Xの記憶〜涙の見る夢〜

第1章 契機  4.闘うこと

「晃実、起きてるか? 先生が呼んでる」
 恭平が人間的にドアをノックしてそう告げた。
「わかった」
 ブレスを連れて恭平とともに、晃実は二階の書斎へと向かう。

 専門書がずらりと並んだ書棚に囲まれ、小ぢんまりとした部屋は、机が奥の壁につけられているだけで整然としている。読みこまれた本のカビの臭いが重苦しい雰囲気を(かも)しだす。机の前に出窓が一つあるが、本が傷まないようにといつもカーテンで光が遮られて、部屋の中は昼間でも薄暗い。

 二人が目に入るなり、“先生”は椅子から立ちあがった。
 四十代半ばと思われる先生は芸術家然として口ひげを生やしているが、書棚にある本の種類からして、生物学、あるいは医学関係の従事者だと思われる。

 晃実と恭平は先生の実情を知らない。名前さえもだ。
 二人はただ、先生が父親代わりということだけを現実としていた。
 二人にとって、この闘いに先生を巻きこむことは是非にも避けたいことだ。母親たちとの約束でもある。

「ただいま」
 出張から帰ってきた先生と会うのは三日ぶりだ。
 先生が少々むさ苦しく見えるのは口ひげのせいで防ぎようがないが、その瞳からはいつもやさしげな輝きを放ち、口もとにはいつも微笑みが浮かんでいる。

 先生はなぜか女性に見向きもせず、かといって男がいいというわけでもなさそうだが、独身を通してきた。
 奥さんがいたら、たぶんこの口ひげは存在しないだろう。この住居も、こうまで殺風景ではないはずだ。
 築十年はゆうに越えるがメンテナンスが充分なせいか、外観の衰えもなく、一戸一戸に一軒家のように二階があるおしゃれなマンションだ。
 これは先生の好みでもなんでもなく、晃実たちの後見人なる正体不明の人物の持ち物というだけの話だ。
 その無造作な選択のせいで装飾品はものの見事に一つもない。

 ただし、今ここに住んではいるが先生の実の家ではない。万が一のことから守るために、避難所となる実家は別にあった。
 無論、晃実と恭平はその場所を知らない。危機管理を(おこた)ることは許されない。
 三人の住まいが無表情なのはそのせいもあるだろう。

「先生、お帰りなさい」
「子供たち、元気だったか」
 先生は眼鏡をはずしながら二人に近づくと、いつものように年寄りくさく声をかけ、それぞれの背に手を回した。
「たった三日間の出張中を会ってないだけで、元気も何もあるかよ」
 恭平は照れくささを隠すためか、ぶっきらぼうに云って先生の手を逃れる。少し乱れたサラサラの髪を手で()いた。
 晃実は心の中で吹きだす。
 いつも恭平は大人ぶっているが、そんなところは普通の十六才の子と変わりない。

「だが、何もなかったとは云わせないぞ。決心は変わらなかったか」
 先生は二人が小さいころからずっと面倒を見てくれた。
 だから、今のその気持ちを察することはできる。
 でも――。

「ごめんね、先生。でも、こんな異能力を持っていてもいいことなんて一つもなかった。組織の意図が平和な未来のために使われるのなら、それはそれでいいことかもしれない。仮にそうだとしても、勝手に事を進めていった組織を善だとはどうしても思えない。母さまたちに安らぎなんてなかった。むしろ、わたしたちのことを悩んで、心配して、苦しんで、(おび)えて……。いつも哀しそうな顔をしてた……」
 そういう晃実の顔にもかすかにだが、哀しみとわかる表情が宿っている。

「私はおまえたちの手助けになることを何一つできなかった。母親たちとの約束が果たせなかったな」
 先生は遠くを見るような眼差しをして自分を責めた。
「それは違うよ。僕も晃実も、先生がいてくれなかったら、連中と同じように道を間違っていたかもしれない。発狂していたかもしれない。母さんたちは、その命をかけて僕たちを守ってくれた。あんな苦悩を持つ母親や父親をこれ以上に出すのはたくさんだ」
「それにわたしたちのような人間ももう要らない。闘える準備ができた。精神的にも能力的にも。あとは消された過去と現在の組織のデータを取って、向こうの出方を待つだけ」
 晃実と恭平はきっぱりと、迷いも見せずに宣言した。

 それを聞いた先生は(おもむろ)に、机の上に置いていた分厚いファイルを二人に差しだした。
「これは……?」
「組織に関する三月現在の資料だ。組織が病院に存在したころの資料もある。残念ながら今の所在地はつかめていない」
「先生が調べてくれたの?!」
 心配のあまり晃実の声は大きくなった。
「大丈夫だ。無理はしていない。ある人の協力があっただけのことだ。万一、私たちに足がついておまえたちの負担になることだけは避けたいからな。だからこそ、組織の所在と現状はつかむに至らなかった。あとはおまえたちに任せるよ」
 子供であっても、こういう場面では先生はけっして子供扱いをしない。それは今の言葉にも、信頼という形で現れている。
「ただし、事を急ぐことはするな。あくまでも慎重に、無理なく、だ。時期が来れば、必ずおまえたちに運が加勢をするだろう。そうでなくてはならないのだよ」

「先生、ありがとう」
 晃実は先生の腕に触れて、なぐさめの言葉をかけるかわりに抱きついた。
 昨日の現実が忘れられるまえにまた奇跡を起こさなければならない。
 そうして思惑どおりに組織が動けば、先生に会うこともままならない。
 目的が果たされれば、先生のもとに戻れるだろう。しかし、そうなる保証はどこにもない。

「先生、心配するなと云っても無理だろうけど、僕たちは死ぬために闘うんじゃないから、その点は安心してていい。僕たちは必ず還る」
「本当よ、先生。わたしたちには母さまたちがついてる。母さまたちの強さを受け継いでるの。だから大丈夫」
 うんうん、と声にならずうなずく先生の瞳は揺らめき、口もとには微笑みが満ちる。


「頼もしくなったな」
 晃実と恭平が部屋から出たあと、そっとつぶやいた。
『ふふっ。トオルちゃんは小さい頃と少しも変わらないのね。涙(もろ)い愛他主義のトオルちゃん、あの子たちは私たちの意思を守ってやるべきことを必ず成し()げてくれるわ。トオルちゃん、泣かないの!』
 幼馴染みのそんな呼びかけが聴こえたような気がした。


   * * * *


 二人は晃実の部屋で、片っ端から資料を解読していった。
 十六歳という年齢を考えれば、その理解力では到底把握することのできない資料だ。

「この資料からは、異能力者が何人くらい誕生させられたのかわからないけど、やっぱり海堂総合病院のこの数字は異常じゃない?」
 資料から顔を上げることもせず、晃実は訊ねる。
 恭平も同様にひたすら資料を(めく)っている。
「僕たちが生まれた前後の三年間は乳幼児死亡が異様に多いな」
「それと、奇形児の誕生も……」

 恭平はパソコンを起動させ、当時の統計資料にアクセスした。
 晃実はその操作を見守っていたが、やがて画面に現れた事実は、予想していたにもかかわらず驚かされた。

「何よ、これ。この数字からすると三十パーセントは海堂じゃない? これを国が放ってるの? まさか気づかないってことはないよね。素人の目で見ても明らかに数字が異常だよ」
「そう。当然、気づいて然るべきだ。けど、これが事実で、しかも国からの監査もないということは、国家も関わっていることなのかもしれない。最悪の場合……世界が舞台だ」
 そう云った本人も、聞いていた晃実も絶句する。
 恐れていた結果が目の前にあるのかもしれないのだ。
「まだ、これが事実だと確定したわけじゃない。国家がバックにいるとは考えたくないね」
 恭平がめずらしく、弱気ともとれる希望的発言をした。

 そして年度を変えて数値を出していく。
「見て、この年でパッタリと終わってる」
「爆破事件……」
 恭平がつぶやき、二人は複雑な思いで沈黙する。
「けど、こうなると少し楽観したくなるな。これ以降は人体実験が中止された可能性もあるってことだ」
「うん、でもこれはあくまで病院内での話だよ。組織は明らかにまだ存在してる。
あれからも彼らはわたしたちを探してたし、現にそのせいで母さまたちは……」
 恭平はフッと笑みを零す。が、その目に笑みと呼べるものはない。
「そうだな。僕はちょっと感傷的になりすぎたようだ。いずれにしろ、この資料だけではマスコミは動かない」
「ちょっとは騒ぐだろうけど、海堂やもしかしたら協力者である国家から圧力がかかってもみ消される可能性大。そうなったら、反対に組織の警戒をいっそう強くしてしまうだけだし」
「そう、だから――」
「だから、闘うしかないってことね」
「そうだ。徹底的に潰す」
 不安は多少なりと感じても、恐怖はいささかもない。決心は一寸たりとも変わらない。

「あとは組織。どう思う? 末端子会社まで含めたこの住所録の中にあると思う? それとも、まったく別組織になってるのかな」
 恭平は腕を組み、資料を(にら)みながら考えこんでいる。
「うーん、どうであれ東京近郊だろう。奴は自分の目の届く場所に置いているはずだ」
「そうね。じゃあ、どうやって探る?」
「盗聴しようと思う」
「盗聴器?」
「僕たちに文明の利器は必要ないだろう?」
 恭平は愚問(ぐもん)だとばかりに、晃実の目の前に風を引き起こしてからかう。
 晃実は顔をしかめた。
「海堂の本部へ行くつもりだ」
 真顔に戻って恭平は計画を告げた。
「じゃ、わたしも行く」
 晃実は即、恭平の計画に乗った。
 恭平はなぜか渋った表情を見せる。
「危ないよ」
「百も承知。向こうは、昨日の事故の実情を察してるよね?」
「断定はしていないだろうけど、可能性としては持ってるだろう。あらゆる可能性を念頭に置く。そうでなきゃ巨大企業を操れない。確実に動きだすのは次の機会だろうな」
「まず向こうがこっちの出方を待ってるってことね」
「そう。お手並み拝見ってところじゃないかな?」
 恭平は皮肉をこめて云うと、ニヤッと不適に笑う。
 晃実はどうでもいいように肩をすくめた。

 確実な勝利を得、見届けることが使命。
 最終目的が叶うなら、その過程にどんな苦痛があっても、プライドをないがしろにされても(いと)わない覚悟はある。

 それが闘うこと。

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