失いたくない

終章 失いたくない  2.Depend on You

 

 聖央にとって、亜夜は成長していくにつれ、それに逆行するようにかぼそくなっていった。それだけ、聖央は守る立場にあったはずが――。
 まもなく、聖央は思いきれないまま亜夜から離れた。
「おばさんに心配かけてるからもう電話はしない。けど、返事は待ってる。焦らなくていい。おれの声が届いたら、ゆっくり考えてくれるだけでいいから――」
 うつむいたままの亜夜にそう云い残し、聖央は部屋を出た。
 聖央がドアを閉めると、階段のおり口に腰かけていた万里が立ちあがった。
「亜夜は大丈夫だからね」
 万里は聖央を励ました。なぐさめではなく、まもなくの確かな未来を告げたのだが、聖央は自信がなさそうに首をわずかに傾けてうなずいた。
「亜夜のことは……おれだけでなんでもしてやれるって思ってた。甘かったな」
 聖央は自分を嘲るように笑い、「万里ちゃんがいて、ほんと助かったよ」と続けた。
「だてに親友やってるわけじゃないわよ」
 万里は頼もしく応じて、聖央はうなずく。
「あいつ、おれのあとばっかり追ってきてたから、友だちつくる暇なんてなかったんだ。友だち探せよって何回忠告しても聞く耳持たなかったし、正直云えば、おれがいてやればいいかってのもあった」
 そう自負した自分が、あの日に亜夜を突っぱねた。かまってやれなかったあの頃、あの状況下で、自分は亜夜に突きつけたのだ。
 自分には亜夜のほかに大事なことがある、と。ふざけた勘違いをして。
「聖央くんて、意外に独占欲が強かったんだね」
「そういうことだろうな」
 認めざるを得ない。無意識のなかで、聖央は亜夜をいつも独占したがっていた。
 思いがけなくあっさりと自認した聖央に、万里は安心した。亜夜に関するかぎり、プライドやこだわりは、聖央のなかではもう皆無なのだ。
「それはともかく、いまは大丈夫。あたしがいるから。聖央くんの心配もひとつは減ったわけだ」
「感謝してるよ」
 万里の恩着せがましい云い方に、聖央は笑いながら礼を云った。
「亜夜がわがままに振る舞うのは、おれがそうさせてきたからなんだ。当然それが気に入らない連中がいて、友だちをつくるどころか、呼びだされては口げんかしてた」
「そのたびに助けにいったりしたんだ?」
「学校が重なったときはそうした」
「健朗さんも?」
「……健朗?」
 いまにも吹きだしそうな万里と突然出てきた健朗の名に、聖央は怪訝な表情をした。
「そう」
「ああ……何度か一緒に救いだしたことはある」
 ぷっ。
 万里はついに笑いだす。
「亜夜が云ってた。聖央くんも健朗さんも、肝心なことに鈍感なんだって。呼びだされてたのは亜夜のわがままのせいじゃないんだよ」
『セーオーが好きならセーオーに告白しちゃえばいいのに、できないからって、あたしにベタベタするなって文句云いにくるんだよ。おまけに、セーオーと健朗くんのダブルカバーでヒーローが登場するわけ。結果……わかるよね?』
 万里はかつて亜夜が語ったことを聖央に伝えた。
「つまり、聖央くんが助けることで妬みは増長されたし、健朗さんがそれに加わることで敵は倍増したってこと。現に聖央くんたちが卒業したあとって、そういう意味では平和だったようだし」
 聖央は絶句してしまう。
 その間、万里はくすくすと笑っていた。
「……あいつ……何も云わなかった」
「聖央くんのなかにちゃんと自分の存在を確認できて、それだけで亜夜はうれしかったんだよ。それにね、亜夜がわがまま云うのは聖央くんにだけなの。例えば、健朗さんに亜夜が無理なわがままを押しつけたことある?」
「……いや……」
「亜夜はいい子だよ。ね?」
 万里が同意を求めると、聖央はため息混じりで、「ああ」と笑って応じた。
「亜夜は節度をちゃんとわきまえてるし、人のことを気遣うこともできる。性格が悪かったら、あたしも親友になってあげない」
「……そうだな。じゃなきゃ、おれを自由にするような選択をするわけない」
「いまはどう思ってる?」
「いま?」
「亜夜が選択した結果のこと」
「よかったと思ってる。亜夜には万里ちゃんができたし、おれは……すべて踏まえたうえで、さきがちゃんと見えるようになった」
 聖央は迷うことなく答えた。
「聖央くんがそう思ってるなら大丈夫。亜夜もすぐに立ち直れる」
「ああ……これ以上は亜夜の負担になるからしばらく静観するけど、あと頼むよ」
「任しといて」
 万里が勢いよく受け合い、聖央は笑わされる。
「頼もしいな。じゃ」
 階段をおりるにつれ聖央の顔から笑みは消え、やるせなく陰っていく。
 亜夜が離れることを決断した日から、亜夜を傍に求めるあまり、聖央のなかではいつの間にかその気持ちが、あたりまえという愛情から、希う恋へと変わっていた。
 そしていま――。
『きみには守るべき大切なものが存在するだろう。それを忘れなければ傷は癒える』
 北沢が教え導く。
 亜夜、亜夜、亜夜……。
 心は繰り返し、叫び続ける。


 万里は静かにドアを開けて入った。部屋の空気が、亜夜の微妙な変化を伝えてくる。
「もういいよね、亜夜。聖央くんの気持ちは純粋なものだってわかるよね」
 亜夜はゆっくりと顔を上げた。万里が笑っている。
「……万里……ごめん……ありがと」
 亜夜の瞳から涙がこぼれた。
 堰を切ったように、しばらくは止まらなかった。

 僕等が歩いてきた道 遠回りではなく
 いまにたどり着くためのプロセス
 すべては無駄じゃなく価値ある Stepwise
 すぎた時を描くより
 ここにある瞬間(いま)を生きていく
 抱き続けた夢が いま 叶う
 誓った想いは変わらず君に降り注ぐだろう
 Believe ourselves
 Hope for the best
 限りなく流れる未来のすべてを 一緒に重なる夢 織り成そう

 健朗のプレゼントは、一年後のW杯のイメージソングに向けた曲だった。
『亜夜ちゃんと聖央をモデルにつくったこの曲【Stepwise】を、FATEからふたりに贈ります。僕が伝えたいことはすべて、この詞に込めたつもりです。そろそろ気づくべきですよ。聖央の幸運はすべてきみが運んでいる――ということに。健朗』
 そんなメッセージを添えて。

 

 およそ二カ月間放っておいた亜夜の右足は本当に固まりかけていた。大学も始まったから、中山総合センターへのリハビリ通院と相まって、ゆっくりしている間もなく時間がすぎていく。
 五月の半ば、足は無理をしなくても以前と変わらない状態までやっと改善された。通院も当面は二週間に一度くらいのペースでよくなった。
「万里、いろいろありがと」
 小野の車に送られて駅まで来ると、亜夜は照れくさく感じながらあらためて万里に伝えた。
「あたしは最初に面倒かけちゃってるから、これでお相子だよ。早く聖央くんに会いなさいよ。もうすぐ遠征から帰ってくるんでしょ」
「……うん」
 亜夜はためらいながら返事をした。
 万里はその理由のひとつを察すると、伝えておくべきだと思って口を開いた。
「あのね、亜夜、ひとつ報告しておく。亜夜が触れないから、あたしも云わなかったけど、あの女のこと……知っておいたほうがいいよね」
 亜夜はこくんと息を呑んだ。たまたま見たテレビ番組のなかで、岬は休養中だと聞いた。
「健朗さんがいろいろ手配したみたい。どこかの療養所で心の治療してるって。だから安心していいんだよ」
 健朗くんが……。
 なるべく考えないようにしていただけに、そう聞くとやっぱり亜夜は安心した。岬の名を聞いてこわばった肩から力が抜けて、亜夜はかすかに笑いながらうなずいた。
「セーオーには……予選が終わって帰ってきたとき――」
「あーもう、何呑気なこと云ってるの! 聖央くんは待ってるんだよ?」
 亜夜の言葉をさえぎって、万里は呆れたように天を仰ぐ。
「だって……あんまり聖央を煩わせたくない」
 根底には、聖央と顔を合わせる勇気をまだ持ち合わせていないということもある。聖央が待っていることはわかっている。けれど、聖央を傷つけたということが亜夜をためらわせる。
 あのときの、言葉にならなかった叫びは、たぶんそれでも聖央に届いていた。
「亜夜、聖央くんは、亜夜に責めてほしかったんだよ」
 その言葉に伏せていた顔を上げ、亜夜は問うように万里を見た。
「あの事故に限って、亜夜は聖央くんに何もわがまま云わなかったじゃない? 聖央くんはどこかでわかってたんだよ。亜夜が心の傷をずっと抱えてたこと。だから、今回のことでほっとしてるに違いないの」
「ほんと……に?」
「亜夜がいちばんわかってるはずだよ。聖央くんは、亜夜が傷ついたから傷ついてるんだよ」
 わがままな亜夜を取り戻したい。さみしいんだ。
 亜夜はそんな言葉を思いだす。あの日のひと言ひと言の裏に、責めてほしいと、そんな気持ちが潜んでいたのだろうか。
「……セーオーは……やさしすぎるよ」
「だれにでも、じゃないでしょ」
 万里の云うとおりだ。あたりまえのように、聖央のやさしさはいつも亜夜に向かっている。
「万里と会えてよかったよ」
 亜夜は笑顔になって、普段は照れて絶対に云えないだろう言葉を口にした。
「あたしも亜夜と会えてよかったよ」
 万里はうなずきながら同じ言葉を返した。
「あたしね、亜夜と亜夜の周りの人たちを見てて思ったんだ。あたしの障がいは、あたしのことを大切に思ってくれる人にとっては、なんの障がいにもならないってこと。そのことをちゃんと信じてやっていける」
 それは、万里の臆病な部分がいちばん必要としていたものだ。
 万里はこの春、センターを出て、冷たい、けれどどこか愛しいような、そんな曖昧な世間へと戻っている。
「うん。あたしもそう思う。万里のこと……あたしも大事だから」
「ありがと。あたしも同じ」
 亜夜と万里は声を出して笑う。互いに腕をまわした。
「こんな往来でよくやるよ。しばしの別れ、ってだけだろう。いまのおまえたちを見てると永遠の別れ、って感じだ」
 待ちくたびれた小野が、車の窓から顔を出して声をかけた。
「うらやましいんでしょう」
 亜夜を抱きしめていた腕を解いて、万里は小野をからかう。
「まさか」
 小野は心外だとばかりに云い捨てた。
「先生にもいろいろ心配かけちゃってごめんなさい。ありがと」
 亜夜が笑っているのを見て、小野は安心した眼差しでうなずいた。
「そんなことより、弥永とはまだ話してないんだろう? 元気になったことを中田自身が教えてやらないと、僕がいくら云っても彼は信じていないだろうよ」
 いつの間にか聖央のことを敬称なしで呼ぶようになった小野は、相当に聖央と話しこんでいるに違いなかった。
「うん。今度の予選のときに――」
「まだそんなこと云ってる。あと三週間もあるよ?」
 万里は思いっきり不満そうな顔をした。
「ううん。電話じゃなくて、会って話したいの。そのほうが聖央も安心してくれる」
「そうだな」
「じゃあ、その試合、見にいこうよ」
「甘い。チケットが手に入るかどうか」
「大丈夫。それは任せて」
 亜夜はすぐに強力なつてを思いつき、軽く引きうけた。
「中田、そろそろ行かないと電車に乗り遅れる」
「うん。じゃあ、またね」
「バイバイ」
 手を振る万里は少しさみしそうだ。
 小野先生、万里をよろしくね。

 

 Jリーグは聖央の活躍が目立って、順調に勝ち数を増やしていた。聖央の鮮やかなスルーパスは、確実にゴールへとアシストする。
 けれど。最終予選が迫った五月の終わり、それが突然崩れた。なんでもない試合で、聖央は信じられないほど崩れた。
 自分に託されたボールに気づかないままに立ち尽くす聖央。
 ベンチからの叫び声ではじめてそれに気づいた聖央は、呆然とタッチラインをわったボールを見送る。頭をすっきりさせようと、聖央は首を振った。大丈夫だ、というようにチームメイトに向かって片手を上げる。
 結局、そのあとも聖央のフットワークは一向に冴えなかった。フルタイム出場を誇っていた聖央が、ついにベンチへと下がった。
 一度天を仰いで、うつむいた聖央。
 その姿をカメラが追う。
 聖央が胸もとで右手を握りしめた。その手のなかにあるのは――。
 セーオー?
 亜夜の返事を待ち続けている聖央がそこにいた。
 試合はその後、チームプレーがうまくまとまらず、1−0で負けを記した。
 聖央に触れたい。
 苦しくなるほどに心が聖央を求める。
 いま、立ち止まっていた間にあった、いろんなことが思い出に変わっていく。きっとこれからの時間は、いま≠ナ埋められていく。
 疑う要因などもうどこにもない。だから――。
 聖央、聖央、聖央…………。
 心は繰り返し、叫び続ける。

BACKNEXTDOOR

* 英訳
   depend on … 信頼する、頼る
   step-wise … 一歩ずつ
   Believe ourselves. Hope for the best. … 僕らを信じてベストを尽くそう。