Xの記憶〜涙の見る夢〜

第3章 時の始動  6.芽生えた感情

 晃実が目を覚ましたのは、粋が眠りへの術を施した二十四時間後だった。
 その間に粋がどこで何をしていたのかは不明だったが、起きたときには傍にいた。
 この室内はものの見事にがらんどうで家具すらもない。ということは、どこからか調達してきたに違いない本を、粋は晃実の傍らで静かに読んでいた。同じく調達先不明のお菓子だのおにぎりだのという食品を手にしながら。
 晃実はかけられていたコットンのブランケットから抜けだし、寄り添っていたブレスを膝に抱いて、その分けまえをもらった。二十四時間何も口にしていないせいか、いつもなら味気なく感じるコンビニのおにぎりも美味(おい)しく食べられた。

「食べ方がめちゃくちゃだよ」
 胃が落ち着くと、晃実は粋を見て指摘した。
「どういうふうに?」
「知らないの?」
「ボクはずっとベッドの中で点滴づけだったんですよ。口から栄養をとったことなんて一度もありませんし、興味もありませんでした」
 その内容はとても哀しいことなのに、粋はどうでもいいことのようにさらりと事実を告げた。
「早くに調べて連れだしてたら、粋はずっと早くラクになれたのに……」
 粋は本人よりも深刻そうにしている晃実に冷めた微笑みを向けた。
「今更そんなことを云っても何も変わらないですよ。それより、おなかが減るって不思議な感覚ですよね。最初はそれがどういうことなのかわかりませんでした。悔やむのではなくて、食べ方を教えてくれたほうがボクのためになると思います」
 おなかが鳴るという現象に戸惑っている粋を想像し、晃実はクスッと笑った。
「そうだね……粋は自分に似合わない名前だって云ったけどそんなことないよ。人の気持ち、ちゃんと()んでくれる」
「“人”ではありません、“晃実”ですよ。それに、今のは思いやりなんかではありません。ボクは晃実という存在に興味を持っているだけです。この十六年の間に形成された自分の薄情な性格は把握(はあく)しています。それを勘違いされたくはないし、性格は簡単に直せるものではありませんから」
 粋は残酷に告げ、しかし、その正直な言葉の裏にはやさしさも感じ取れる。
 それこそ勘違いだと云われそうだ。
 わたしの甘さなんだろう。

「では、本題。人間の食生活について」
 粋が話をもとに戻した。
「そうね。まず、基本。人間は一日三食、朝昼晩って食事をとるの。お好みで三食の間におやつの時間があったりする」
「それで、ごはんとおやつの違いは?」
「粋が食べたので云うと、おにぎり弁当とカレーライスは食事に入る。体力を維持するのに必要なエネルギーとか栄養がいっぱいあるの」
 晃実は指差しながら、粋に教えた。
「そして、こっちのポテトチップスとかケーキとか、いわゆるお菓子ってのは普通おやつの時間に食べるもの。幼児期の手作りおやつは栄養補給として大切らしいけど、こういうお菓子は食べなくてもいいものだよ。でも、美味しいからやめられないんだよね」
「ふーん……晃実はまだおやつの時間が要るようですね」
 粋が口を歪めてその容姿らしからぬ笑みを浮かべ、晃実を見返した。
 その意味するところに晃実は気づく。
「わたし、そんな子供じゃないんだよ。粋こそ、手作りおやつが必要な時期でしょ」
「からかっただけですよ。ボクも美味しいと思います」
 粋にとっては嫌な話題になりつつあったので、急いで晃実に賛同した。

 大まかに探査した晃実の記憶による性格を考えると、彼女にはいくら自分が同い年であることを主張しても通じないだろう。それに伴って幼児扱いされるのはごめん(こうむ)りたい。

「ほんと? よかった。美味しい物はまだほかにいっぱいあるから、今度一緒につくろうね」
「こういうときは、つくってあげるね、じゃないんですか?」
 粋が一瞬考えこんで云うと、晃実は顔をしかめた。
「わたしだってほんとはそう云いたいの! でも苦手なんだよね。料理するのに異能力なんてなんの役にもたたないし」
 粋がくすくすと笑いだす。
「晃実って一端(いっぱし)の異能力者のくせに可愛いですね」

「……また子供だって云いたいんでしょ。誰もわたしを一人前だって思ってくれない。恭平はわたしの保護者ぶってるし、雄士は子供扱いだし、粋からまでそんなことを思われるなんて立ち直れないかも」
「そんなにがっかりすることはないですよ。それだけ晃実のことを守る側にいるってことです」
「粋は……わたしがしようとしていることがわかる? そのうえで、それが()げられるまでわたしに加勢してくれるの?」
 晃実はそれまでの軽快な表情を消し、真剣な眼差しを粋に向けた。
「そうです」
 晃実はとうとつに粋を抱きしめる。
「粋がいてくれてよかった」
 粋はこんな親密なしぐさの経験がなく、驚き、戸惑い、そして楽しんだ。
「こう見えても、晃実とボクは同い年ですよ」
「……だから?」
 …………。
 駄目で元々、と云ってはみたものの、やはり晃実には通じなかったようだ。
 晃実の食生活はまともでも、対人関係は普通とは云い難い。同い年という事実を頭ではわかっていても感情がついていっていない。
「いえ、なんでもありませんよ」
「何、気になるよ?」
「ボクが見てきた限りですが、普通ですね、ボクたちのくらいの年齢になると、よっぽど親しくないと、こんなふうにベタベタしていませんよ。少なくとも日本人は」
 晃実はつかの間、考えこむ。
「……わたしたち、親しくないの?」
 …………。
 粋はすぐにはなんと答えるべきかを迷い、言葉に詰まった。雄士でさえ口では対抗できなかった、粋が、だ。
「ああ、いいんです。ボクの云ったことは気にしないでください」
 純粋なのか世間知らずなのか、晃実と世間一般の感情面でいう常識はおよそかけ離れている。

 ずっとベッドに縛られていたこのボクでさえ、そのくらいの常識は身につけている。DAFの策略を(にな)わされ、クローンの躰を利用して世間に出ることがしばしばあり、人間の慣習を習得する時間はいくらでも取れた。
 (もとい)、ボクを助けること自体も無謀(むぼう)であり、晃実の常識が冷静さを欠き、逸脱(いつだつ)していることは確か。これが好奇心旺盛(おうせい)なボクじゃなかったらどうなっていたことか……。ボク自身がこう云うのもなんだけれど……。まあ、状況を考えれば一般の常識が育つことのほうが奇蹟(きせき)なのかもしれない。とにかく、晃実は興味深い異能力者だ。

「そう? 恭平は全然そんなことを云ったことなかったから」
 それはそうでしょう。
 粋はそっとつぶやいた。
 そして、恭平の気持ちを理解できる自分に戸惑いを覚える。恭平の中に入り、晃実を探査したことで、感情というものが少し芽生えたらしい。この自分が情に影響されるとは。しかもこのわずかな時間で。並の人間に入りこんでも、そうなった経験はない。
 感情が強すぎる。
 特に晃実は起伏(きふく)が激しく、逆にここまでよく制御できているものだと思うくらいだ。

「恭平のことはどうするつもりですか」
 粋はあえて訊いてみた。
 晃実の瞳が一瞬、当てをなくしたように宙をさまよい、そしてかげる。
「……助けるよ」
 とても静かに、しかしその短い言葉には決意が込められていた。
「ボクがいなかったら、恭平は捕まることはなかったのに」
 粋は後悔や罪悪感などではなく、ただ事実を淡々と述べた。
「そうじゃない。まえにも云ったでしょ。敵としてるのは異能力者じゃないから。それに、独りになるかもしれないことは覚悟してた」
「そうですか」
「うん。たぶん恭平もそう。だから、恭平は抵抗してたんだよ。わたしが計画を立て直す時間を確保するために……」

「そのわりに晃実はずいぶん往生際(おうじょうぎわ)が悪くありませんでしたか」
「うん。ちょっと……わかっちゃったの。その時間を恭平はいろんなことを考えて過ごしていくでしょ。そしたら、恭平はきっと死を選ぶ」
「どうして」
「恭平が抵抗をやめたとき、それはきっと恭平とわたしは敵になるということだから……そうなったときに、わたしは恭平を倒せない。恭平はそれに気づいてしまう。恭平はそういう状況にわたしを置いてしまう自分を許さないと思う。そうなったら、目的も果たせないし……」

「晃実と恭平は、闘うにはあまりにも互いを大事にしすぎますよ。闘うまえに自滅してる」
 粋は鋭く指摘した。
 晃実は目を伏せて笑った。
「そうだね。……だから、わたしは恭平の記憶を閉じたの」
「記憶を閉じる?」
「うん、“血の封鎖”。恭平の記憶を復活させることはできない……わたし、しか」

 粋の表情がはじめて大きく動き、驚きの表情を浮かべると、考えこむように顔をしかめた。
「晃実も“ミーム”が使えるんですね」

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