失いたくない

終章 失いたくない  1.告白

 

 その日の夜、真っ暗な部屋のなかで、亜夜はベッドに横たわっていた。暗闇に慣れた目には、薄らと部屋の調度品が映っているが、脳裡に入ってくることはなかった。何をする気にもなれない。すべてが不条理に思えて、それが気力を奪っている。
 聖央が来ても、亜夜は頑として部屋のドアを開けなかった。
 もうだれの言葉も必要ない。
 聖央も要らない。
 聖央はしばらくドアの外にいたが、「また来る」と、やがてあきらめて帰った。


「健朗、今日は悪かった」
 健朗に電話して第一声、聖央は謝罪を口にした。亜夜の母親に事情を説明させるという、嫌な役回りをさせてしまった。
『聖央が謝ることではありませんよ。かえって僕のほうがよけいなことを――』
「おまえのせいじゃねぇよ」
 聖央は健朗をさえぎった。電話越しの健朗の声に後悔が聞きとれる。
『でも亜夜ちゃんを――』
「おまえじゃない。おれがやったことの結果だ」
『聖央……大丈夫ですか』
「……ああ……まえみたいに黙って待ってるだけのつもりはない」
 出窓から見える亜夜の部屋はカーテンでさえぎられ、灯りも消えている。
『そう聞いて安心しました。もう繰り返す必要はありませんよ』
「健朗……頼みがある。おれでは力が足りない」
『わかってます。こういうときこそ、父の権力を使わなくてどうしますか』
 健朗は先刻承知のようで、聖央の依頼を請け負った。


 翌日の夜、亜夜が習慣的義務で風呂をすませて部屋へ戻ると、そこにはすでに聖央が来ていた。
 その瞳が語りかけるものを読みとりたくなくて、亜夜はすぐさま聖央から目を逸らす。
 会いたくないし、話したくもない。
 そう云うこと自体も面倒だ。ベッドに入ってふとんをすっぽりと頭から被ると、出ていってほしいと、亜夜は無言の抗議をした。
「あんまり食べてないんだって? おばさんが心配してる」
 ベッドの片側が沈む。
「亜夜……亜夜のつらさも怒りも恨みも……全部おれが引きうけるから……だから、ちゃんと生きていけるように……。体調まで悪くするなよ」
 頼むから――。
 その願いは言葉として発することはなかった。いまそれを声に出したらあまりに気持ちを曝けだしてしまうようで、そうしたらますます亜夜を追いつめることになる。そんな自分が許せず、聖央は言葉を呑みこんだ。
 聖央は顔を伏せる。
「明日から合宿に入るんだ。電話するよ」
 そう云ったきり、聖央はしばらく無言でそこに留まっていた。亜夜の返事が聞けるとは思っていなかったが、長い時間そうしていた。
 結局は再び口を開くこともなく、ふとんの上から亜夜の頭に触れると、聖央は部屋を出ていった。

 


 三日後、万里と小野が亜夜を訪ねてきた。
 凍てついた亜夜の感情は少しも溶けることがなかった。毎日、ベッドの上でただ時間をやりすごしている。母が気分転換にどこか出かけようと何度も誘ったけれど、亜夜はかたくなに拒んだ。
 聖央が両親にどう説明したのかは知らない。ただ、亜夜も生活上の必要最低限のことはかろうじてやっていたので、母も無理強いすることはなくなった。
 こんな足のせいで、人目に晒される機会などつくりたくない。この足のために亜夜が他人から得たものは、役にも立たない同情と不愉快な視線だけで、その見返りとしてこの不運な足は、他人に自分の幸運を再確認させるための道具とされるのだ。
 使わなくなった右足はだんだんと硬直していく。どうでもいいと思った。
「亜夜、電話に出てくれないから来たわよ」
 万里はひたすら明るくしながら部屋へ入ってきた。
 亜夜は口を閉ざすと同時に携帯電話の電源も閉じた。そうして意思を示しているにもかかわらず、聖央は毎日、家の電話に連絡を入れる。万里と小野はわざわざ訪れた。
 いまの亜夜にはなんの意味もない。だれとも話したくない。
「中田、センターへ来ないか。大学も休みだし、その間だけでもさ」
 亜夜はベッドで横になったまま、首を振って断った。
 小野はため息をついて、机から引きだした椅子に座る。
「事情は弥永くんから聞いた。いまの中田の状態は、本来なら事故の直後に……足の障がいを知ったときに出るはずだった反応だと思う。それなのに中田はずっと抑えてきただろう? だれにも心配かけないようにってがんばってきたよな。いまが正常なんだ。北沢先生も待ってるよ」
「……あたし、何もしたくないし、何も考えたくない。独りでいたいの。ごめん……」
 渇いた小さな声で、亜夜はふたりともを拒絶した。
 万里と小野は顔を見合わせる。いますぐどうこうなるものじゃないことはふたりとも承知だ。
「亜夜はもっと自分のことを大切にしていいんだよ。たまにはよしよし≠チてしてあげてよ。……今日はこれで帰るけど、また来るからね」
「自分を責める必要なんてないからな。ゆっくりでいいから、必ず出てこいよ」
 小野は万里を連れて部屋を出ていった。
 ふたりとも間違っている。責めているのは自分のことじゃない。そんないい子じゃない。

 


「亜夜、元気?」
 二月の終わり、元気なはずのない亜夜にそう訊ねながら、万里は再び部屋に訪れた。
「わたし、青南大学、合格したんだよ! 亜夜の後輩になるんだからちゃんと面倒みてよね。しばらくは勉強から逃れてのんびりしたいかも。だから、約束のお泊まり会を実行しにきたの。亜夜んちにお世話になるからよろしくね」
 一方的に喋る万里の後ろから小野が現れ、持っていた荷物をおろした。
「中田、しばらくうるさいだろうけど、伊原を頼むな」
 小野はそれだけを云って部屋を出ていく。
「それ、どういう意味よ!」
 万里は抗議しながらも、小野を見送るために一緒に部屋を出ていった。
 亜夜には拒絶する暇も与えられなかった。
 その日から、センターと中田家を行ったり来たりしながらも、万里は亜夜の傍に居ついて、独りで亜夜の家をにぎやかにしていた。万里は亜夜の徹底しただんまりにも挫けることなく、次から次へと話題を探しては喋り続ける。返事はしなくても、亜夜はいつの間にか万里の話を聞くようになった。
「亜夜の家は居心地いいんだよね。やっぱり亜夜が足を悪くしてるからかなぁ。右手があんまりに思うようにならないと、亜夜のお母さん、いいタイミングで手伝ってくれるんだよ。出しゃばらなくて、だけど、あたしがイライラモードに入っちゃう直前で手を貸してくれるの。うちのお母さんより余裕があるんだよね」
 それは外で働いているか否か、延いては時間に融通が利くかどうかという違いもあるだろう。専業主婦である亜夜の母親と違って、万里の母親は仕事を持っている。万里はセンターにいるからなかなか両親と会えないでいるけれど、それでも心配をかけていると申し訳なさそうに話してくれたことがあった。
 亜夜はまたいま、自分がどれだけ母を心配させているかということを再認識した。入院中は毎日欠かさず、病院まで来てくれたのだ。
 そんな思いがあってもどうにもできずに時間がすぎていく。
 そして、万里が来て二週間を越えた三月の終わり、ついに万里は本題に触れた。
「亜夜、聖央くん、毎日電話してくれるよね」
 久しく聞くことのなかったその名を耳にして、亜夜はぴくっとふるえた。だれもが聖央に関して触れないよう気を遣っていたのだ。
「聖央くんが云ってた。亜夜は自分を恨んでるんだって……それで当然なんだって。でも違うよね。聖央くんの責任でも過失でもない。きっかけをつくったあの女を恨んでも、もう右足は戻らない。まして、時間を遡ることは到底できない。その苛立ちとかが聖央くんに向かってる」
 万里は亜夜の様子を窺った。目立った反応は何も見せてくれない。聞いているのかいないのかさえ、はっきりとはわからない。
「あたしね、小野先生が云ったように、亜夜がこんなふうに感情を曝けだせたこと、よかったって思うんだ。ちょっと安心した。これが普通だよ。亜夜はずっと我慢してたから……。いまになってそれに気づいたあたしって、友だち失格だよねぇ」
 万里は押しつけがましくしないよう、わざと声に出して笑った。
「あたしたち、同じ時期にセンターに入ったじゃない? あたしは思いっきりいじけてたのに、亜夜は元気で……んーと、子供じみたホームシックは別にして、だけど。挫折なんか少しも感じさせなかった。いまの亜夜みたいに落ちこんでたあたしを、ずっと励ましてくれた。でもそれって、克服してるんじゃなかったんだよね」
 これが現実のすべてだと、自分に云い聞かせて納得したつもりだった。けれど――。
「心の奥底で、心の傷はずっと燻ぶってた。もしかしたら亜夜自身も気づいてなかった」
 真の事実は違っていた。
 解決しなくてはならない問題を先送りにして、逃げまわっていただけだ。だから、岬を見ると逃げたくなった。何も認めたくなかったのかもしれない。だから、何をするにも理由をつけた。
 聖央のために。
 そうやって自分に云い訳をした。
 聖央から拒まれることではなく、足に傷を負ったからこそ受け入れられることが怖くて、自分からも逃げた。
 そう認めると、止まっていた亜夜の時間がゆっくりと動きだす。
「抑えなくていいよ。聖央くんへの気持ちも抑えなくていい。抑えることで、無理して聖央くんを責めてる。そんな自制は必要じゃない。そうすることで、亜夜はまた傷ついてるから」
 万里の言葉が亜夜に浸透していく。
 もう時効かもしれなかった。
 亜夜は口を開きかける。
「…………」
 けれど、何から始めていいのか言葉が見つからない。長い沈黙が亜夜から言葉を奪っていた。
「亜夜?」
 わずかな変化を見いだして、万里は問いかける。
「…………万――」
 ようやく声に出そうになったそのとき、亜夜は、部屋の外に聞き慣れた足音を耳にした。
 亜夜は口を噤む。
 いまはまだ――。
 ドアがノックされると、万里が立ちあがった。
「こんばんは」
 万里はドアを開けるなりそう云った。
「こんばんは、万里ちゃん。いろいろサンクス」
 亜夜は気づいた。万里が突然本題に触れた理由――聖央と示し合わせていたに違いなかった。
 そして、聖央の声のなかに聖央自身の限界を感じた。
「いいえ。あたし、外に出てるから」
「そんな必要は――」
「あるわよ」
 万里は励ますように笑みを浮かべ、ドアを閉めて外へ出ていった。
 聖央は少しためらったあと、ベッドに寄りかかっている亜夜の正面にあぐらを組んで座った。
「健朗からだ。聞いてくれってさ」
 投げだした亜夜の足の上にCDが置かれた。それから少しためらったような間が空いたあと、聖央は口を開いた。
「……予選、観てたか? 決めるって試合を落として悪かったな。次――六月で決める」
 観てはいないけれど、三日まえの試合で、W杯出場決定が持ち越しになったことは万里が話してくれた。
「亜夜、いまは何も応えなくていいから……聞いてくれるだけでいい」
 そう続けられても亜夜は顔が上げられなかった。
 ふたりの距離は離れていた間でさえ、あまりにも近すぎて、それゆえにふたりの傷は深く、何からどう伝えていいのか、適当な言葉が探しだせない。
 聖央は目を閉じた。
 そこには決心と祈りと、何より、幼い頃から抱えてきた強い想いとが絡み合う。
 そして、目を開け、聖央は静かに語りだした。

 おれ、サッカーが好きで、ガキの頃から天才だとかおだてられて、自分でもその気になって、サッカーこそが自分のやるべきもんだと信じた。
 けど亜夜を……おれがサッカーをやってるせいで、足を不自由にさせるような事故に巻きこんだ。
 おれは亜夜の右足になるんだって決めた。
 なんでもいい、できることをしてやろうって……入院してるときは勉強見てやることがそうだと思った。サッカーを捨てるとか、そういうことじゃなくて、ただ亜夜が普通に生活できるようにしてやりたかった。
 そんなふうに思ってるおれに気づいて、自分がおれの負担になると結論づけて、亜夜はおれを突き放したんだよな?
 原因がどこにあろうと、事故については責任を感じてる。それは否定しない。けどおれは、亜夜自身のことを責任だとか負担だとか、そんなふうに思ったこと、一度もねぇよ。
 毎日、病院に行くことも義務なんかじゃなかった。
 亜夜はサッカーをやめたら許さないと云う。
 サッカーがおれの一部だったことは確かだし、その道を突き進むしかなかった。
 最初の一年はサッカーに打ちこんだ。
 けど……いつも物足りない。チームの優勝に貢献しても、喜びも満足も無に近かった。プロとして一流と評されても満たされない。
 気持ちが動かない――。
 二年めは……最悪な状態でスタートした。
 好きなはずのサッカーをしていても虚しいだけで、集中すらできなくなった。
 おれはその理由を探し始めたんだ。
 サッカーをやるんだと決めたきっかけを思いだせたとき……。
 亜夜、ガキんとき、サッカーやってたおれを見て、おまえ、なんて云ったか憶えてるか?

 小学生の頃、昼休みになると、聖央は健朗たち同級生とよくサッカーをして遊んだ。亜夜は校庭の隅にあるブランコを揺らしながら、その楽しそうな風景を眺めた。
 ゴールを外れたボールが亜夜のところへ転がっていく。
 息を切らした聖央がボールを取りにいくと、亜夜は顔いっぱいでにっこりした。
『セーオー、サッカーボールがね、セーオーの足に当たると磁石みたいにくっついていくの。魔法見てるみたいで、あたし、とっても楽しくなるんだ。サッカーやってるときのセーオーって、とってもカッコいい』
『じゃあ、もっと上手になってやる! 見てろよ』

 成長していく未来にこんな試しの場があるとは思いもせず、あの頃は無邪気にただ互いを求めていた。

 おれ、気づいたんだ。
 サッカーをおれにとって意味のあるものにしてくれたのは亜夜なんだ。
 おれがサッカーしてると亜夜が楽しそうにしている。それがうれしかった。だから、もっと上手になりたい。自分がやるべきもんだって決めた。
 その亜夜がいない。
 どんなに権威ある大会でいくら功績を残しても、おれにとってはもうすべてが無意味なことになっていた。
 そんなことを忘れて有頂天になっていたおれは、亜夜の足から自由を奪った。
 守らなきゃいけなかった亜夜を、このおれ自身が傷つけた。自分自身に対する、その事態の重さを持て余して……そのつけは違う形で表れた。
 自分でも気づかないうちに、サポーターの応援が苦痛になっていて、恐怖さえ感じ始めた。それが加熱すればするほど……。
 おれは無意識に逃げていたんだ。亜夜の足を壊したのはこのサポーターたちのせいなんだって。
 亜夜のことは……ずっと見てた。拒絶されてからも……会えなかった間もずっと見てた。
 亜夜がいないとだめだってわかって、亜夜に頼る自分が情けなくて苛立ってるときにおまえがいた。
 あのとき怒ったのは、亜夜を見てほっとした自分の不甲斐なさに対してだ。その葛藤はもうとっくに消えてる。
 おれがどこにいようと、何をしようと、亜夜は当然、傍にいるもんだと高を括ってた。それは、おれのわがままだ。
 おれがいつか公園で云ったことは、いままでも、これからも、ずっと変わらない。

 聖央の告白は、亜夜を癒やすのに充分すぎるものだった。
 裏切ったのは聖央じゃない。聖央を信頼しきれなかったあたし自身だ。聖央に対する不信は、好きと伝えられなかった臆病なあたしのずるさだった。
 そうわかったのに、亜夜の想いは言葉にならない。
 そして、顔を上げようとした、ちょうどそのとき――。
 聖央の腕が亜夜の背中を掻き抱いた。
 ふざけたり意地悪したりというのではなく、亜夜ははじめてその想いをもって、強く聖央に抱きしめられた。
「まえのときのように……もう……亜夜を……」
 その腕からも伝わってくる、真摯な願い。
「失いたくない――」

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