Xの記憶〜涙の見る夢〜

序章 逃亡

 今、私の腕の中で、死に絶えたかのような娘。
 私たちの娘であるはずのこの子は、いったい誰の子であろう。

 見慣れた景色は彼女の目に入ることなく、通い慣れた建物を背後に、足早に、しかし目立たぬように立ち去ることが今の精一杯だった。

 医者と看護婦がともに病室を開けた瞬間の、たった一度のチャンスを彼女は逃さなかった。
 娘の一回きりの呼びかけだけが、彼女のくじけそうになる心を支え、後押しする。
 人に怪しまれていないことを確認しつつ、非常口から外へ、そして階段を一気に駆け降りて病院を飛びだしてきたのだ。

 私の胎内に宿っていた確かな命は、本当にこの子であったのだろうか。
 私たちが待ち焦がれた子供は本当にこの娘でありえるのだろうか。

 けれど、あの痛みは本物だった。
 想像を絶するほどの痛みが最大限に達したとき、朦朧(もうろう)とした意識の中にいても、忘れることのできない声が私の耳に残っている。
 この世に誕生したばかりのその瞬間のわが子の産声(うぶごえ)、そして、
『女の子ですよ』
と声をかけた助産婦たちの笑顔が記憶をよぎる。

 間違いなく、私はその命をこの世に送りだした。
 それでも、その命がこの娘であるのかどうか、確信を持てなくなった。

 どうすれば、何を得ればそれがはっきりするのだろうか……。
 そして偶然だと思っていることが、果たして必然という名のもとにつくりだされたものであるならば、私は何をもってそれを証明できるというのか。
 たとえ証拠があったとしても、自身を危険にさらしてしまうかもしれない。
 そしてこの子も……。

 はっきりと見えることのない敵から逃れるため、必死の急ぎ足になりながらも、彼女は様々な疑惑を抱えこむ。
 しかし、今は冷静に考えられる状況でも心境でもなかった。

 今はまだ、私たちを……もしくはこの子を捜しだそうとしている彼らがすぐにでも追いつける状態にあるのだ。
 私たち……私と娘は逃げおおせることができるのか。
 どうやってこの未来を生きていけるのか。

 夫のもとへは戻れない。
 彼の娘ではないかもしれないこの子を連れて、否応ない逃亡生活を強いて、彼の人生を確実に破滅させるとわかりきっていながら戻ることはできない。

 では、どこに――?

 今の私が全面的に信頼できる人間が、夫のほかにいったいどこに存在するというのだろう。
 彼らがすぐに察することのできる場所ではだめなのだ。せめて、追跡を遅らせるための時間稼ぎが必要だ。
 私にはもう自分の家に戻る時間さえ許されない。
 ともすれば、その頼った人までをも巻きこんで、犠牲者としてしまうかもしれなかった。

 考えすぎだろうか……。

 ――違う!

 らくな選択をしようとした自分を戒める。
 これは現実なのだ。
 本能とでもいうべきか、私の頭の中には絶えず警告のベルが鳴り響いている。
 甘い考えは捨ててしまおう。

 彼女は急ぎ足で、目的地のないまま先へと歩き続ける。

 この子は本当に生きている?

 息はなく、常識で考えるならば、それは即ち死を意味する。やさしさと名医の仮面を被った医者もそう告げた。

 けれど、確かに私は聴いた。
 感じた。
 私の娘の声を、私の娘のかすかな動きを、そして私の手を握り返した娘の手の感触を、確かに私は感じたのだ。
 そのとき、はじめて彼らへの疑惑と正面から向き合うことができた。

 何が真実なのか。
 私の親としての勘が正しいのか。
 彼らの専門家としての経験が正しいのか。

 彼女は自分の心がいとも簡単に、彼らに対する疑惑を受け入れたことに驚いていた。
 引っかかるものはあったのだ、以前から。ただ、何がと問われたときの答えが見つからなかった。

「かあさま」

 同時に後方から激しい雑音と揺れが伝わってきた。

 しかし、彼女は身体に感じる衝撃よりも、心に響いた声に気をとられた。
 娘を抱く腕に力がこもる。

 私の心に呼びかけた声は(まぎ)れもなく、まもなく二才になろうとする娘のもの。決して幻聴ではない、この私に向けられた声。
 だからこそ、この子が私の娘であろうとそうでなかろうと、私は守るべきなのだ。この子の純粋無垢(むく)な信頼を裏切るわけにはいかない。

「おばちゃん」

 すぐ後ろから突然聞き慣れた子供の声がして思わず足を止めた。

「僕んちへ行こう。父さんたちがあとのことを考えてくれてるんだ」

 激しく息を切らし、混乱した中でも素早くその意味を理解しようと努め、それが叶うと彼女は腕の中の娘を不安そうに見やった。

「大丈夫、注射をすれば目を覚ますんだって」

 勘の良さを発揮して彼女をなぐさめたその男の子は、三年来の友人の息子だった。

 彼女はいくらかほっとしてうなずいた。

 すでに離婚して、元夫とは絶縁した友人の二才の息子が云う『お父さん』なる人物が誰を指すのか、おぼろげに察しながら、探し当てた目的地へと向かう。

 私と彼女は、あの病院で知り合った。
 そしてこの、彼女の息子もまた私の娘と同じように、原因不明の病気で入院していた。ほかにもいたが、亡くなったとか退院したとか聞いている。

 真実の重さに、恐怖に襲われた。
 彼らの単なる欲望なのか、それとも彼らに(とど)まらない大きな陰謀(いんぼう)なのか。

 ブルッと(からだ)を震わせる。
 ドアベルを鳴らして、彼女を待った。

 心配なのは……いちばん不憫(ふびん)なのはこの娘と、そして彼女の息子。
 私たちが行き着くところはどこなのか。

 差し迫った深刻な顔をしている私とは対照的に、彼女は歓迎を示す笑顔で、突然の訪問者を迎える。


 それは子供たちの姿が目に入ったとたん、驚きに変わった。

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