失いたくない

終章 失いたくない  3.引き換えたもの

 

 国立競技場は桁違いのスタジアムだった。今日こそはこの日本でW杯の出場権獲得の瞬間に立ち会いたいと、多くのサポーターがゲートに向かって長い行列をつくっている。
 亜夜はその後尾で万里と小野、そして、チケットを手配してくれた健朗と一緒に並んだ。
「あの件、大丈夫ですか」
 健朗が気を遣ってか、心配そうな様子で曖昧に亜夜に訊ねた。
 Jリーグの試合で、力を発揮するどころか、やる気がなさそうな――他人にはそう見えたらしい――プレイを見せた聖央をスポーツ紙が批難した。
 世間に対してはけっして愛想がいいと云えないなか、聖央のプレイは文句のつけようがなく、マスコミは語らない聖央に不満を持ちながらも、一流と認めざるを得ない状況下にいた。そのうっ憤を晴らすように、ここぞとばかりに叩いたのだ。
 報道厳禁とされているはずの、あの日の写真が並んだ。亜夜の顔は聖央の腕に隠れていて見えなくても、聖央ははっきりと認識できる。
『女とサッカー、どっちが大事?』
 そんな見出しで始まった記事は、三年半まえの事故のことまで掘り返していた。
「何が大事かわかってるから平気」
 亜夜は惑うことなく答え、健朗を安心させた。
 このことでは、自分よりも聖央のほうが傷ついている。亜夜の傷みが計り知れないことは、聖央がいちばんよく知っているのだから。
 自分たちの席を見つけると、そこにはすでにFATEのメンバーと実那都が来ていた。
 FATEはこの一年で、着実にその名を世間に知らしめている。それでなくても目立つ人ばかりだが、驕った様子は少しも見られない。
「やあ。久しぶり」
 亜夜たちを認めると、すかさず気さくに声をかけてくれた。実那都が云ったとおりの仲間としての歓迎が見てとれ、一気に亜夜と万里の緊張がほぐれる。次から次に声がかかって、そこに彼らの人柄の良さが表れている。
「これ……」
 席に着くと、健朗が封筒を差しだした。
「少しまえに訪ねたとき、岬さんから預かったんです。亜夜ちゃんにって」
「……え?」
 亜夜は驚き、ためらいながらもそれを受けとった。
 気遣うように見守る人たちのなかで、亜夜はゆっくりと手紙を開く。

 亜夜ちゃんへ

 どんなに謝罪しても足りないことをしてしまいました。
 はじめてふたりに出会ったとき、亜夜ちゃんのなかに幼かった頃の自分の姿を見いだして苛立ちました。そして、思いました。こんな思いをするのはわたしだけではないはず。違う、わたしだけであってはならない。
 自分を責めるかわりに、亜夜ちゃんを憎みました。手遅れになるまえにはっきりと気持ちを伝えられなかったわたしは、自分を憎んでいたのかもしれません。
 聖央くんのことを本当に好きだったのか、自分でもよくわかりません。いまとなってはどちらでも同じことです。
 聖央くんを手に入れることで、自分の気持ちを成就させたかったのかもしれない。聖央くんが何よりも大事にしている、亜夜ちゃんになりたかったのかもしれない。
 取り返しのつかないことを続けるなかで、こう思っている自分もいました。
 揺るがないふたりがそこに在るなら――わたしの幼なじみとは違う、そう聖央くんが云っていたように、それぞれに行く先は違っていて、わたしたちはたまたま行き違ってしまった――そんな、自分では認められなかったことを亜夜ちゃんたちが認めさせてくれる。そうしたら過去をあきらめられるかもしれない。
 培ってきた想いと、それを遂げられなかったという後悔に向き合う強さがなくて、憎しみを支えに生きてきたような気がします。
 わたしは今度こそ逃げだしたりしないで、自分がしてしまったことと向き合っていくつもりです。
 その機会を与えてくれてありがとう。
 そして、何よりも、ごめんなさい。どうかふたりずっと一緒でいてください。

 岬圭子

 亜夜は読み終わってもしばらくは何も考えられなかった。この手紙から受けとれるものが、誠意なのかうわべだけなのか判断がつかない。
 これが誠意なら。
 このさき、岬を許せるのかはわからないけれど、その想いと過程を理解することはできる。
 憎しみだとか怒りだとか、それらは負の要素だけしか生みださない。
 岬を見ていて、そう知った。
 代償は譲りようのない大きいものだが、亜夜は人としていろんなことを考えられるようになったと思う。生きていくなかで、どんなに大きく人から支えてもらっているのか、わがまましか知らなかった亜夜は気づくことができた。
「あの日、僕が居合わせたのは偶然でした。本当は聖央にだけ話すつもりが、あの状況に出くわして、岬さんのこれ以上の介入を防ぐためにはああするしかないと判断しました。でも……そのせいで、亜夜ちゃんを傷つけたことを思うと……」
 いつも率直すぎるほどの健朗が、言葉を詰まらせた。
「健朗くんは正しかったよ。あのままだったら、あたしはずっと空元気を続けて、いつか潰れてた。感謝してる。それでなくても、結果オーライだよ」
 笑みの滲んだ亜夜の声に健朗は微笑む。
「岬さんのことは心配しないでください。彼女は、どうやって償ったらいいかわからない、と云っていました。もし彼女がまた何かをしでかすようであれば、僕が全力で排除しますよ」
「あたしたちもね」
 万里が健朗を援護した。小野もすかさずうなずく。
 亜夜は自分がいかに恵まれているか、再確認する。
「心強いよ」
 亜夜は心底からうれしそうにして云った。
「……あたしね、岬さんがあんなふうになったこと、わからないわけじゃないの」
「亜夜ちゃん……」
「健朗くん、思わなかった? 失恋くらいで、たかがそんなことで――って」
 健朗は少し考えた。岬の奥底に在るしこりを探し当てたとき、確かに思った。こんなことで、ここまで人間は歪んでしまうのか。
「……否定……できませんね」
「あたしも、岬さんと同じことを認めたくなくてセーオーと離れたの。二年たっても、やっぱり吹っきれなかったよ。下手したら仕事もなくなるかもしれないのに、それでもすぐばれるような嘘に頼るしかなかった岬さんは、やっぱり病気だと思う。それくらい想いは深くて、永かったんだと思う。だから……健朗くん、岬さんに伝えてくれないかな?」
「……? いいですよ」
 健朗は戸惑いながらも承諾した。
「岬さんが本当に償いたいと思ってるなら、その方法を知りたいっていうのなら、それは……岬さんが幸せになることだよって……そう伝えてくれる?」
「亜夜ちゃん?」
「亜夜!」
 健朗は定番になりつつある心配顔で、万里はたしなめるような批難顔で、同時に亜夜の名を呼んだ。
「何を云ってるのか、って?」
 亜夜は言葉にならなかったふたりの台詞を代弁し、笑いつつ弁明を始めた。
「あたし、今度のことでやっとさきに進めたんだ。ケガしてからいろんなこと……考えることがありすぎて、あたし自身、混乱していたんだと思う。その整理がやっとついたみたい。事故に遭ったこと自体は、やっぱり運が悪かっただけのことだし、いま、全部を受け入れられたのは岬さんの、酷だったけど告白がきっかけになった。足のことで後悔することはもうない。この足と引き換えにして、手に入れたものはたくさんあるから」
 目のまえに広がるグラウンドは緑色に光り輝いている。その包みこむようなやさしい色が、亜夜の穏やかな心底と共鳴する。
「学んだことがいっぱいある。岬さんと出会うことがなかったら、いまのあたしはなかった。少しは成長したのかな。あたしは自分を好きになれた。あたしのことを真剣に心配して、大事だと云ってくれる人たちに囲まれた自分は幸せ者だってことを知ったの。そうわかったこと自体が、すごく幸せなことなんだよ」
 亜夜の一片の濁りも見えない澄みきった言葉は、そこにいただれもの心を温かく感化する。
 人は独りでは在り得ない。北沢が出した課題も合格印がもらえるだろうか。
「そういう面ではよかったって思う。でも、全部がうまくいったからって、あたしはそれに浸ってるわけじゃない。優等生ぶってるわけでもないし、偽善者になる余裕もない。ただ岬さんのこと、不安じゃないとは云いきれない。セーオーが……みんなが、守ってくれるってわかってても、やっぱり……」
「当然のことだよ」
 万里がうなずきながら亜夜をなぐさめる。
「うん……それで、どうなったらほんとに安心できるのかなって考えたら、ひとつしか結論が出てこなかった」
「それが、さっきのか?」
 亜夜のよき理解者である小野は、すべてをわかったふうだ。
「うん。岬さんに想い人ができて、その人から愛をいっぱいもらったら……幸せになれたら、きっと傷も癒えるよね。幸せだったら、人を不幸にしようなんて思わなくなる。岬さんは嫌な人間にならなくてすむし、あたしは不安がることもない。そういう打算的な考えなの。あたしはもう無理なんてしてないから」
「亜夜ってば、なんていい子なのぉ」
 万里はふざけて亜夜の頭を、幼い子供にするようによしよし≠キる。
「万里、やめてよ。違うって云っ――」
「いい子だよな。中田は」
 頭を撫でる万里の手を退けながら亜夜が訂正しかけると、それをさえぎって今度は小野が笑いながら、万里と同じ言葉を繰り返した。
「だから、あたしはそんな――」
「それでも、そんな結論が出せるのは、亜夜ちゃんならでは、ですよ」
 亜夜が再び否定しかけると、すかさず健朗も口を挟んでふたりに賛同した。
「いったいだれがこんないい子に育てたんだろうな」
 小野の『いい子』という響きは、どう聞いても子供扱いとしてしか取れない。亜夜の表情は、困惑からふくれ面へと変わる。
「せんせ――!」
「それは聖央くんに決まってるでしょう」
 またもや亜夜の抗議は無視された。
「そうですよ。何しろヨチヨチ歩きの頃から、お手本は聖央ですからね。聖央の可愛がり方は……あれだけ愛情を注がれたらいい子に育つはずです」
 なまじっか、健朗は幼稚園の頃から亜夜たちと付き合ってきているだけに抗うこともできない。
「へぇ。あいつ、紫の上≠育ててたってわけだ」
「どうりで。亜夜ちゃんと話してると、聖央が険しい顔になるはずだ」
「なるほど。自分のものは自分のもの、ってことか」
 FATEの面々が可笑しそうにして、ここにはいない聖央をからかう。
 いたら困る。ふざけるな、などと怒るに違いない。……それともいまなら、聖央はあっさりとそれを認めるだろうか。
「果たして、どちらがわがままなのか。逆もまた然り、というところでしょうか」
「そうよねぇ」
 万里がしみじみと口にして、グラウンドに目を走らせた。行き着く結論はみんな同じだった。
「もう知らない!」
 亜夜は顔を赤くして小さくつぶやいた。
 そして、万里の視線を追ってグラウンドに目をやると、選手たちの姿が亜夜の視界に入った。
 すぐに聖央を探し当てた。
 そのとたん、亜夜のなかにはひとつの想いしか存在しなくなる。

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