Xの記憶〜涙の見る夢〜

第4章 境遇の支配  1.偶偶

 所内に入って窓口での手続きを終えると、神河環(かみかわたまき)は受け取った専用服を羽織った。
 窓口の前をまっすぐに行って突き当たりを右に折れ、奥へと進んでいくうちに長く狭い廊下の正面にあるドアが開いた。連絡を受けた夫の洸己(こうき)が出てきて、環に向かって軽く手を上げた。
 互いに歩み寄って、環は持ってきた書類封筒を手渡す。

「洸己さん、はい、これ」
「悪かった。ありがとう」
「はじめてよね。あなたが忘れ物をするなんて。何か起こらなきゃいいけど」
 環がクスリと笑いながら洸己をからかう。
「たまたま、だろう。雨なんて降らないさ」
 洸己は書類でポンと環の頭を叩く。
「雨は降らなくても、放射線が降ってくるんじゃない?」
「冗談だろう。間違ってもそんなところに遭遇したくはないね」
 真剣にそう云っている洸己を見て、環はまた笑う。
「あら、でもここに勤めてる限り、ほかの人よりは可能性が高いでしょう?」
 環は原子力発電所一号機建屋(たてや)内の狭い廊下の奥をちらりと見やった。
「それはちょっと論理がずれてますよ、環さん」
 洸己はわざと二人が出会った頃の言葉遣いをした。
「そんなことがあってはならないんだよ」

 環は、日本有数、いや世界有数といってもいい大手企業、海堂グループの現社長の娘で根っからのお嬢さまだ。
 一方、洸己はごく一般の中流家庭に育った。
 二人は大学生のときに先輩後輩として、洸己の親友であり、環の幼なじみである芥見亨(あくたみとおる)を介して知り合った。
 洸己は、すべてが自分の思いどおりになるといったような環の態度を好きになれず、ずいぶん長い間、敬語のままで(さと)すような口調で接していた。環の行動を無遠慮に非難したり、一般常識を強要したりしたが、環は怒るよりも逆にそれを受け入れていった。
 そして気づいた。環はわがままなのではなく、自分の気持ちに純粋なだけだということに。
 そのさきは云わずと知れる。
 二人は環の家族の反対を押しきった形で、一つ下の彼女が大学卒業するのを待って結婚をした。

「そうね。私も洸己さんがいなくなるのは嫌だから」
「早く帰れよ」
 洸己は照れくささを感じて少しぶっきらぼうに云った。
 結婚して三年と新婚時代は過ぎたが、環はこんなセリフを照れもせずよく口にする。彼女の隠し事ができない性格はいつまでたっても変わらない。自分の気持ちを隠す(すべ)を彼女は知らない。というより、そうする必要がないと思っているのだ。
「うん。じゃ、気をつけて帰ってきてね」
「あれ、神河の奥さんじゃないですか。いつも仲のいいことで」
 環が帰りかけたとき、背後から洸己の同僚の加瀬真也が声をかけてきた。
「バカなことを云ってないで仕事に戻るぞ」
「もう休憩時間だぜ」
「ああ、もうそんな時間か。じゃ、環、おまえも気をつけて……」

 ウ――ン、ウ――ン、ウ――ン…………。

 洸己の言葉が途切れ、サイレンの音が短く繰り返し鳴った。
「まさか!」
「事故か?」
 洸己と加瀬は顔を見合わせた。
「環! きみも来てくれ。安全を確認してから送っていく!」
 呼び止めた環を引っぱって、洸己は中央制御室へと急いだ。

 中央制御室の中は慌ただしく会話が飛び交っていた。室内の壁はモニターやらスイッチにほぼ占領され、所員がチェックを急いでいる。
 サイレンはしばらくして止まったが、環の耳の奥ではまだその音が続いているような気がした。
 冗談で云ったことがまさか本当になるとは……それこそが、まさか、だ。

「環、送るよ。もう大丈夫だ」
「事故?」
 室内が落ち着きを取り戻した頃、洸己が不安そうにした環の傍に来た。
「いや、警報機の誤作動ということだ」
 ドアを開けて二人は廊下へと出た。
「ほんとに?」
「ああ。放射線の数値は平常枠を超えていないから」
「よかった。冗談が本当になったら笑い話にできないもの」
「そういう問題じゃないだろう」
 洸己は笑った。
「神河、問題ないからこのまま昼休みに入っていいってさ。せっかくだから愛しの奥さんとデートでもしてくるんだな」
 加瀬があとを追ってきた。
「うるさい。うらやましいんなら、おまえも早く結婚しろよ」
「環さんみたいな美人がいたらな」
「ね、加瀬さんも一緒に食べに行きま――」

 環が最後まで云わないうちに、ちょうど通りかかった横のドアが荒々しく音を立てて開いた。中から出てきた放射線高レベル用の保護服を着た作業員が勢いのあまり、洸己たちにぶつかった。
 洸己は突然のことによろけた環を支えた。
 マスクでその顔を判別することはできなかったが、その作業員は洸己たちを見て一礼すると、中央制御室のほうへ向かった。ゆっくりした足運びなのに、心なしか()いいるように見えるのは気のせいだろうか。
「不用心だなぁ。中のドアも開けっ放しだ」
 洸己がそう云いながら、奥のほうは原子炉建屋へと続くドアを閉めた。
「警報機が鳴ったんでびびってんじゃないの」
「かもな」

 三人ともに笑い、そろって隣のPR施設のレストランへ昼食を取りに出かけた。



――1年後。


 洸己は亨の家を訪ねた。
「入れよ」
 ドアベルに呼びだされてアパートのドアを開けると、亨はそのまま身を(ひるがえ)して奥の部屋へと進んだ。
「あらたまってなんだよ、いきなり相談て」
 部屋の周囲には雑然と山積みにされた本が並び、それに囲まれるように中央に小さなテーブルがある。
 そこに座ると早速、亨は訊ねた。が、見上げた洸己の今までにない様子に最後まで言葉にならなかった。
 思いつめたような顔をして、少しやつれた感じさえする。
「どうしたんだ。座れよ。そんなに深刻なのか」
 洸己は座ってそっぽを向くと深く息を()いた。
「環ちゃんと喧嘩(けんか)でもしたのか」
「環とは喧嘩にはならないことをよく知っているだろう。喧嘩になる奴がいたらお目にかかりたいくらいだ」
 洸己はかすかに笑って云った。

「……ヘンなんだ」
 洸己のとうとつな告白に亨は戸惑う。
「なんだって?」
「……ヘンなんだ」
「……何がヘンなんだ?」
「その……自分でもどうしてこうなったのかわからない……」
「だから、何が。いつもの率直なおまえらしくないな」
 洸己はそれでもためらっていた。やがて意を決したように顔を上げる。
「説明するより、実際に見てもらったほうがいいかもしれない」
 洸己はテーブルの上の灰皿に手をかざす。
「亨、よく見てろよ……」
 洸己は小さい声でカウントダウンした。
 ……ワン、ゼロ!
 ドンッ。
 触れてもいないセラミックの灰皿は亨の脇をすり抜け、背後の壁に飛ばされてぶつかって床に転がった。
 …………。
 亨の煙草を一本だけ拝借すると、洸己はまたそれに手をかざした。
 ライターもマッチも使わずにポッと火を(とも)す。
「……おまえ……いつマジックを覚えたんだ」
 亨が呆然としてつぶやく。

 意識して冗談を云っているわけではなく、そう云わずにはいられないような気分だった。
 もうすぐ七月という真夏に向かう今、種を隠す袖もない。
 この部屋に入ってから灰皿にも煙草にも洸己は指一本触れていず、種が仕掛けられなかったことは明白だ。ましてやマジックという特技があったわけでもなく、洸己が急にマジックに興味を持つとも思えなかった。

「マジックができるようになったからって、こんなに深刻になる必要ないだろう」
 洸己も亨の心情を察していたが、そう云うしかできなかった。
「いつから……?」
「気づいたのは去年の秋頃だった」
「原因はわかるのか?」
「いや……ただ、一年くらい前から、頻繁(ひんぱん)に頭痛がするようになった。それが関係するのかどうかはわからない」
「環ちゃんは知ってるのか?」
「ああ。このことに関しては、めずらしく環は口が(かた)いよ」
 (すなわ)ち、深刻なのだ。
 しばらく二人とも黙りこんだ。

「異能の力か……」
 亨がつぶやいた。
「ほかにも力があるんだ」
「どんな?」
「例えばこの部屋を出ようと思うだろ」
「ああ」
 亨が返事をしたとたんに、洸己は目の前から姿を消した。
 声にならないほどの驚愕だった。
 すぐに玄関へと続くドアが開いて、洸己が再び部屋の中へ入ってきた。
「大丈夫か」
「……こんなことがありえるのか」
 亨は信じられない気持ちで首を振った。
「紛れもなく現実だ。マジックでもなんでもない」
「……そうだな」
「おれ自身のことはまだいいんだ。心配なのは生まれてくる子供のことだ」
「八月だったな」

「ああ。ひっかかるのは、環が妊娠するまえにおれと同じ時期からずっと頭痛を訴えてたことなんだ。その頭痛がおれと同じもの、その頭痛がこの力のせいだという前提だが……そうなら、もしかしたら同じ力を持って生まれてくるかもしれない。おれの場合は善悪の判断がつくから使い道を間違ったりはしないし、乱用しないという自信もある。けど子供はそういうわけにはいかないだろう?」

「環ちゃんの頭痛、今はないのか? もしくは同じ力が」
「環の頭痛がなくなってから半年くらい経つ」
 亨は少し考えた。
「子供ができてからってことか……」
「さすがは医者だな」

 亨はK大学院で遺伝子治療研究生でもあり、遺伝子学教授の助手もしている。
「どうすればいい?」
 洸己は苦悩の表情を隠さず、亨を頼るように答えを求めた。
「……しばらく考えさせてくれ。頭の中を整理しないといい案も見つからない」
「ああ、そうだな……よかったよ、友だちに医者がいて、おまけにそいつがいい奴でさ」
「そのわりに、相談に来るのがやけに遅かったな?」
 亨はその理由がわかっていて、わざとそう訊いた。
 図ったとおり、洸己は笑う。
 亨は彼を少しでも元気づけたかったのだ。

「最初は怖さ半分、単純に便利だって思ったけどな。いろいろ考えたんだよ。おまえが云う異能力を悪用されるのが怖いんだ」

BACKNEXTDOOR