失いたくない

終章 失いたくない  4.触れたい

 

 ブレイズ川口のチームメイトで、且つ日本代表ミッドフィルダーの一人である城島と組み、聖央はストレッチをやっている。
 ここからでも聖央の陰りがちな――傍から見れば不機嫌そうな雰囲気が見てとれる。まるで仲直りするまえに戻ったかのようだ。
「健朗くん、まえに行ったらセーオーと話せるかな」
「一緒に行きましょう」
 亜夜が独り言のようにつぶやくと、健朗は先刻承知だったようですぐに立ちあがった。
「中田、大丈夫か?」
 小野は心配そうに亜夜を見つめた。
「うん。なんだか大丈夫みたい」
「きっと、いろんなことを吹っきれて、発作が出てくる隙もないんだよ」
 憂うことなく笑っている亜夜を見て、万里が断言した。
 亜夜もそう思えた。不安の欠片もない。
 健朗の腕を支えにして、人が行き来するなか、前方へゆっくりと階段をおりた。
 フェンスのところまで来ると、ずっと近くで聖央を観察できた。城島との打ち合わせに余念がないようで、その眼差しは真剣だ。

 セーオー……セーオーに触れたい。
 聞こえるかどうかはわからない。けれど、届きそうな気がして――
「セーオー!」
 亜夜はフェンスから少し身を乗りだして叫んだ。

 数万という大勢のサポーターのざわめきと声援はやむことがなく、亜夜の声はそのなかに溶けていく。それでも、聖央は確実に亜夜の声を聞き分けた。
 自分の耳を疑いつつ、聖央はその声のした方向へと顔を向ける。そこには、かつての元気な亜夜がいた。
 亜……夜……?
 それは声にならず、ただ、くちびるだけがその名を語る。

「セーオー!」
 亜夜はもう一度、その名を呼んだ。
 今度はそれが幻聴でも幻影でもないことを信じられた。驚きを越えて聖央のなかに狂喜に近い感情が流れこむ。それを追いかけてくるように不安が紛れこんだ。
 聖央は亜夜のほうへと近寄った。
「亜夜、ここはだめだ。家で待ってろ。電話入れるから」
 聖央が心配している。亜夜は笑いながら首を振った。
「あたしなら平気。セーオーがグラウンドに立つなら発作なんて起きない。ちゃんと見てるから、セーオー、今日は勝ってね。試合終わったら、話すことがいっぱいあるの」
 聖央は拒否に近いためらいを見せる。
「聖央、大丈夫ですよ、僕がついています。万里ちゃんも小野さんもいますから、いざとなっても心配いりませんよ」
 健朗がフォローした。が、それでもまだ聖央は迷った。
「信用できませんか」
 健朗が微笑んで駄目押しをした。
 聖央は健朗から亜夜に視線を移す。亜夜は祈るような表情で返事を待っている。
「……オーケー」
 やがて聖央は軽く手を上げて了承し、健朗に視線を戻した。
「健朗、頼む」
 切実な依頼だった。
 健朗がうなずいたことを確認してから聖央は背を向けた。

「セーオー」
 亜夜は戻りかけた聖央を呼びとめた。聖央が待っているであろう大事な返事をまだ伝えていない。
 聖央が振り返った。
「もうひとつ、云い忘れた。あたしも……あたしも、セーオーを失いたくないから」
 亜夜の小さな声は、それでも聖央に届く。聖央は短く声を漏らして笑った。
「バカ。んな大事なことを忘れてんじゃねぇよ」
 いつもの強い聖央が還ってくる。
「セーオー、わかってる?」
「なんだよ」
「勝ったらサポーターは大満足、ってこと」
「……。なるほど」
 満足であれば、大げさに云えば暴動は起きない。ちょっとの間、亜夜が何を云っているのか考えていた聖央は、理解したとたん相づちを打って笑った。
「聖央、今日は絶対の勝算ありですよね」
「愚問だぜ」
 健朗の問いかけに聖央は即座に答えた。そして、再び近寄りつつ、聖央は亜夜のほうに右手を伸ばす。

「亜夜、手を」
 亜夜は云われるままに、精いっぱい伸びをして手を差しだす。無意識に出たのは、いつも聖央に頼っている左の手だった。
 手を繋いで歩くときのような握り方で、聖央は亜夜の手をつかんだ。つかの間、力を込めて、そして、放した。
 触れたい。
 その想いが聖央には伝わったのだろうか。それとも同じ気持ちで。
「いまからおれはグラウンドに立って、プロとしてこれまでにない最高のプレイを見せてやる。亜夜、おまえは最後まで見届けろ。途中退場は許さない」
 聖央は毅然として云った。その裏には祈りが見える。
「うん。セーオーがそこにいるかぎり、あたしの居場所はここだから」

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