Xの記憶〜涙の見る夢〜

第3章 時の始動  4.綻ぶ記憶

 地下からの轟音(ごうおん)は空気を揺るがせ、浮遊していた躰にも振動を伝えた。
 浅い眠りから目覚めさせる。それと同時に感じたバイオフォトンはまえに感じたものと同じであった。
 感情が溢れる。

―― グレイ……起きてる? 
―― ……なんだよ? 

 グレイもまた同じ感覚によって目覚め、そしてシャイの不安定な感情に伝染される。
 一日のほとんどを深い睡眠の中ですごしていたシャイは、ここ数日、以前のように深く眠ることはなくなっていた。絶えずなんらかの感情がうごめき、それがシャイの心の膜から()れている。

―― あれは誰なの? 
―― わからない。
―― グレイ、あたし……怖い。
―― なんだよ?
―― ユーがまた……あたしを置いていっちゃうかもしれない。

 グレイはシャイの言葉に違和感を覚えた。

―― シャイ、『また』ってどういうことだ? 
―― あたし……『また』って云ったの? 
―― …………。
―― 今……頭の中がぐちゃぐちゃなの。
―― シャイはもともとそうだろ。
―― グレイ、酷い! 

 シャイが子供っぽく本気で怒っているのがわかる。気が逸れてしまったことで、シャイの動揺が消えた。
 気移りしやすいシャイの思考回路はごく単純だが、それは表面上のことにすぎない。雄士にも云ったように、同じ躰に同居しているグレイでさえもその根本に触れることができない。シャイは無意識のうちに自分の心を閉ざしてしまっているのかもしれない。
 いつから、シャイの心はそうなったのか。いつからオレたちは存在したのか。

 コントロール室の上部で漂いながら、下で(せわ)しく仕事をしている連中を眺める。
 彼らはオレたちを可愛がってくれる。ただ、それは本心ではない。
 彼らはシャイの“meme(ミーム)”を利用しようとしているのだ。
 しかし、気紛れなシャイを動かさなければミームの発動はない。今のところ、動かせるのは雄士だけだ。
 その雄士がいなくなったらシャイは――。
 シャイが無意識に云った『また』という言葉。
 そしておそらく、数時間前に雄士の中にいたのは……。
 シャイは気づいているのか。
 シャイはすべてをわかっていて気紛れを装い、その力を、ミームの発動を拒んでいるのかもしれない。否、それは誰かの、それこそミームなのかもしれない。

 地下に眠る捕らわれた異能力者、そしてまた別の異質のバイオフォトンを身近に感じたその日から、オレの中にもある膜に(ほころ)びができた。
 甦る言葉。
 オレをここに留めている力は誰の(めい)か。
 今はシャイをここに(とど)められる。けれど、シャイの心がいったん溢れだしたら、オレはたぶん、それを制御しきれない。
 PROMISE(プロミス)――約束だ。
 何をオレは約束したんだ?
 シャイを守るんだ――その時が満ちるまで。
 そう云ったのは誰だ? 
 時は動き始めた。時は満ちた、のか。
 それらに、なんの意味も理由も見出せず、記憶は浅く、シャイは成長を拒む。


   * * * *


「なんだと」
 冷静沈着な顔に、それとはわからないほどではあるが、将史は苛立ちの表情を宿らせた。いつものように回転椅子を窓のほうに回して外を眺めながら葉巻を吸っていたが、その電話の内容に事の重大さを知り、将史は机に向き直る。

『タイプA1が連れ去られました。研究所の一部も破壊されまして……』
「侵入路は?」
『……正面です。猫が赤外線にかかったのですが……おそらくそのときに』
「そんな初歩的な誘導に引っかかったのか。警戒態勢は最大にしておけと云ったはずだ」
 怒鳴り声ではなく冷静な声であるからこそ、DAFの責任者、井上は恐れ慄く。海堂の冷酷さは充分に承知していた。
『も、申し訳ありません』
「先の例にもかかわらず、二度目だな」
『しかし、相手は異能力者なんです。破壊箇所は跡形もなく砂塵です。これほどの破壊力は……』
「こっちにもいるだろう。一人を相手に何をてこずってる」
 将史は井上の困惑、いや、恐れかもしれないが、それをさえぎると新たな段階を下命(かめい)した。
『それは、まさか……しかし、まだ――』
「命令だ」
 ガチャッ。
 将史は相手のためらいを拒絶し、受話器を置いた。

 逸品(いっぴん)はやはり優れた能力を持っているらしい。殺してしまうよりはやはり捕らえたいものだ。
 どうしたものか。
 将史は再び受話器を取った。
『はい』
 程無く返事がした。
「すぐにこっちへ来てくれ」
『何かあったんですか』
「電話では話せないことだ」
『わかりまし……』
 相手の声が何かに気を取られたように、ふと途切れた。
『すみません。すぐには無理です。後ほど』

 将史からの呼びだしだというのに、それは傲慢(ごうまん)にも途中でぷっつりと切られた。
 やっかいだな。
 受話器を乱暴に置き、将史は苛立つ。
 血の繋がりゆえに少し情をかけすぎたか。

 再び電話の呼びだし音が鳴る。
『代議士の松中さまよりお電話が入っております』
 内線ボタンを押すと、秘書がそう告げた。
「繋いでくれ」
 早速のお出ましだ。内通者はやはり存在するか。

『どうなってるんだ!?』
 受話器を上げるなり、責める声が響く。
「何をそんなに慌てておいでかな? 代議士ともあろうお人が」
『大丈夫なのか?! 研究はまったく進展していないと聞いている。それにも増して、私の具合も一向に良くならん。それどころか悪くなるばかりだ。これでは仕事もできん!』
 松中は一方的に()くし立てた。
 将史は動じもせず、それどころか侮蔑(ぶべつ)さえ感じる。
「それは貴殿が選んだことだ。その恩恵に(あず)ったのは貴殿自身ではないのかな」
『そんなことはどうでもいい! これが世間に知れれば、きみも私も終わりだ!』
 松中はよほど動転しているらしく、身勝手に将史を責めた。
「落ち着いてください。こうやって電話で話していること自体が危険なことだとは思われないのか? 交換手に聞かれているかもしれないというのに」
『くっ……』
 政治家という役にあり、饒舌(じょうぜつ)なはずの松中は言葉に詰まった。
「大丈夫ですよ。経済産業副大臣、厚生労働大臣を経た堂々たる代議士の貴殿だ。防衛大臣を目指せばよろしい。それとももっと上を目指しますか? 研究が成功すれば、この日本が恐れるものは何もない。すべて、貴殿の手柄だ」
『そうなるまえに躰がもたんだろ!』
「では、貴殿自身の問題もまもなく解決してさしあげましょう」
『ほ、本当か?!』
 松中は情けないほど上ずった声で浅ましく確認を求めた。
「まもなく」

 愚かな。
 あれほど止めたにもかかわらず、目先の貪欲を自分に許し、松中はこうなる道を選んだ。そして今、彼はその帰結に足掻(あが)いている。
 自業自得だ。笑止。
 将史もまた、自らを嘲るようにその顔に皮肉な笑みを浮かべた。


   * * * *


「あなたの名前は『(すい)』にしよう――」
 眠りにつく寸前、晃実がつぶやいた。
 幼い少年は、無意識の中に落ちた晃実を見届けると、再びにやりと笑う。
「その名前ほどボクに似合わないものはないですね。けど、受けますよ。“晃実”が選んだ、その名を」
 その少年、粋は、ゆっくりと脇に立つ雄士に向き直る。
「驚きですよね」
 粋はその姿に似合わない丁寧な云い方で、且つふてぶてしい態度で雄士を振り仰いだ。
「何が」
「すべてが、です」

 すぐにはこの少年が晃実に何を仕掛けたのかが把握できずに慌てたが、それが攻撃性のあるものではなく、むしろ逆の行為だとわかると、雄士は矛盾した複雑な感情を抱いた。

「“ここ”であなたに会うとは思ってもみませんでしたよ」
 粋が強調した『ここ』とは、晃実の傍らという意味である。
「おれにしてもそれは同じだ。こんなところで、おまえみたいなクソガキを助けることになろうとは思ってもいなかったさ」
 締めきった室内だというのに、サッと雄士の辺りを一陣の風が吹き(まと)う。
「クソガキではありませんよ。見かけはこうでも、精神年齢は晃実よりは上だと自負できます。あなたに劣るとも思えませんが」
 雄士の頬に浮かんだ細く赤い筋を見て、粋はおよそその姿には不釣り合いに口を歪めて笑んだ。
「それにボクには粋という名前があります」
「何を(たくら)んでる?」
「別に。そうですね……興味がある、とだけ云っておきましょうか」
「おかしな真似をするなよ」
「へぇ……それはどういう意味なんでしょうねぇ」
「こいつのまえにおれが相手だ」
雄士は視線で晃実を指し示した。
「ふーん……晃実が云ったとおり、あなたは気紛れの域を超えていますよ。おもしろいことに」
 粋は晃実と雄士の会話を洩らさず聞いていたのだ。
 シュンッ。
 今度は粋の頬を風がかすめた。
「子供に暴力を振るうものじゃありませんよ」
「ガキじゃないって云ったのはおまえだろ」
「晃実にはそんな云い訳をしても通用しませんからね」
「異能力はガキだろうが大人だろうが、強さには関係ない」
「だからボクは晃実につきますよ」
 粋は迷いなく、時を得顔に宣言した。
「ボクら異能力者がどこから来たのか、DAFが教えてくれないことを、晃実は知っているんです。どこへ行くべきかもね」
「おまえは何を知っているというんだ?」
「さあ……そうですね……晃実のやさしさ、かもしれませんね」
「甘い」
 雄士はいとも簡単に晃実につくことを選んだ、粋に苛立っていた。

「確かに晃実は甘すぎます。だからこそ、残酷なことでも平気でやれるボクがいるべき、というところでしょうか」
「晃実に全面的に協力するというんだな」
「DAFにとって、ボクは捨て駒でしかありません。ボクのクローンもモルモットです。DAFの親切さは充分に知っていますよ。これが答えです」
 粋は、DAFにとって、なくてはならない雄士に皮肉を込めて云った。
「気づいてますか? 晃実の特殊な再生力はDAFの異能力者の誰も持ち得ません。かく云うボクも含めて、あなたも、です。それがどういうことなのか、ボクは知りたいんですよ」
 雄士は惑う。
「あなたはどうするつもりですか」
「おれは海堂雄士だ」
「それはボクたちの敵だということですか」
「どこにも属しないということだ」
 粋の『ボクたち』という言葉に不快に思いながら、雄士はきっぱりと云ってのけた。

 属しないというわりには、あの存在に執着しすぎている。雄士がそれに気づいているのか、いないのか。

「ボクとしては、晃実が情に(ほだ)されるような状況をつくりたくはないんですが、晃実がはっきりと敵とするまではあなたの気紛れを制することもできません。が、晃実が敵と認識したとき、そのときはボクがあなたを倒しましょう」
「おまえにおれが倒せるというのか」
 そんなことはありえないと、冷酷さをもって嘲るように雄士は云った。
「その気になれば。絶対的な力など、どこにも存在しません。むしろ、自分に対するその過大評価が自己の破滅につながりますよ」
 動揺することなく粋が応じると、雄士はせせら笑った。
「ベッドに縛られていただけだったガキが大したことを云ってくれるな」
「ボクはこの十六年を、ただ寝て過ごしてきたわけじゃありませんよ。嫌というほど、現実を見てきたつもりです。DAFに散々()き使われてね。やっと、躰ごと自由になれました。あなたはどうです? 今の自分を窮屈(きゅうくつ)に思いませんか」
 雄士は肩をすくめた。
「さあな。おれはいつも気侭(きまま)に生きているつもりだ」
「つもり、ね」
 粋はフッと笑みを浮かべた。
 揚げ足をとられ、不快さを示して雄士の眉がわずかに上がる。
「何が云いたいんだ」
「別に」
 雄士は睨みをきかせたが、粋はあくまでもどこ吹く風だ。
「気に入らないな」
「気に食わないですね」
 二人は互いに似た言葉を投げかけた。
 口では粋に勝てないとでも悟ったのか、雄士の顔は恐ろしく不機嫌になっていく。
「おれはほかに用がある。いずれにせよ、下手なことをすればただじゃすまないってことを覚えとけ」
「そっくりそのまま返しますよ。それで、用というのはお父上のご機嫌でも伺いに?」
 雄士がキッと睨みつける。
「ああ、余計なお世話ですね。では、ごきげんよう」
 粋はクスクスと笑いながら、からかいつつ雄士を見送った。
 不機嫌なまま、雄士は鮮やかに消え去った。


 晃実から再生を受けている間に、粋は彼女の中に侵入して得意とする探査をした。
 結果、粋は数多くの事実と疑問を抱えた。
 そして“ふたり”に関する興味深い事実も。

 ボクの好奇心をそそる大事が溢れている。さて、楽しみましょうか。この自由になった躰で。存分に。

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