Xの記憶〜涙の見る夢〜
第3章 時の始動 2.X
顔を乗りだし、グレイは声を潜めて訝った。黒眼と白眼の境がない赤い目が、じっと雄士の眼を見入る。
晃実は雄士を通して、自分の姿を覗かれているような気がした。
―― シッ! これはゲームだ。
雄士は呼応力に切り換えた。
―― オレはシャイとは違う。子供騙しには乗らな――。
「ゲーム?!」
不意に女の子の声が割りこんだ。グレイよりはもっと幼い感じがする。
それとともにグレイの顔がのっぺらぼうに戻ってうごめいたかと思うと、まったく別の顔がそこに現れた。長いストレートの髪の毛やワンピースらしきものまで象られる。その顔は先刻のグレイほどはっきりとは判別できない。
グレイとシャイは同じ躰?
驚きというよりはなぜか畏れに近い感情が晃実の中に生まれる。その正体を知ってはいけない気がした。晃実は雄士の意識の陰に隠れた。
「そう、ゲーム。好きだろ?」
「うん!」
シャイがうれしそうに大きくうなずいた。
―― じゃ、皆に内緒のゲームだ。
―― わかった!
雄士は女の子の躰を片腕に抱き取った。
―― 何か、感じるか?
―― …………ユーの中に誰かいる?
―― そうだ。その『誰か』を探すゲームだ。
―― だって、あたしはDAFから出られない。グレイがいっつも邪魔するし、探せないよ!
―― 大丈夫。いつか必ず会える。
―― そう……? わかった。ユーは約束守ってくれるもんね。
「でも、昨日は来てくれなかった」
シャイは拗ねた様子で、雄士に不満を告げた。
「悪かった。忘れていたわけじゃない」
「ふーん……いいわ、来てくれたんだから。ユーに会えたら、眠たくなっちゃった」
「眠ってないのか? あんまりグレイを困らせるな」
「ユーに会えないと……よく、わかんないけど……怖いの。眠れなくなる」
「ちゃんと来るから、怖がらなくていい」
「うん」
―― シャイ、一つ、覚えておいてくれ。
―― なあに?
―― この『誰か』はシャイにもグレイにも危害を与えることはない。それを絶対に忘れるな。
―― ……うん。
ハフッ。
安心したシャイが眠たそうに欠伸をした。
「さぁ、眠るんだ」
「ユー、また来てね」
「ああ、おやすみ」
「雄士、おまえとオレの差はなんだ?」
シャイの顔はグレイの顔に入れ替わった。
いとも簡単にシャイを手懐ける雄士に、グレイは少し立腹していた。
「同居してるおまえがわからないのに、おれに訊いてもわかるわけないだろ」
「シャイの心は膜が張られていて、入りこめないんだ。たぶん、シャイ自身もわかってないんじゃないか? 今は抑えきれるけど、シャイの均衡が破れたときはオレは知らないぞ」
「おまえが弱音を吐くとは思わなかったな。何をそんなに恐れている?」
「放せよ」
グレイは即答せず、雄士の腕から降りた。
―― 所長には云わなかったけど、二日前、異質のバイオフォトンを感じた。とたんにシャイは中で暴れるし……何か変化が起きそうな気がする。
―― どんな変化だ?
―― それがわかったら何も問題ないだろ。とにかく、今までと違った感覚をシャイに感じる。
―― ……おまえが云うとおり、時が動く。おまえはとにかくシャイを守れ。
―― わかった。
雄士は、廊下のドアからいちばん奥に位置するところへ向かった。
「地下へ行くのか?」
グレイが後をついてきて訊ねた。
「ああ」
「あいつは誰だ?」
「おれもわからない」
「意思が強いようだぞ。けど、もう血誓媒体の準備が――」
「あとだ」
雄士が厳しくグレイをさえぎった。
グレイは立ち止まる。その顔はのっぺらぼうに戻っていた。
―― わかった。“そいつ”に知れちゃいけないんだな。オレが知らないことがまた増えたんだ……。
「おまえも眠れ」
雄士がグレイの額に軽く触れるとふわりとその躰が浮き、風船のように漂う。
雄士はグレイの眠りを見届けると、奥の一角の空いたスペースへ進んだ。この部屋におよそ不似合いなカレンダーをずらす。そこには、また電卓のような機械が備えつけられている。暗証キーを入力したとたん、壁の一部が下がる。その壁は、横のそれとは境目に気づかないほど精巧な扉だった。開いてしまうと下へと降りる階段が見えた。
降りていった地下には、正面にドアが一つあるだけで側面は壁になっている。
シャイとグレイの気配が弱まったところで、晃実は雄士の意識の深層から抜けだした。
『ねぇ、あの子たちは――』
『あとだ』
雄士はグレイにしたように晃実もその一言で黙らせた。
「雄士さん、こんにちは」
ドアを開けると、四十才代とみられる白衣を着た女が振り向き、心電図・脳波など様々なモニターが並ぶ前で作業中の手を止めた。
晃実は奥のドアを透視したが、鉛製のドアで隙間もなく、向こう側を覗くことは当然できなかった。
「どうですか、様子は」
「ええ、変わらずといったところです。なかなか口を割ってくれなくて……」
「いつまでもつか。並の人間なら、とっくに気が狂ってますよ。肉体的にもぼろぼろだ」
「奴は生粋の異能力者だ。下手したらこっちがやられてしまう……あ、す、すみません。その……雄士さんのことではなくて……」
女と同年代の男に続き、口を挟んだ若い男は自分の失言に気づくと、しどろもどろになって雄士に謝罪した。それこそ下手すると、若い男自身をさらに窮地に追いこみそうな弁解であった。
雄士はそれを無視した。というよりは、彼の言葉を聞いていない。
DAFスタッフの無神経な発言に反応した、晃実の苛立ちを抑えこもうと気を取られた。
「どうぞ」
女が先立って恭平のいる場所へと案内した。雄士が破損したところを一瞥すると、すかさず女は説明し始める。
「二日前にもう一人の異能力者が来た結果ですわ。迂闊でした。ここを通り抜けるほどの能力を持っていることに驚きです」
晃実はそれが自分の力ではなかっただけに複雑な気分になる。
雄士はうなずいただけで、恭平を覆っている鉛ケースへ近づく。
一つはっきりしたのは、あの時のことが恭平の兄による単独行動だったことだ。それならやっぱり目的は遂げなければ。
「どんな薬を使ってもこの異能力者は頑として受けつけなくて。躰もかなり弱っていますし、精神力も限界の域でしょう。もう時間の問題です。血誓もまもなく……」
女は金属の蓋を開けながら云った。
そこに恭平を認めると、晃実の感情は怒りで溢れそうになる。
『シッ。今はだめだ』
無意識のうちに力を使いそうになった晃実を、雄士がすばやく戒めた。
『わかってる。でも――』
晃実は力を消しながら、反論しかけた。
『シッ』
それをさえぎって、雄士は再び注意した。
『……わかった』
晃実は渋々とそうつぶやいた。
抑制すべき感情が大きすぎて、心が散り散りになりそうな気がした。
女が去り、雄士の目を通してあらためて恭平を見たとき、怒りを通り越して、晃実の中には焦燥と虚無が混在した。
『恭平の頭に手を……』
『呼応は使うな。隣のガキに知れる』
『頭に手を……』
晃実は同じ言葉を繰り返す。
雄士は小さくため息を吐いた。その手が恭平の額に置かれる。
晃実は意識を恭平の中に流した。
閉ざされていた恭平の意識が反応して目を覚ます。
『晃実?』
『わかる?』
『ああ、泣くな……』
『泣いてない……』
二人は言葉にして語ることができず、どうにもならない想いを抱く。互いの想いが互いの心を包みこむ。
『晃実のやさしさは、晃実自身にとって命取りだ。僕は自分に負けたんだ……。それが晃実を危険にさらす。絶対にやっちゃいけない失態だった……』
『わたしは大丈夫。すべて整理はついたよ。だから……ここに来た』
『何を……するつもりだ?』
『二人でするはずだったこと』
『独りで……?』
『これまで築いてきたこと、無駄になんてしないよ。ただ……わたしたちが……母さまを失ったときのような想いを ……同じように恭平を失ったら……わたし独りでは……きっと耐えられない』
『僕は……あんな想いは二度とごめんだ』
恭平がかすかに笑う。
『わたしの異能力は欠点だらけで……こんなときにもなんの役にも立たないよ。制御が利かなくて……恭平を助けだす力もない。どうして、こんなわたしが異能力者なの?』
『晃実は知らないんだ……答えはいずれ出る…………今…誰といる? 違う…意識を感じる』
『……恭平と話す機会をつくってくれた人の中にいる』
『……海堂の息子か?』
恭平は驚くほど簡単に云い当てた。
『……どうして……?』
『勘の良さは誰にも負けない……と……知ってるだろ……』
『うん……ごめん……』
『……謝ることはない…………こうなることは…………』
『……こうなること……って……?』
その問いには応えず、恭平は云いかけたまま、しばらく力尽きたように黙りこんだ。
『もう時間だ』
雄士が告げた。
『ねぇ、恭平……恭平が恭平でなくなっても、わたしは絶対に恭平の心を取り戻すから……だからちょっとだけ、さよなら、だよ』
晃実は心情とは真逆に笑みを滲ませた声で離別を告げた。
恭平の意識を閉じようとした刹那、恭平にさえぎられる。
『晃実……これは…………僕の賭けだ…………“血の破約”を…………』
恭平の口からとうとつにその言葉が発せられたと同時に、晃実は何年もの時空を遡る感覚に堕ちた。
……どういう……こと?
『晃実を守ってくれ……この僕から――』
『終わりだ』
宣告されると同時に、蒼白く痩せ細った恭平の姿を刹那だけ見つめ、目に焼きつけた。
そして、晃実は雄士の意識の中に隠れた。
雄士がマンションに戻っても、晃実は隠れるようにして彼の中にいた。
駐車場に車を止めると、雄士は晃実の躰を連れて部屋へと転移した。
『出てこい。自分の躰に戻るんだ』
…………。
「泣くな!」
雄士は腹立たしく叫んだ。
何に対して苛立ちを感じているのか、雄士は自分でもわからなかった。
ただ、晃実と恭平の感情に直接触れたことで、わずかに心の均衡が崩れた。自分がわずかながらも感情に左右されていることに戸惑いを感じ、そうなる理由がわからないことにも苛立った。
グレイが云ったように、晃実と恭平の会話から、自分もまた、与り知らないなんらかの枢要な経過があることを知った。本来関知しているべきはずの雄士が失くした記憶を、あの少年、恭平はすべて知悉しているのだ。
『…………泣いてなんかいない』
長い無言を経て、ようやく晃実がつぶやいた。
「おまえの感情はお見通しだって云っただろ」
素直ではない晃実に、雄士は呆れたように云った。
『それって独り言だって云ったでしょ』
晃実の切り返しに、雄士はまたもや呆れて言葉に詰まる。
「減らず口を叩いてると、それこそ命取りだ。さあ、戻れ」
『やだな。あなたの中って、とても居心地がいいから』
これは本当のこと。なぜかとても安らぐ。あの女の子、シャイが抱く安心感と同じなのかもしれない。
不思議とあの物体、あるいは生命体のグレイとシャイに嫌悪を感じることはなく、ただ、その存在がなんであるのか、畏れとともにないがしろにできない何かを感じた。
「おれはごめんだ。生身のほうがいい」
『どうやればいいの?』
「入るときの逆パターンだ」
二人は心拍数を違えていく。晃実と雄士の意識が切り離される。そして呼吸のタイミングをずらしていくと、晃実の意識が雄士から離隔した。晃実は吸いこまれるように在るべき自分の躰に戻った。
「生身ってどういう意味?」
ソファに寝転がったまま、晃実は握ったり開いたりする自分の手を見つめた。いざ自分の躰に戻ってみると、たった少しの時間を離れていただけなのに、妙な違和感がある。自分の躰だというのに慣れを必要とした。
同時に、同じことをやっていた恭平を思いだす。
「大人になったらわかることだ」
晃実は躰を起こして雄士を向いた。雄士は、反論してみろ、と云うように片方の眉を上げた。
晃実は躰を起こした。
「あなたが思ってるほど、わたしは子供じゃない」
「どうだか」
「そうだよ」
「後先考えずに平気で無茶をやるのはガキの証拠だ。ま、自分でもわかってるぶん、少しはマシか……。わかってるんだろ?」
煙草の煙を吐きだしながら、余裕の眼差しで晃実を見て同意を求めた。厭味にほかならない。
「わたしだって、いろいろ考えて行動してる。今日だって無茶じゃなかった。恭平の意識を閉じることができればよかった。一人でも絶対にやれた」
「それこそ無茶だ。おまえは感情に囚われすぎる。現に、おまえはおれの中に潜りこんでなかなか出てこなかった」
「独りじゃなかったから、ちょっと甘えただけだよ。独りだったら歯止めがきくから」
雄士は咎めるような視線を向けた。
「おまえはこれからさき、自分がどういう目に遭うのかわかっているのか?」
「もちろんよ」
「彼がどうなるかも?」
「もちろん」
晃実はためらいなく返事をした。
「どうするつもりだ?」
「訊いてどうするの?」
晃実は逆に問い返した。
それは雄士自身にもわかっていない。
「あなたは海堂の人間だけど、まるっきりDAFの側についてるわけじゃないんだね」
「……どうかな」
「かまわないでってこのまえ云ったのに、それでもあなたはわたしのまえにまた現れた。そして、わたしは明らかにDAFの敵だもの。それなのに、DAFの中まで案内してくれた。ということは、全面的にDAFを支持してるわけじゃない」
「けど……」
「わかってる。御方ってわけでもない」
雄士の否定を先回りして云った。
「わたしの御方は……今は恭平の心だけ。それだけでいい」
「おまえは闘えるのか?」
雄士は言葉を替えて同じ質問を繰り返す。
なぜ雄士がそうするのか。晃実の意思を確認しているだけなのか、意思を変えようとしているのか。
「わたしたちは存在しちゃいけない」
それがすべての答えだ。もう何も失うものがない。
雄士はそのことを理解したのか、していないのか、考えこむように目を伏せている。
「一つ、訊いていい?」
雄士の視線が晃実に戻った。
「グレイとシャイ……あの子たちは何?」
「グレイとシャイは、DAFでは未知の生命体、タイプ“X”と呼ばれている。つまり、誰もグレイとシャイがなんなのかを知らない。おれも含めて」
「どうやって……生まれたか、ということも?」
「おれの記憶では……記憶にあるのはすでに存在していたということだけだ」
「力は?」
「……誰に訊いてる? 立場、わかってんのか?」
「あぁ、ごめん。誘導尋問にはさすがに引っかからないんだね。じゃ、もう行くから」
悪びれた様子もない晃実に向かって、雄士は顔をしかめてみせた。
「恭平のこと、ありがとう」
雄士は気に入らないようで、首をクイと傾けた。
「お礼を云われるのは好きじゃないんだね。でも仕方ないよ。わたしはそういうふうに育てられたから」
晃実はクスッと笑いながら云った。
「おれも、一つ訊いていいか?」
「何?」
「彼が云った、血の破約とはなんだ?」
「誰に訊いてるの?」
晃実は雄士が云ったセリフをそのまま返すと、雄士が目を細めて批難を表す。
「どこへ行く?」
「教えるわけないよ? じゃ、ね」
雄士の問いをかわして、晃実は消えた。