを捉えた。
それを伝えると、洸己はペンを取って紙にすばやく何かを記した。
「晃実のお母さんが晃実を連れてこの病院を出ていく。恭平も一緒にそのあとをついて行くんだ。そして、恭平の家に帰ったらすぐ、お母さんたちにこれを渡してくれ」
洸己は紙を恭平のポケットに入れる。
「わかった」
幼いながらも事の重大さを知っている恭平は、真剣な顔で力強く返事をした。
「それともう一つ。出ていくまえに、雄士にやったように、入院しているあと二人の子も力を封じてほしい」
「……それでいいの? 連れて行かなくていいの?」
「あとは恭平、おまえに任せるよ」
恭平はこっくりとうなずいた。
「ぼく、男だから頑張るよ。アキミちゃんもお母さんも環おばさんもぼくが守る。ユウシのこともちゃんと見てるよ」
二人はその頼もしい姿に笑った。
「恭平、つらくても頑張れよ。おれらも精一杯やってきた。男なら自分の信念を貫きとおせ」
加瀬は恭平を抱きあげてそう云った。
「今日でおれたちとのゲームは終わりだけど、明日からは自分とのゲームが始まる。力の間違った使い方をするな。おれたちがいつでも……たとえそこに姿が見えなくても、いつも傍にいることを忘れるな」
洸己は加瀬から受け取った恭平を強く強く抱きしめた。
おろされた恭平は転移をしかけたが、ふと思いとどまる。
彼らが経緯を語ってくれる以前からずっと感じ悟っていたことを云うべきだと気づいた。
「……父さん、ありがとう」
二人の誰にともなく呼びかけた恭平の純粋な言葉に胸が詰まった。
「ああ、おれたちこそ、ありがとう、だよ」
「父さんたちのこと、ずっと忘れないから、ずっと傍にいるって約束だよ。父さんたちが望む未来をぼくは絶対に見届けるんだ」
「男の約束だ」
笑顔での約束。
恭平はそれを目に焼きつけるようにじっと見つめ、その場から消えた。
「よっしゃ、やるぞ。まずはおれだ」
加瀬はそう云って目を閉じると、トランス状態に入ったようにフッと表情をなくした。それは一瞬のことで、すぐに目を開ける。と同時に。
ジリリリリリリ――ッッ。
病院中に火災報知器が鳴り響く。
ドタドタドタッ……。
パタパタパタッ……。
病院スタッフたちの慌しく駆けていく足音が、あちこちから聞こえてくる。
「どこだ?!」
「二階ですっ……不妊クリニックの検査室からです!」
「どうしてそんなとこから火が出るんだ?!」
「わかりません! とにかく、煙が上がってくるまえに患者の非難を!」
加瀬が頭を押さえる。
「大丈夫か」
「ああ……もうすぐ治まるさ、永遠にな」
加瀬がその言葉の重みと裏腹に、軽く笑いながら云った。
「よし――」
洸己が云いかけたその刹那。
『おじちゃま』
聞き慣れた声が突然に割りこんできた。
今、ここに在るはずのない声だった。
「……晃……実……?」
『……ユウちゃんは……どこ?』
晃実の姿はなく、声だけが響く。二人は部屋を見渡した。が、やはり姿は見当たらない。
「雄士は眠ってる。ここは危険だ。晃実、早く戻るんだ、自分の躰に」
『ユウちゃんの中から……アキミは消えたの……わかってる。ユウちゃんとは……もう……会っちゃだめなの? 会えないの?』
「そうじゃないよ。今は力の使い方がよくわからないと思う。どれくらいの力があるのかもわからない。だから、ちゃんとルールを決めて使えるようになったら会えるよ」
『だって……おじちゃまたちとのゲーム、まだ終わってないよ』
「ゲームはおれたちの負けだよ」
『……環おばちゃま……泣いちゃうの……?』
すばやく考えをめぐらして、晃実はその言葉の意味を察した。
「そう。だから、力を使っていいんだよ。ただ……」
『悪いことに使っちゃだめ! でしょ?』
洸己の言葉をさえぎった晃実の声に無邪気な笑みが見えた。
「そうだよ」
『ちゃんと使えるようになったら……本当に会えるの? 会ってもいいの?』
「いいよ」
洸己が快く応じたにもかかわらず、洸己たちにもわかるほどの禍々しい感情がこの部屋を覆った。
「晃実……?」
『……おじちゃま……でも、会えるのかな……アキミ、この病院嫌い……嘘吐きばっかり。良くなるからって嫌いな注射打たれても良くならなかった……力はなくならない。反対にどんどん増えていくの。注射はとっても怖いんだよ……ずっとずっと暗いところに埋められている感じ……。ここは嘘吐き。悪いことしてないのに……ユウちゃんと会えなくなった……だったら、良いことしても悪いことしても同じ……。注射のせいで息ができなくなったの……良くなんてならないよ……苦しい……。アキミは……死んだんだって……嘘吐くの。ユウちゃんとも会えるって……ほんとは……会えないってことなの。アキミは……わかってる……ユウちゃん……また来るって……でも……もう来てくれない! ここは嘘吐きばっかり……大っ嫌いっ!』
とりとめもなくつぶやいていた晃実の声がだんだんと昂っていき、怒りのままに叫んだとたん、ドンッと激しい爆破音が聴こえた。
ドアの向こうで絶叫が走る。
それとともに晃実が洸己たちの前に姿を現した。
その姿を見て、二人の中に同じ畏怖が集う。
まさか……っ!
すでに恭平が見た未来は目の前に――。
洸己は咄嗟に寄って晃実を抱きしめた。剥きだしになった力が洸己を襲う。
く――っ。
晃実に触れている躰の表面がピリピリと切り裂かれる感触を覚えた。それでも腕は解かなかった。
「大丈夫……大丈夫だから」
そう云ってきつく抱いていると、晃実の淀んだ感情が治まっていった。
『……おじちゃま……ユウちゃんの腕の中にいるみたい…… でも……力が……いっぱいで……爆発しそう……おじちゃま……助けて……怖いよ……』
「大丈夫……」
再びそう云って、洸己は躰を離した。
「洸己!」
加瀬が驚愕して叫んだ。
洸己の切り裂かれたパジャマが見る見るうちに赤黒く染まっていく。
「……大丈夫だ。頭痛に比べればなんてことない」
『おじちゃま……! アキミが……やったのね?!』
晃実が恐れ慄き、発作を起こしているように肩で息を吐き始める。
洸己は晃実の顔を両手で挟む。
「大丈夫だよ。それより、晃実は自分でお母さんのところへ戻れる?」
『……わからない』
洸己が訊ねると、不安を拭い去れないまま、さらに不安になったように晃実は首を振った。
「戻るんだよ。泣かせたらだめだろ?」
『……うん』
「よし、いい子だ。じゃあ帰るまえに晃実の力を貸してほしい」
『うん』
晃実は素直にこっくりした。
洸己は立ちあがると、加瀬に向き直った。
「本当にこれで、おまえの人生を終わりにしていいのか」
洸己が念を押す。
「もちろんだ。おれより、ここに未練があるのはおまえだろ」
「違うだろ。おれたち二人とも未練がありすぎるんだ。恭平も晃実もおれたちの子供だろ。ほんとは生きて守りたいんだ」
洸己は乱暴に云い返した。
「そうだな。けど、自分が異能力に支配されることを思うとゾッとする」
「だからこそ、おれらはここで終わる。あとは恭平に託すしかない。雄士と晃実にも」
『おじちゃまたち……お別れなの……?』
二人の会話のなかから、永遠の離別を察した晃実は心細く訊ねた。
「そうだよ。けど会えなくても、晃実を大好きな気持ちと守りたい気持ちは晃実の心に置いていく。だから約束してほしい」
『なあに?』
「おれたちを信じて。恭平を信じて。お母さんを信じて。そして、雄士を信じてほしい。難しいことだけど晃実が大好きだって思う人を最後まで信じてほしいんだ」
『……うん、わかった』
「ありがとう」
そう云ってかがむと、洸己はもう一度しっかりと晃実を抱きしめた。
その瞬間に洸己の躰が熱くなる。躰を離すと、晃実に触れてできた傷口がふさがり、痛みもとれていた。
これが真の姿であることを――。
洸己は再び立ちあがった。
「晃実の力を誘導するぞ」
「どうやってやるんだ?」
「願うしかないだろ」
「行き当たりばったりだな」
洸己と加瀬は顔を見合わせて笑った。
『おじちゃまたち……何をするの?』
「ここを全部壊すんだ」
『……粉々にしちゃっていい?』
深刻な状況を承知しているはずも、子供らしく、隠しきれないわくわくした響きがその声に潜んでいる。
「罪のない人を巻きこんじゃいけない」
『罪のない人?』
「そう……関係ない人のことだよ。そうだな。今で云うなら、晃実を死んだことにするような注射をした人は?」
『悪い人!』
「そう。悪い人じゃない人を巻きこんじゃいけない」
『うん、わかった。おじちゃま、ちょっと待ってて』
「晃――?!」
最後まで云いきれないうちに晃実の躰が散り散りになって宙に溶けた。
「……洸己……どう……なってんだ……?」
つい先刻まで晃実がいた場所と傷跡すらない洸己の腹部を交互に見つめながら、加瀬は呆然とつぶやいた。
「晃実の力はどっちにでも動くってことだ。晃実の意思を動かす誰かの意思で、もしくは晃実自身の意思で光にも闇にもなる……ということだろ」
「恭平が云った闇は晃実のことか?」
「それはわからない」
「なぜ、闇になるかもしれない力を連れて行かない?」
「晃実に信じてほしいと云ったように、おれも晃実を信じたいんだ。晃実が持ってる再生の力を信じたい。それが晃実の根本のような気がする。恭平が云ったように、おれたちがここで終わっても海堂は変わらないかもしれない。そのときに、三人の子供たちが終わらせてくれることを信じたい。三人であるからこそ、均衡が守られるような気がするんだ」
『おじちゃま……終わったよ』
その声とともに散り散りだった躰が集結した。
「何を終わったんだ?」
『えっと……『罪のない人』を全部、お外に出してあげたの。出てってお願いしたら自分で歩いて出てっちゃった。人ってお人形さんみたいに動かせるんだね』
「晃実――」
『おじちゃま、わかってるよ。これも、悪いこと、なんでしょ? お人形さんに気持ちはないけど、人にはあるんだよね?』
「いい子だ」
『うん! だから『気持ち』見て、悪い人は全部ここに閉じこめたよ!』
「気持ち、見たって?」
『アキミは死んだの?って訊いて、選んでもらったの。一番目は知らない、二番目は死んだ、三番目は死んだふりしてるだけ。三番って答えた人は悪い人!』
「はっ、上出来だ」
加瀬が心底から可笑しそうに笑った。
「じゃあ、晃実、今度はおれたちの気持ちを見て。そのとおりに力を貸してほしい。爆発しそうな力を全部、ここで使うんだ」
『うん、わかった』
「やるぞ」
洸己が声をかけた。
「最後だ。派手にやろうぜ。木っ端微塵だ」
加瀬は力強く応えた。
二人は晃実を囲んで自分の中にあるすべてのエネルギーを集中した。二人それぞれの万感が重なり、晃実に入りこむ。
異能力を一回のチャンスに使いきる。
晃実の躰が閃光となって二人の躰を取り巻き、ふくれあがっていく。
想いは力と重なって放たれた。
ヴァ――ア――ァ――ン――ッ!
耳をふさがずにはいられない轟音が地響きとともに空気を揺るがす。
時の鳥となりし、神の旅人よ。
もしもこの犠牲が無駄ならば、遥か時に、我らが願いを届けてほしい。
我が心を彼らの傍に留めてほしい。
愚かな己の過ちを償うべく――。
力は想いとなって渡りゆく。
残された愛しき者たちよ。
今、この瞬間の心を胸に刻め。
今、信じるものを心に放て。
人の命は泡沫。
悔いは要せず。
すべては己のために、守るべき者のために、完遂すべし。
それが生きること。
おまえたちの生あること。
それが誇り。
晃実の意識は衝撃に飛ばされるようにして自分の本来の躰に戻った。
香恵の腕がしっかりと晃実を抱いている。
――かあさま。
その感触に守られるようにして晃実は眠りについた。
愛しさに止まない心が彼方へと散らばっていく。
環。
誰もの記憶には残らなくても、きみの中で、ありがとう、ときみから云ってもらえるほど、おれはカッコよく生きてるんだろうか。
今、ただ、願うよ。
きみのゆくすえに、幸あれ、と……、――――――。
* * * *
そこは一帯、灰燼と化していた。微塵の跡形もない。
この状況では考えられないことだったが、被害はその一角のみ、すっぽりと無になっただけで、隣接する建物は傷一つなかった。幾人の被害者が出たのか。
立ち入り禁止にもかかわらず、それを権力で押しきった人物が敷地を奥へと進む。黒い燃えカスが地を踏みつけるたびにぽろぽろと崩れて灰と化す。その瞳には表情もなく、ただ一帯を見渡しながら歩いていた。
ふと、何かに気づいたようにその足が止まる。
長身の躰を折り、その手が地に伸びた。