Xの記憶〜涙の見る夢〜
第4章 境遇の支配 6.闇と光と心
晃実の中には畏れが絶えず溢れている。
恭平が持て余した力を発散しているように、晃実にとっても力を発散することは必要なことだ。
晃実は再生する力を利用することで消化していた。特別心療内科の病棟にある植物は常に乾燥した空気の中でも瑞々しい。
それだけでは足りず、こっそり違う病棟に行っては誰かのちょっとした病気を治癒して、何も知らない医者が驚いているのを透視で覗きながらクスクスと笑う。
晃実にとっては密かな楽しみだ。
しかし力とは違って、処理することのできない畏れは溜まる一方だ。
畏れている原因はこの病院に漂っている禍々しい空気。そして母親が抱いている畏れの伝染。
同じ病気である恭平がいるからこそ耐えていられるが、次々と周りで亡くなっていく子供たちがいる現実は、晃実に恭平がいなくなるかもしれないという覚悟も押しつける。
加えて大嫌いな注射がもたらす異様な感覚。
眠っているのに誰かに操られてやりたくないことをやらされ、逆らうことも口答えもできない苦痛という感覚だけを持って目覚める。
その畏れはいつの頃からか“涙”を流すことで消化することを覚えた。それは同時に、晃実にとって巨大すぎるエネルギーも小さくしていく。
普通じゃない力なんていらない。そうしたら母さまとも父さまともずっと一緒にいられる。
エネルギーが小さくなったのは畏れとともに自分の中にある、その願いのせいかもしれない。
そういうなかで雄士と出会った。
雄士を見た瞬間に感じたのは“同じ”であること。
何が? と問われても晃実には答えられない。
あたしたちは一緒にいるべきなのに。
本能的にそう思った。
雄士が晃実に触れたいと思ったのと同じように。
ともにいるべきなのに邪魔しているのは三人が約束した『秘密』。
秘密は守らなくてはならない。守らないと引き離される。
漠然とした予感は新たな畏れを招いた。
どこの病室にもあるように窓際に違和感なく置かれた空っぽの花瓶。背伸びして手に取り、晃実は中身を覗いた。
溜まっていく涙は乾くことがなく、見るものによっては不気味に淀んでいる。
感情が涙となって溢れる。
ポタン……ポタン……ポタン……。
バタンッ!
「アキミちゃん、来たよ!」
いつもは雄士が来ると感覚ですぐわかるのに、今日は前触れもなく病室のドアは開けられた。
畏れは晃実を混乱させ、こんなふうに力を無力にする。
見られたくなかったのに……!
「ねぇ、何やってるの?」
背を向けたまま振り向かない晃実に雄士が問いかけたとたん、ビクリと震えた手から花瓶が滑り落ちる。
あっ――!
花瓶が甲高い音で砕けるとともに涙が広がる。
「アキミちゃん、大丈夫……?!」
晃実は呆然と立ちすくむ。
「……何……これ……?」
駆けよった雄士は涙が目に入ると瞳を見開き、かがんで割れた花瓶の欠片に手を伸ばした。
「アキミちゃん、ユウシが来てるよね……?!」
恭平は云いながら入っていくと、晃実が震える眼差しで振り向いた。
その足もとに広がった涙と、雄士の手が目に入ると同時に恭平の目の前にイメージが広がる。
―― ユウシッ! 触るなっ!!
恭平の強い思念に驚いた雄士の手が震え、花瓶の欠片の先端に指が触れた。
直感で叫んだ恭平の制止はまにあった――のか。
血の雫が一滴だけ涙に落ちる。
なぜ止めなければならなかったのか。
それは恭平にもわからない。
イメージも直感も一瞬にして消えた。
刹那、涙が息衝いたようにうごめく。
もしかしたら、静かな水面に石を落としたときにできる小波のようなもので、ただの錯覚かもしれない。
「ねぇ、母さまには黙ってて。またヘンなことしてるって怒られちゃう」
晃実は涙を浮かべ、震える声でつぶやくように云った。
「アキミちゃん、これはどうしたの?」
恭平が訊ねると、晃実はますます泣きだしてしまいそうになる。
「心配しないで。ぼくたちの秘密にするから」
雄士は安心させるように晃実の頭を撫でた。
晃実はおずおずと打ち明けたあと、二人をかわるがわる不安そうに見つめる。
「……ホントに秘密にしてくれる?」
「大丈夫だよ」
「誓いの印に契約すればいいんだ」
「ケイヤク?」
難しい言葉を使う恭平を晃実は不思議そうに見返した。
「どうやってやるの?」
力が甦って以来、雄士の脳は急速に発達していき、晃実のように戸惑うことなく恭平の言葉を理解した。
「そうだね……」
恭平はそう云いつつ、雄士の指の傷が目に入るといいことを思いついたように輝いた。
「“血の契約”にしよう!」
「どうやるの?」
「こうやって……」
恭平は自分の右の人差し指を左指の爪で切った。そこから血がプックリと漏れだす。晃実も見様見真似で指を切る。
その後の過程は以心伝心で三人は指の傷口を合わせた。
一瞬だけ熱く感じた指先に晃実はひたすらに願う。
云わないで。
「“これ”、どうしよう……」
指を離すと、晃実は足もとを見てつぶやいた。
「……“・・・”……あれ……?」
恭平は云いかけて言葉にできないまま、不思議そうに首をかしげた。
晃実と雄士は顔を上げた。
「……キョウヘイちゃん、どうしたの?」
「……“・・・”……って言葉が出ない」
口を開いたものの、その部分だけ言葉にならない。
「キョウヘイ、“・・・”って云えないのか? あれ……?」
察した雄士だったが、恭平と同じように詰まってそこだけ言葉にすることができなかった。
恭平は雄士から晃実に目を移す。
「アキミちゃん、何かした?」
「あたし……云わないでって思っただけだもん……何もしてないっ」
晃実は怯えたように首を振ると、再び雄士の手が頭に下りてきた。
「アキミちゃん、大丈夫だよ。ほかはなんともないし」
晃実は恭平を窺う。
「うん、大丈夫」
恭平の答えに晃実はホッとした。
「これ、雑巾で拭いたらばれちゃうかもしれない」
「アキミちゃんはもとに戻す力を持ってるよね?」
雄士が云うと、
「あ、そっか!」
と晃実は目に見えて安心した様を見せ、この日、はじめて笑った。
花瓶は割れた痕跡も残さずに修復され、“涙”は吸いこまれるように花瓶の中に収まった。
「ユウちゃん、今日は注射なの。いつもみたいに一緒にいてくれる?」
「うん。今日はそのために来たんだよ」
出会って二週間。求める気持ちが増えていく。
注射のあとの目覚めの恐怖を救ってくれるのは唯一、母親だけだったのだが、それにも増して雄士の声は晃実を安心させる。
「アキミちゃん、“それ”がアキミちゃんの中に溜まらないようにしてあげる」
「どうやって?」
「……わからないけど、できそうな気がするんだ」
子供っぽい困惑した顔つきだったが、雄士の言葉は確信に満ちている。
「うん!」
晃実の顔にこれまでになくうれしそうな、そして安堵を加えた笑みが広がった。
洸己はふと違和を感じた。
ベッドの脚もとのほうに置かれた長いソファでは、子供たち三人がトランプでババぬきをして遊んでいる。
晃実と恭平に知り合ってから一カ月が経った。
覚悟していたはずの洸己たちだったが、子供たちと出会った今、決心が鈍っていた。
今、三人がやっているババぬきは通常とは少し違っている。手に持ったトランプは扇のように開かれることはなく、束ねられたままだ。手前から『何番目』というやり方でカードをやり取りしている。
晃実は当然のように能力を使い、確実に手もとのカードを減らしている。恭平は透視が苦手なのか、終始、小難しく顔をしかめていた。
違和を感じたのはこの二人にではない。自分の息子である雄士であった。
恭平よりも、というよりは晃実に引けを取らずに確実なカードを引いていること。そして時折、声にせずに語り合っているようなアイコンタクトに気づいた。
まさか……っ!
驚愕したとたんにそれが伝わったのか、晃実が顔を上げて洸己に目を向けた。そのあどけない瞳が不安そうにかげる。そして涙が溢れて落ちた。
カードに集中していた恭平と雄士は、手を止めた晃実に気づいて顔を上げると、そこに涙を認め、声をそろえて、
「アキミちゃん?!」
と驚いた顔で呼びかける。
晃実は雄士を見つめた。
―― ユウちゃん、秘密、バレちゃった……。
洸己は妙に大人びた自分の息子の瞳と、出方を探るような恭平の瞳に見返された。
「どうしたんだ?」
加瀬が異常に気づいて洸己に声をかける。
洸己が答える間もなく、ノックがあると同時にドアが開いて看護師が入ってきた。
「やっぱりここだった。晃実ちゃん、注射の時間よ……あら、泣いてるの? 大丈夫よ、いつもみたいにすぐに終わるんだから」
勘違いした看護師は一方的に云うと、おいで、と手を差しだす。
「……ユウちゃん……」
晃実が訴えるように見ると、雄士はうなずいた。
「ついててあげるよ」
雄士は晃実とともに立ちあがって部屋を出ていく。
と、扉が閉まる瞬間、洸己に目を向けた。
―― どうするの?
異能の力を使った雄士の問いかけは加瀬にも届いた。
ドアが閉まった病室は驚きに溢れ、空気が緊迫して震えた。
洸己と加瀬の視線は残った恭平に集中した。
「……アキミちゃんはユウシを見てすぐに同じ力を持ってるって気づいたんだ。どうしてユウシの力を閉じこめたの?」
「……力を悪いことのために使われないように……と思ったんだ」
「ぼくたちは……もうすぐ死ぬんだって……二才になれないと思ってた。でもユウシはもうすぐ五才になるんだよね……? おじさんたちも生きてる」
「雄士ときみたちとぼくたちは違うんだ」
「何が違うの?」
「命が誕生したときの条件、と云ってわかるかな?」
「ぼくはおじさんたちと同じくらい言葉は理解できるよ。わからないのは……アキミちゃんとユウシの間に何があるのかってこと」
「何が……って?」
洸己たちは戸惑ったように顔を見合わせると、恭平は落胆のため息を吐いた。
「おじさんたちもわからないんだね。ユウシの力が戻ったのはアキミちゃんと会ったからなんだよ。爆発したみたいだった。誰も気づかなかったけど。ぼくは、どうしてって思った。そしたらいろんなことが頭に入ってきた」
「いろんなこと?」
「うん。たくさんの知識。おじさんたちは間違ってる。ぼくたちは病気じゃない。ぼくたちが死ぬんなら、それは病気じゃなくてあの注射のせいだよ。でも、ぼくたちは生き延びられる。だってぼくは見たんだ」
「見たって……何を?」
「ずっとさきの未来。はっきりとじゃないけど、そこにはぼくたちもいるはずなんだ」
「恭平……何を云ってるんだ? 未来が……見えるのか……?」
加瀬は呆然とつぶやいた。
「ねぇ、教えて。ぼくたちがどうやって生まれたのか。ユウシとおじさんたちとぼくがどう違うのか、ぼくは知りたい」
洸己は隣の加瀬に目をやって無言のまま確認をとった。
「わかった。あの日……六年前――」
洸己が事実を話している間、恭平は時に質問をしたがほとんどを黙ったまま、何も漏らすまいと真剣な眼差しで聴きとめていた。
「……じゃあ……おじさんたちは……」
聴き終わったあと、恭平の頭にはキーワードが溢れ、それは一つの結果を導きだす。
「決着をつけるつもりなんだ? ぼくとアキミちゃんも道連れにして。ユウシが目覚めた今はユウシも一緒に連れて行かないと無駄になるね」
「それは……!」
洸己はつらそうに恭平から目をそむけた。
「目覚めてなくてもユウシを連れて行かないことは危ないことだよ。何がきっかけで目覚めるかわからないから。でも結局、おじさんたちはぼくたちを連れて行かない。おじさんたちにはできない」
「どういうことだ、恭平?」
恭平はそう云った加瀬に目を移した。
「ぼくはわかってる。おじさんたちがしようとしてること。どうしてそうするのかも。でもそうしても悪魔は……変わらないよ」
…………。
洸己たちはやるせない気持ちで強く目を閉じ、恭平の言葉を噛みしめる。
「だって、ぼくが見た未来に広がってるのは闇なんだよ?」
「……おれたちはそれでも……」
「闇にするのは異能力者だよ。おじさんたちがぼくたちを残していくなら、ぼくたち三人のうちの誰か、かもしれないよ?」
「恭平、おまえは何を見たんだ?」
「ぼくには、何もない闇、しか見えない」
「それは……闇じゃなくてさきが見えないだけなんじゃないのか?」
洸己がそう云うと、恭平はつかの間考えこんだ。
「……でもその闇には“心”があるんだ」
「その心は邪悪か?」
「……ううん。泣いてる。ずっと泣いてる。さみしくて……ぼくも泣きたくなるくらいに泣いてるよ……」
「だったら……おれたちは望みを捨てない」
「恭平、さみしさが闇にならないようにおまえはその心を探しだして守ってやれ。それが男だ」
「……うん、わかった」
恭平はこっくりと素直にうなずいた。恭平は洸己をじっと見つめる。
「おじさん……闇と関係あるかはぼくもはっきりわからない。でも――」
そのあとに語られた『見えた』ことに、恭平はどこまで確信を持っているのか。それは洸己たちにはまったく未知だった。
目の前に遠い未来の画像が流れているように宙を見つめ、恭平が語るなかで、恭平自身もそうしながらはじめて認識した、“偉大なる光”という存在が導きだされた。
“闇の心”と区別がつかないほど、擦れ擦れのラインを保って存在している偉大なる光。
恭平が見た未来は、闇だからこそ見えないのか、光が眩しすぎて瞳を開けていられないのか。
それはその“時”にしか、誰にも、わからない。