Xの記憶〜涙の見る夢〜

第2章 宣戦布告  7.干渉

 相次いだ不本意な障害物の通過に、晃実は相当に気分が悪くなっていた。それでも抜けた先が土の中であることは気づいた。あの部屋は地下室だったのだ。
 やっぱり障害物の中を通るのは好きではない。躰に力が入らず、吐きそうだった。
 それにかまわず、晃実を連れだした人物は地上へと出て、DAFからぐんぐんと彼女とともに遠ざかっていく。

 その人物、彼は自分に追いつけるものはいないという自負を持ち合わせてはいたものの、完全に安全といえる場所へ転移するほうがいいということもわかっていた。
 その間、なぜ晃実を救いだしたのだろうと自分自身への疑問を幾度も投げかけるが、答えを出すことはできなかった。
 感情があまりに強すぎて、考えるよりもさきに躰が動いてしまった。
 バカなことをやったもんだ。
 これまでになく、自分を嘲笑(あざわら)いたい気分だ。

 一分もかからず、目的の場所へたどり着くと、晃実は軟らかいものの上に横たえられた。が、すぐに起きあがろうと頭を浮かした。
「ここは安全だ。気分が悪いだろ。しばらく休んでろ。話はそれからだ」
 彼は晃実の額を押さえ、異能力を使って躰を制御した。

 淡々として、それでいて自信に満ちた声を聞いても、晃実は驚かなかった。
 DAFに現れた闖入(ちんにゅう)者が彼であることは、見なくても感じ取れていた。彼の気配は(まぎ)れもないもので、それが海堂雄士であることを、少なくとも晃実は確認できずとも確信はしていた。

 どれくらいたったのか、制御されていた躰がふっと軽くなった。
 どうにか気分もよくなって身動きすると、今度は躰の節々が痛んだ。
 ――ッ。
 その小さな(うめ)き声に気づいて、どこからともなく雄士が傍に来た。
「大丈夫か」
「平気」
 晃実はうなずくと、両手を自分の額に置いて痛みを除去した。ふっと短く息をついて、晃実は躰を起こす。

 雄士はその様子を立ったまま無言で見ていたが、やがて晃実の斜め向かいのソファに腰を下ろした。ソファの背にもたれると、手を組んで足をテーブルに投げだした。
 晃実はこの部屋に満ちたバイオフォトンを敏感に察知する。
 ここは間違いなく雄士自身の住まいだ。部屋を見回すと、テレビとこの応接セットとガラスのキャビネットのほかは、マンションの備え付けらしいものしかなく、ごくシンプルな部屋だ。シンプルというよりは生活観がまるでない。

「……えっと……ありがとう……」
 雄士はまえと同じように、礼はいらないとばかりに肩をそびやかした。
「でも、わたし、あの場は自分で切り抜けられた」
 礼を伝えたときのしおらしさはどこへやら、晃実は勝気にそう云った。
 雄士の眉がつり上がる。
「……おまえは無茶すぎる」
 少しの間を置いて、雄士は静かに晃実を責めた。
「無茶なんかしてない。攻撃されてるときもちゃんと受け身の姿勢はとってたし、攻撃をするための力も(たくわ)えてた。それを使おうとしたときにあなたが来たのよ」
 先刻の礼の言葉にもかかわらず、晃実は雄士が余計なことをしたと、まるで逆のことを云っているのだ。
 それは雄士の、子供を(さと)すような云い方を不快に思ったせいかもしれない。いや、そのせいなのだ。
 雄士もまた気に喰わない様子で目を細める。
「それ以前の問題だろ。DAFに単独で乗りこむこと自体が無茶なんだ。そうじゃないっていうんなら、力を制御しないでなぜあんなふうに強く叫ぶ? どこまで離れていても筒抜けだ。自分から危険を誘いこんでいるのが無茶じゃないというのか。考えてやったとでも云うつもりか」
 はっきりとした批難に、晃実は雄士から顔を背けた。
 晃実は何度か(まばた)きを繰り返した。今更の涙を押しこむ。
「恭平を助けだそうと思ってDAFに侵入したわけじゃない。もちろん、助けだせるような状況だったらそうしたけど……ただ、恭平と会う必要があった……話す必要が絶対にあったの。苦しんでることはわかってたから……」

 それは想像以上だった。
 DAFは恭平から情報を引きだそうとするはず。だとしたら、多大な精神的苦痛を受けているに違いない。恭平は何も話そうとはしないはずだから。
 恭平のあの姿を見たとき、自分の考えは正しかったのだと。
 我慢なんてしなくていい。そう伝えて、恭平を自分自身から開放させなければならなかった。
 恭平がいなくなったら、きっと迷ってしまう。行き場を見失ってしまいそうで、すべきことを間違ってしまいそうでどうしようもなく不安だった。
 晃実が異能力者としていちばん畏れているのは、心が悪に変わること。

「おまえまで捕まったらどうするつもりだった?」
「捕まらない自信はあったの! いざとなれば、建物を破壊するつもりだったから」
 雄士は呆れつつ、独りでできるのか? と疑うように、一瞬だけ目を大きく開いた。
「わたしも恭平も、あなたたちみたいに専門家がいたわけじゃないけど、それなりに力はつけてきたつもり……」
 晃実は目の前のテーブルにあるセラミックの灰皿に手を触れ、一回の(またた)きをすると、たちまちそれは粉と化した。
 手をその粉にかざすと、造作もなくそれはもとの灰皿に戻る。

「ね、これくらい簡単にできるんだから、壁くらい、独りでも一瞬だよ」
「力を使いこなしているのは知っている。おまえの再生力は誰も敵わないだろう」
 顔を上げて雄士を見た。けっして皮肉を云っているような表情ではなかった。
「わたしたちは人間を(あや)める生き物じゃないってことを、いつも信じていたかった……だけ……」
 雄士は晃実の言葉に賛同するかのようにうなずいた。
 それは彼の気紛(きまぐ)れな単なるなぐさめでしかない。
 晃実はかすかに笑った。

「でも、きっとあなたたちのほうが、わたしたちより強いんだよね」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
 雄士の言葉は曖昧だが、その口調は晃実の言葉を肯定するがごとく、自信がありそうな響きだ。
「あなたは……あなたたちはあの壁を通っても平気なの?」
「慣れた」
「全然平気ってことじゃないんだ?」
「……そうだな」
 肯定することが嫌そうな返事だった。
「でも単独で往来できるのね?」
「ああ」
「そういうこともしなきゃいけないんだ……」
 雄士は肩をすくめるだけで答えない。話したくないのだろうか。
「こつをつかめば、独りで抜けだせるようになるし、慣れれば気分の悪さも軽くなる」
 少し時間を置いて、雄士はそう云った。

 慣れたくない。できれば避けて通りたいくらいだ。そうはいっていられないのが現実。
 苦手なことはやることなく通してきた自分たちの甘さに、晃実は半ば呆れる。

 沈黙が横たわり、それぞれに思いを()せた。
 緊張は取り払えないものの、晃実にとってこの空間の居心地は悪くなかった。
 でも……。
 晃実は窓際のソファに座ったまま、窓から見える青い空を見つめた。
 どこまでも高く、青く透き通ったように見えるが、けっして果てを見ることはない。

 自分の立場も忘れ、晃実が無防備にもの想いに(ふけ)っている間に、雄士はいつのまにか目の前からいなくなり、キッチンに立ってコーヒーを()れていた。コーヒーが落ちてくる間に、何かを考えこんだ様子の雄士は壁にもたれてタバコを吸っている。
 一見すると平和な情景。コーヒーが落ちる平和な音。ごく日常の世界であった。
 それがかえって晃実の現実を見せつける。
 晃実も恭平も、この現実のなかで幸せに浸る時間は一度もなかった。

 晃実はその幸せの象徴のような音を心からかき消したくてベランダに出ると、躰を浮かせて手すりに腰かけた。
 宇宙(そら)を見上げた。
 この宇宙の広さが、晃実を押し潰しそうになる。

「何をしてる? コーヒー淹れた。毒薬なんて入れてない。おれはコーヒー中毒だけどな」
 晃実は視線を部屋の中に戻して、雄士と視線を合わせる。
「ね、なぜここへ連れてきたの?」
 雄士はテーブルにコーヒーを置いている。晃実のぶんまで。
 確かに晃実を殺すために、それを雄士の手でなすのなら毒薬など不要だろう。
 晃実はふわりと手すりに立った。
 二十階くらいのマンションの最上階から見下ろす地上は遥か下にあった。風が強くて躰が揺れる。
 異能力者の晃実にとって、その人間としての恐怖などかすりもしない。
「わたしを捕らえるか殺すかするつもりなんでしょう? 今じゃなくてもいつかは……。蛇の生殺しを楽しんでるつもり?」
 晃実の問いかけに、雄士はゆっくりと彼女のほうを振り向いた。
「危ない」
 ともに異能力者である二人からすれば、この状況においてのその言葉は陳腐(ちんぷ)としか云いようのないものだった。
 晃実は笑った。
 雄士は自分の失言に舌打ちをした。

「あたりまえの人間の世界で生活していると、考え方もやることも人間くさいのね。コーヒーくらい、メーカーなしでもできるでしょ?」
 晃実は皮肉を込めて雄士にそう云った。
「わたしをどうするの?」
 晃実はもう一度、今度は直接的な言葉にかえて訊ねた。
「云ったはずだ。今すぐにどうこうする考えはない。おれは誰の指図も受けない。たとえ、海堂の総帥でも」
 言葉を選ぶように慎重に、しかし雄士は断言した。
 晃実はまた笑った。が、けっして目は笑っていない。
「ここに来たとき、あなたは云った。『ここは安全だ』って。そんなことないよね。わたしにとってここはいちばん危険な場所だよ。毒薬なんてなくてもね。あなたの意思しだいだなんて、くそくらえ、だよ」
 雄士は下品な言葉遣いに顔をしかめる。
 ちょっと手を伸ばせば届くほどの距離に二人はいる。
 それぞれの立場を考えたとき、その距離は宇宙に果てがあるならば、果てと果てほどに隔たっていた。

「気紛れでわたしにかまわないで。あなたと闘うときに、わたし、あなたを倒せなくなるから……あなたもそういうの嫌だよね?」
 確かにそのとおりだ。が……。
「やめろ」
 再び雄士は陳腐な言葉をかける。
「わたしは普通の人間じゃない。異能力者だよ。死にたくても死ねない身だから」
 晃実はそう告げて、躰を後ろに倒した。
「行くな。ここなら……」
 自分の意思で晃実が足を踏み外す直前、雄士は静かに引き止めた。
 晃実にはその『行くな』が『逝くな』に聴こえた。
 そんな響きだった。
 そこに見た雄士の瞳は、晃実の奥底にある薄っすらとした記憶を震わせた。
 ただの幻想?
 雄士を見て口もとだけで微笑む。

―― 晃実!

 その瞬間、晃実の躰は落下していた。
 雄士の呼応力による声が晃実の脳裡に届いた。
 その声の響きはなぜか(なつ)かしく、期待させるような感情を彼女は感じ取った。
 そういうの、残酷だよ。
 晃実はつぶやく。
 スカイダイビングのように両手を広げて、頭から落ちていく。地面に近くなっても、下を通る人はまさか頭上から何かが落ちてくるとは思いもせず、晃実には気づかない。
 このまま死ねたら、らくかもしれない。
 未練がありすぎて、なすべきことが重すぎて、心の記憶がそれを許さない。異能力者としての遺伝子がそれを許さない。
 地表に叩きつけられる瞬間、晃実は最高に増幅させた異能力によって、誰もついてくることができないように、一気に先生がいるマンションへと転移した。

 雄士は晃実が消えるまで、落ちていく彼女を見つめていた。
 晃実は自分を異能力者だと云った。
 それはわかりきっている。
 バカな……。
 雄士は何かを否定するように首を振ると、自嘲しつつ吐き捨てた。

 自分の中には決して開けることのできない記憶がある。忘れてしまった何かがいつも自分の中でうごめき、出口を探している。
 晃実との出会いがその存在を気づかせた。
 違和を感じることなく呼んだ名。

 おれは何を忘れた――?



「先生! 先生、いる?」
 晃実は一階のリビングから叫んだ。すぐに先生が下りてくる。
「どうした? 当分の間は戻らないはずじゃなかったか」
「うん、そのつもりだけど、そのまえに先生にここを引き払ってほしくて……」
 晃実は少しためらって、やがて意を決したように先生を見る。
「恭平がDAFに捕まったの。ここはDAFにばれてしまう」
「なんだって!」
 先生はただ驚くばかりだった。

 晃実は手短にそうなった経緯を話した。
「……恭平の兄さまはどうしてあんなに小さいままなの?」
「たぶん海堂が無理やり蘇生(そせい)させたからだ。クローンを生みだす段階で無理があったとも考えられる。異能力を司るウィルス遺伝子をもってしても、成長には限界があったのだろうな。かわいそうなことだ」
 晃実の表情が曇る。
「ただし、今云ったことは、恭平の兄がその子供であると仮定してだ。本物の兄は死んでいるか、別のところにいるかもしれない。四人のクローンのあとに生まれた子供、ということも可能性としてある」
 晃実は彼が本物の兄であることを確信している。彼の自分の躰に対する苛立(いらだ)ちは真実を告げていた。

「……どっちにしても自分の力では生きていけないんだよ。そんなの酷いよね」
「おまえはやさしすぎるよ」
 恭平を罠にかけた張本人のことを本気で気遣う晃実を、愛しく思うと同時に限りなく心配する。
 晃実は首を振ってそれを打ち消し、逆に力づけようと笑った。
「大丈夫。ヘマはしない。すぐ下の二階に空いているところがあるからそこに荷物は移すよ。そのほうがわたしも簡単にここに住んでる人の記憶操作をすませられるから」
「これから独りでどうするんだ?」
「あきらめないよ」
 その一言に尽きた。

 その日のうちに、晃実の動可力で引越しをすませると、そこにかかわった人の記憶を置き換えた。先生には必要なものを持ちだして自分の家に戻ってもらうことにした。
「ごめんね。先生」
 別れ際、晃実は様々な意味を込めて云った。
 先生は晃実たちのことを考えて、極力、人との付き合いは最小限に止めている。それだけでも充分な犠牲だ。
「かまわんよ。私はおまえたちの母親を見殺しにしたも同然だ。おまえたちが私のことを気にする必要はない」
「そんなこと……」
 晃実は悲しそう首を振って否定した。
「運命の加護はおまえたちにある」
 確信の言葉とは裏腹に、彼は祈り続ける。それだけしか自分にできることはない。
「先生、間違っても無理はしないでね。還る場所がほしいから」

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