Xの記憶〜涙の見る夢〜
第4章 境遇の支配 7.鼓動
晃実は看護師に手を引かれて病室へ戻った。
その後ろを雄士がついてくる。
ベッドの上に晃実を抱えあげ、ポケットの中に手を入れた看護師が、
「あら、体温計を忘れてきたみたい。取ってくるから待っててね。お母さんも呼んでくるから」
とやさしい笑みを向けて出ていった。
「……ユウちゃん……あたしたち……会えなくなるの?」
ベッドから下りて晃実は雄士を見上げた。
「会えるよ。だめだって云われても会いに来る」
「……“涙”が……大きくなってるみたい……」
その言葉を裏付けるように、晃実の瞳には畏れしか見当たらない。
「大丈夫。いつもみたいにちゃんとなくしてあげる」
「うん。ぎゅってして」
晃実と雄士の鼓動が重なる。躰が融合するような感覚のなかで、畏れという感情とともに晃実の力が雄士へと流れる。
晃実や恭平と違って、雄士には力がどれだけ生まれても自分の中で処理できる能力があるとわかった。何が違うのかはわからない。ただ、今はそれが晃実のために役立っている。それが、すべて、のような気がした。
雄士にも畏れがないわけではない。幼いからこその思ったように動けないもどかしさのなかで混乱している。それでもこれ以上の畏れから晃実を守りたいと思った。
* * * *
海堂病院の一室では不穏な目算が漂っていた。
「その後、どうなんだ?」
「それはもう仲がいいんですよ」
「そうだろうな」
「ここ最近の“MEG”は百パーセントの安定率で自ら蘇生してます。そろそろ……と思っていますが」
「任せる。いよいよ、か。世界は我々にひれ伏すだろう」
* * * *
晃実の畏れは取り越し苦労だったのか、雄士はその後も変わらず病院へとやって来た。
秘密を知られてしまった翌日、洸己は恐る恐る自分を見つめる晃実に、
「雄士とはちゃんと話したから大丈夫だよ」
と今までと変わらない笑みを見せた。
晃実がホッとしたように笑うと、洸己もまたその反応に安堵したようで、晃実の頭をやさしく撫でた。
その手から温かさが伝わってくる。
「おじちゃま、アキミ、いつかおじちゃまたちの病気を治してあげるね」
洸己たちは、ありがとう、とうれしそうに云いながらも、どこか哀しげに笑った。
感じ取った哀しみの理由がわからずに、安心したはずが結局、晃実は畏れを払拭できなかった。
雄士ではまにあわないほど、畏れは力を伴ってだんだんとふくらんでいく。
自分の中で鼓動が二重に打っているような感覚は爆発の前触れという気がした。
そして病棟内の禍々しい空気は異変を教えるように、ますますその色を濃くしていく。
一週間も経つと、雄士だけでは処理しきれなくなった。
涙が溢れる。
「晃実、この頃、元気ないわね。お熱でもある?」
ベッドの上に座って絵本を膝の上に広げていると、香恵が心配そうに顔を覗きこんで、晃実の額に自分の額をくっつけた。
「うん。お熱は大丈夫」
「かあさま……とうさまには今度いつ会えるの?」
「そうだよね。会いたいもんね。今度の土曜日に来てってお願いしようか?」
晃実の父親は単身赴任で広島にいる。頻繁に会うことはできないが、それでも晃実は会うたびに肩車をしてくれるやさしい父親が大好きだ。
「すぐは……だめ?」
「急には無理でしょ? なあに、どうしたの?」
「なんだか……怖い……」
晃実が見上げて云うと香恵の顔が恐れ慄く。香恵の顔になんらかの結論がよぎった。
「……大丈夫だから……ね」
そう云って香恵は強く晃実を抱きしめた。
その日の午後になって雄士はやって来た。
洸己たちの部屋でいつものように三人集まって遊んだ。カードゲームも普通の神経衰弱では飽き足らず、母親たち手作りのカードを使う。日本語のカードと英語のカードが裏返しになって散らばり、同じ言葉と合わせるのだ。
「あ、新しいカードが増えてる。“約束”って英語でなんだろ?」
「プロミス」
恭平の疑問に加瀬が答えた。
「わかった。スペルは云わないでいいよ。考える!」
透視が苦手で、加えてはじめての単語という難関に、恭平は唸りながらカードを探った。
一方で晃実は、最初のうち、雄士と会えたことがうれしくて素直に楽しんでいたが、だんだんとぼんやりしてしまうことが多くなった。
「アキミちゃん、どうしたの? 楽しくないなら違うことして遊ぼうか?」
今日はあまり笑うことのない晃実に気づいて雄士が訊ねた。
「ううん……絵本、読みたいからちょっと取ってくる」
ソファから下りて晃実は自分の病室へ行った。
病室に入るなり窓際まで行って背伸びをすると花瓶を取った。
かがみこむと、落とさないようにと床に置いた花瓶に溢れる涙を落とした。
畏れは力を無力にする。
背後の足音にも身に迫る危機にも気づかなかった。
晃実の首筋にチクリと痛みが走る。
あっ!
振り向いたときには看護師の足しか見えなかった。
目の前がかすんでいく。それでも無意識に助けを求めるように立ちあがって一歩、二歩、とドアのほうへ踏みだした。が、動くことができたのもそこまでで躰がぐらりと揺れた。
様子を見守っていた看護師は倒れかけた晃実の躰を支える。
「大丈夫よ。すぐによくなるから。いつもの注射をしましょうね」
呼吸ができずに喘ぐ晃実を床に横たえると、看護師は至って穏やかに告げ、二本目の注射をかざして見せた。
ぼんやりとそれが目に入ると同時に、看護師の手が晃実の瞼を閉じた。
呼吸はままならず、意識はかすれていく。
「大丈夫よ」
なぐさめるように再びそうつぶやいた看護師は晃実の腕に注射針を打った。
「息ができなくて苦しいと思うけど、どうやったらラクになるか、わかってるはずよ。今まで練習してきたことを思いだして」
看護師の声は何重もの膜を通して喋っているようにぼんやりと聴こえる。
「最初は躰をだんだんと冷たくしていくの。ドキドキっていう鼓動が感じ取れなくなるくらいに冷たくしていくのよ。そうしたら息は皮膚呼吸で充分なはずよ。簡単でしょ? すぐラクになれるわ。また会いましょうね、晃実ちゃん」
看護師の声には愛着さえ感じ取れる歪んだ思惑があった。
「合言葉は……」
『Maternally Expressed Genes』
看護師の声に重ねるように晃実のくちびるが同じ言葉をかたどり、意識は地の底へと吸いこまれるように薄れていく。
看護師は晃実の躰をベッドに横たえると、枕もとのナースコールのボタンを押した。
『はい』
「晃実ちゃんの容体が急変しました。すぐにドクターを」
『わかりました』
看護師はドアに向かう。
「晃実ちゃんのお母さん! すぐに病室へ戻ってください!」
廊下に出ると足早にプレイルームへ向かい、看護師は慌てた様子を演じた。
誰も傍にいないまま意識が混濁していく今、独り、という畏れだけが大きくなっていく。
どくんっ。
手に取れる鼓動が消えようとするなかで、一際大きく鼓動が打つ。
ドクン。
共鳴する鼓動。
どくんっ。
ドクン。
―― かあ…さま……キョ…ヘイ……ちゃん……ユ…ゥ……ちゃ…ん…っ――!
――――ッ?!
「アキミちゃん!!」
いきなり叫んだ雄士は、無意識のうちに異能力を使って隣の晃実の部屋に瞬間転移した。
「恭平!」
洸己が呼ぶとすぐさま反応して、雄士と同じように晃実の声を聴いた恭平は隣の部屋の様子を窺う。
ベッドの上に横たわった晃実は微動だにしない。
「アキミちゃんが……死んじゃった……」
恭平がつぶやいた。
「大丈夫だ、恭平。おまえがそう云っただろ?」
「恭平、やることはわかってるな?」
恭平は怯えながらも、しっかりとうなずく。
「よし、男だもんな。あとはおまえに任せる」
ドアが音を立てて開く。
「父さん、アキミちゃんが……!!」
叫びながら雄士が戻ってきた。
洸己はベッドから降りて雄士を抱き止める。
「大丈夫だ。晃実ちゃんは助かる」
「でも……っ!」
「大丈夫だ。雄士、聞いてほしい」
確信を込めて繰り返された言葉に雄士は少し落ち着いたようで、洸己と目を合わせた。
「これから、いろんなことが……つらいことがあるかもしれない。けど、それが終わりじゃない。ずっとさきになるとしても、いずれ答えは出る。いや、出るというよりは、おまえが出さなくちゃならない。その答えを父さんは信じている。母さんを守ってほしい」
「……どうして……? さよなら……みたいだ……」
不安に満ちた雄士の言葉に洸己は小さくうなずいた。それから恭平を振り向いた。
「恭平……」
「……わかった」
「晃実っ……晃実っ……!」
香恵は看護師に添われながら病室に戻ったとたん、横たわる晃実を見てその名を何度も叫んだ。
駆け寄って頬に触れた瞬間、その死がわかった。
氷よりも冷たい感触。
晃実が口にした別れの予感はたった数時間前のこと。
こんなに早く――。
覚悟していたにもかかわらず、覚悟なんて何もならない。
香恵はそう知った。
叫び続けるなか、ドクターやほかの看護師が慌しく病室に入ってきた。
香恵は晃実から引き剥がされ、動かない晃実を呆然と見守るしかできなかった。
同じ病気の子が二才前には亡くなっていくという事実はこの目で見てきた。
最近になって急に元気がなくなった晃実を知っている。
けれど、違う。そんなはずはない。
いざ、晃実の死を目の前に見て、その死を納得できる理由が何もないことに気づいた。
そして、彼ら、と、似ている、ことにも。
右往左往している看護師の一人が床に置いていた花瓶を倒した。
カタンッ。
倒れた花瓶は転がって壁に当たり、少し跳ね返って止まった。
乾くことのない“涙”が零れる。
「ユウシ、ごめん」
そう云うなり、恭平は洸己の腕の中にいる雄士の腕を取った。雄士の前腕の中間部分に爪を立てて傷を入れる。
「キョウヘイ……何する――?!」
「ユウシ、ぼくたちは今、“それ”に向かうには小さすぎるんだ」
雄士をさえぎって恭平はつぶやくように云うと、自分の指にも傷を入れた。
晃実が教えてくれた対処法。
それを見た雄士が漠然と恭平がやろうとしていることを知った。
「アキミちゃんが……! 父さん、放してよっ!」
雄士は自分を羽交い絞めにしている洸己の腕の中で暴れた。
が、父親の腕にも異能力の束縛にも敵わなかった。
病室に慌てて戻ってきた環がつらそうに雄士を見守る。
「雄士、ごめんな。今はわからなくてもいつかわかる……わかってほしい」
「わからないっ。どうして……! アキミちゃんが……呼んでる……泣いてるよっ。ねぇ、父さん、放して!」
「……ごめんね、雄士」
環がかがんで雄士の頬を撫でる。
「母さん、お願いだよ。行かなきゃ……」
雄士の懇願にも環は首を横に振って応えてくれなかった。
「アキミちゃんは……怖がってるんだよっ。ぼくが行かなきゃ……っ!」
「ぼくが……守るよ……その“時”がくるまで」
「キョウヘイ……?!」
雄士は訴えるように恭平を見つめた。
「……約束だ」
そう云って恭平は傷ついた指で雄士の傷に触れた。
どくんっ。
触れた傷から熱が伝わり、それに抵抗するように一際大きく鼓動が打った。
ドクン。
反応する鼓動。
薄れていく記憶。
忘れたくないっ。
どくんっ。
アキミ……ちゃ……ん――――っ!
ドクン――ッ。
…………ユ…ゥ……ちゃん……どこ……?
目覚めた意識。
……アキミ……ちゃん……。
……ユ…ゥ……ちゃん……どこ?
……アキミ……ちゃん……。
眠りゆく意識は応えることなくただその名を呼ぶだけだった。
そして雄士の意思は絶えた。
目覚めた意識は雄士の中から自分が消えたことに気づいた。
躰が自由にならないぶん、感情だけが息衝きふくらんでいく。
ドクン……ドクン……ドクン……ドクン……。
暗闇の中で確かな脈が音をだんだんと大きくする。
ユ…ゥ……ちゃん……助けて……っ。
心が叫ぶも、応えがないこともわかっている。
力が際限なく宿っていく。
「ご臨終です」
医者が宣告した。
「……そんなはず……」
香恵は突き動かされるようにベッドに近寄り、晃実の冷たい手を握り締め、その頬を撫でた。
「なぜ……こんなに……冷たいの……?」
信じられない。たった今まで生きてたのに……っ。
怖い……よ……。
闇の中で救ってくれる声はもう一つしかない。
意思とは分離したような躰の一点に集中する。
しっかりと握られた手をかすかに握り返した感触。
そして、意思の限りで呼びかけた。
かあ……さま……。
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* 文中“MEG(メグ)” Maternally Expressed Genes : Wikipedia参照
母親由来のゲノムからのみ発現する遺伝子群(ミトコンドリア遺伝子)