Xの記憶〜涙の見る夢〜

第1章 契機  1.異能力

「うるさいなぁ」
 少年は(わずら)わしそうにつぶやいた。
 その隣に(たたず)んでいる少女はそれを聞いてクスッと笑った。

 さっきから大きな噴水の向こう側で、高校生らしき恋人たちが痴話喧嘩(ちわげんか)を繰り広げ、その声が二人の耳を(にぎ)わせている。

 二人がいるだだっ広い公園は、南側の入り口付近にアスレチックや砂場があり、続いて遊歩道に囲まれた窪みに野球が余裕でできるほどのグラウンドがある。ジョギングコースとなっている遊歩道を奥へと進むと、噴水や芸術的な水路が数体のオブジェとともに造成されて周りには多くのベンチが置かれている。木々も植樹されていてやたらと緑が多い。
 少年と少女は今、そのベンチの一つに座っていた。
 二人が身に(まと)う独特の雰囲気は静けさを感じさせる。そのせいか、まるで異世界の住人のような違和感もあまり人の目に入っていない。

 若い恋人たちの喧嘩はまだ続いていた。どうやら、男の浮気が原因らしい。
 自分たちの会話が盗み聞きされているとも知らず、喧嘩に夢中になっている。

 (はた)から見ても、口論していることは見て取れるが、噴水を挟んで彼らと反対側にいる人間がその会話を耳にすることは不可能だ。水の音にかき消されて聞こえるはずがない。

 恋人たちも、少女と少年の存在に気づいているとしても、この距離で聞き盗られているとは思ってもいない。悪い意味で、互いのことしか眼中にない恋人たちだ。

「うるさいな」
 しかめ面になった少年が先ほどよりは短く、しかし、はっきりと不快さを表に出して同じ言葉をつぶやく。
「じゃあ……」
 少年のつぶやきに答えてそう云うと少女は噴水に近づき、水に手を触れて弧を描くようにかすかに手を動かした。
 噴きでていた水の一部が意思を持つかのように自然の流れに逆らい、外へ外へと伸びていく。

 ピシャッ。

 うわぁぁぁぁーっ。

 水は恋人たちのほうへと向かい、男の目の前で(はじ)けた。情けないほどの叫び声だ。
「な、なんだよ、これは」
 男は頓狂(とんきょう)な声を発しながら(あわ)てて周囲を見回すが、すぐ(そば)には自分たち以外に誰もいない。
 女のほうは訳がわからないままも、ここぞとばかりに男を攻撃する。
「浮気なんかするからヘンな目に遭うんじゃないの!」
 びしょ濡れになった男は、今度は反撃することなくすぐに、ごめん、と素直に謝っている。よほど驚いたらしい。

「あらら」
 それを見ていた少女の声には、妙な落胆の響きがある。

 恋人たちはその場を立ち去っていく。男のほうは何度も自分たちがいた場所を振り返りながら。

「フフフ……キャハハ……面白いの。案外、簡単に決着ついたじゃない。ね」
 長い髪のせいでより一層華奢(きゃしゃ)に見える少女、晃実(あきみ)はつかの間の喜劇に笑いを(こら)えきれない様子だ。
「あんまり無駄遣いするなよ」
 さらさらの長めの髪を無造作に手入れした背の高い少年、恭平は半ば笑いながら、晃実をたしなめた。その目は保護者的な眼差しだ。
「別に減るものじゃないでしょ」

 減るものではないのは晃実の力、恭平の力――異能力と呼ばれるものであり、この場所はその練習場になっている。

「けど、遊びに使うものではないよ。少なくとも僕と晃実にとってはね」
 恭平の静かに告げるその言葉がそれまでの雰囲気を一掃して張り詰めた空気を呼び起こした。
 晃実の顔は先刻とは一変して、怒りとも憎悪ともつかない表情に変わる。

「そんなこと充分わかってるよ、わたしだって。忘れたくてもこのわたし自身の心がそれを許さないもの。こんな力、失くしてしまえたらどんなにラクだろうって……」
「そうだな……けど、それだからこそ僕たちはこんな人間を故意に出さないために闘わなくちゃならないんだ」
 恭平の言葉には強い意志が表れている。

 使命だとは思っていない。ただ、目的が必要だった。
 自分たちがここに在る意味を知りたかった。
 わたしたちはどこにも属さない孤独な生き物。わたしたちは()じゃない。

「それで、わたしたちはいつ宣戦布告するわけ?」
 事の重大さとは反対に軽い口調で晃実は(たず)ねた。
「すぐにでも」
 恭平は短く答えると、晃実を気遣わしそうに見つめた。
 晃実の顔によぎる感情は何もなかった。迷いも恐怖も憎しみも、そして哀しみさえも表れない。

 それだからこそ、恭平は余計に心配なのだ。
 なぜなら、彼自身も同じであったから。

 表には出さない。内にはあらゆる感情が入り乱れ、いつ狂ってしまうのだろうかと思わずにはいられない。大きすぎる怒りがその歯止めとなっていた。

「先生はなんて?」
「変わらない。賛成できないが止めるつもりもない、と」
「そう」

『先生』は父親といっていいほどの、いや、それ以上の存在だった。先生は心配という言葉が軽すぎるほど、二人のことを常に思っている。

「不謹慎だけど、きっかけが早くないかな」
「すぐにでもって云っただろう。そんなに待たなくていいんだ」
 恭平の声は確信に満ちていた。
「……間近に大きな事故が迫ってるってこと?」
「そうだ」
 恭平の予知力に間違いがあったことはない。

 恭平は晃実にはない異能力を持っている。その逆もまた(しか)り。

 恭平は未来にある阿鼻叫喚(あびきょうかん)を予知し、それが起こったときに感知する。
 知ろうとしてその予知力を使うわけではない。時間も場所もそして状況も関係なく、不意に防ぎようもなく目の奥にその情景が飛びこんでくるのだ。
 幼い頃は完全に立ち直るまで何日もかかったが、恭平は成長するごとに抑制を身につけ、今では誰にもその瞬間を気取られることなく平常心でいられるようになった。
 恭平はどれだけ強くなったんだろうと晃実は思う。
 その力は消えていないのに。

「不幸な人を歓迎するわけじゃないけど、それを利用しなければ、僕たちの存在を知らしめて奴らを誘いだすことはできない。それに、世間にも能力者に対する免疫をつけていかないと、いざ事実が世に出てもただの絵空事で終わってしまう」
「わかってる。人間は自分の理解を超えると、とっさに心を閉じてしまう生き物だから」
「そういうことだ。公共の電波は大いに利用させてもらう。体調には万全をきすように」

 三カ月早く生まれただけの恭平の保護者ぶった口調は今に始まったことではない。
 それにムッとした晃実は反撃しようと、恭平が嫌がっている呼び方で了解の意を示す。
「わかりました。お兄さま」
 案の定、恭平はおもしろくないといったふうに顔をしかめた。

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