失いたくない

第4章 オフサイド〜歪むライン  5.真実

 

 大学の期末試験が終わり、聖央に誘われるまま、亜夜はクラブにやってきた。
 去年の六月から始まった、W杯出場へ向けての長い最終予選もあと三試合で終わるという二月の初め、Jリーグは一カ月後に開幕を控えている。クラブ内の練習風景はいつもと変わりない。これから代表招集とリーグの遠征が重なるから、また聖央の帰宅はごく稀になってくる。
 会えない時間は少しだけ心細い。
 二年間のブランクに比べればほんのわずかな時間にすぎないけれど、それといまとは状況がまったく違う。
 毎日電話をすると約束した聖央は、以前と少しだけ違っていた。納得できないわがままであれば絶対に聞いてくれなかったのに、いまならきっとなんでも云うとおりにしてくれる。それは義務や責任などからではなく、純粋な気持ちだとわかる。聖央は亜夜のわがままを楽しんでいるのだ。
 聖央との時間を取り戻してほぼ一年、こんなふたりに帰れるとは想像だにしなかった。
 グラウンドでは聖央の声がしばしば駆け巡っている。それは薄情な世のなかを知るまえの姿と同じだ。監督に喰ってかかる聖央の姿が頼もしくて、亜夜はほっとするのと相まってうれしくなる。
「亜夜ちゃん、こんにちは」
 その声にすぐさま反応した亜夜の顔から笑みが消え去り、かわりにすべての感覚に緊張が走る。でき得るかぎりで素早く立ちあがった。
 逃げおおせるわけがないのに――無意識に内心でつぶやいた。
 どうしてあたしはこの人から逃げたがるの? 聖央がはっきりと態度を示したいまになっても。
 岬は亜夜の目のまえに立った。
「話があるの」
 岬の目は憎悪に満ちている。
 なぜ岬はこんな感情を亜夜に向けるのだろう。亜夜は何度、自分にそう問いかけてきたのか。
 三年まえは憎しみなどという感情は見えなかった。それともうまく隠されていただけだろうか。いずれにしても、その理由が欠片も見つからない。それほどの聖央への想いが岬のなかにある、ということ以外に。
「……岬さん……」
 亜夜は自分のふるえている声に驚いた。それと同時に高まっていく鼓動は、発作の前兆にほかならない。
 この人のせいで本当に発作が起きるの? そんなはずない。
 亜夜は落ち着こうと懸命になった。
「あなたはわたしと聖央の関係を邪魔してるの。何度も云ってるのに、甘えっぱなしのあなたを見てると気分が悪いわ。消えてよ。じゃないと、責任を感じてる聖央はいつまでたっても戻ってくることができないでしょう。わたしたちを自由にしてくれない?」
 岬は平然と嘘を吐いた。
「……岬さんが云うセーオーとの関係≠ネんてない……セーオーは嘘を吐く人じゃない」
「だから、それは責任感だって云ってるじゃない!」
 岬の口調はこれまでと打って変わってヒステリックだった。
 亜夜はその変貌に怯える。それでも首を振って岬の発言を否定した。
「わからない子ね。いいわ、これを見て!」
 出し抜けに、岬は胸もとからネックレスを外す。それを亜夜の目のまえに掲げた。
 ……それは――。
「わかった? 聖央がわたしにくれたものなの。これがどういうことかわかるでしょう?」
 亜夜が贈ったお守りとそっくりのネックレスだ。岬の嘘は形となってここにあった。それは同時に、聖央の真実≠証明していた。
 岬の言葉はすべて嘘で塗り固められたもの。岬の人間性は最低のレベルに位置する。亜夜はそう結論づけた。
 聖央がこの人を好きだとしても、こんな人にだけは渡したくない。渡せないっ。
「違います。セーオーのは、あたしがお守りとして贈ったんです」
 愚かな人、と亜夜は同情さえ感じた。こんなことをしていたら聖央の心が手に入るはずがない。
 真実の証明が亜夜を落ち着かせる。岬に向かって左手を差しだした。
「これは、セーオーが合格祝いにくれたものです」
 どちらも互いの成果を認め合った証し。それを――。
「セーオーが同じものを岬さんに贈るはずない。セーオーはそんなに無神経じゃない! あたし、セーオーが岬さんのことを好きなら、それはそれでいいってあきらめられた。でも、いまの岬さんを見てると、セーオーは渡せない! 岬さんみたいな人には絶対に譲らない!」
 岬の口もとが笑みに歪む。ただし、目は笑っていない。その視線がちらりとグラウンドに向けられた。
「――なるほどね。わたしの負けってわけだ」
 岬は云い捨てて、気味が悪いほどくすくすと笑いながら立ち去った。
 ……勝つとか負けるとか、これはそういう問題だったの?
 岬の嘘は見抜けたのに、意図は読めなかった。岬がまだ何かを企んでいるような気がするのは、笑わない目のせいだ。畏怖がまた心に集う。
「亜夜!」
 聖央の声に亜夜は振り向いた。聖央がグラウンドを蹴って客席におり立つ。岬の存在が発作を招きそうになると知っていた聖央の、その表情は険しい。
「あの女、何しにきたんだ!?」
「わかんない」
 亜夜はほっとして、聖央のほうへと階段をおりていく。
 そのとき背後が俄に騒々しくなった。とたん――。
「亜夜っ」
 聖央は切羽つまったように叫んで、振り返る亜夜を止めようとした。が、制するには間に合わなかった。
 亜夜の視界に、まず押し寄せるカメラマンたちが見えた。後方で、嘲笑う岬の姿が見え隠れしている。そのふたつの映像は、亜夜が発作を起こすための充分条件だった。
「田中さん!」
 聖央はそう叫びながら、亜夜に駆け寄っていく。
 亜夜は足がすくんで一歩も動けなかった。
 ひと塊りとなって記者たちが向かってくるのを呆然と見ているしかなく、呼吸が思うようにできず、鼓動は信じられないほど大きく早くなった。
「弥永くんが交際してるってのは君?」
「どこで知り合ったの?」
 無遠慮に差し向けられるマイクを、亜夜は避けることすらできない。
 蒼白な顔をして亜夜の躰が揺れる。倒れる瞬間、聖央が間に合って亜夜の躰を支えた。亜夜はパニックに陥りながらもその腕の主だけはしっかりと認識する。両手を口もとに持っていき、無意識のうちにも発作を止めようとおまじないを唱えた。
 思いがけなく本人の登場を目のまえにして、記者たちも戸惑う。それは一瞬のことで、間近にしたふたりの構図から情報に確信を持った記者たちは再びマイクを向けた。
 聖央はかばうように亜夜を抱く。防衛のためには、さきに攻撃を仕掛けるしかなかった。
「あんたら、こいつを死なせたいのかよ! この状態見てわかるだろっ。この足をこんなにしたのはあんたらが持ってる、そのカメラなんだ。忘れたとは云わせない! 頼むから下げてくれよっ」
 亜夜に負けないくらい蒼白になりながら、聖央は怒鳴った。
 亜夜は聖央の腕のなかで、傍目からもはっきり見てとれるほど苦しそうに肩で息をしている。
 ふたりの様子に――もしくは聖央の懇願とも取れる口調に、仕事に徹した取材陣も良心ある人らしく、困惑した表情を浮かべて手をおろした。
「なんで……こんな取材が……おれは、サッカーやってる……って……だけだろ……」
 聖央が亜夜にしかわからない程度のかすれた声でつぶやいた。
 忘れようとしていた傷みが溢れだす。
「あなた方はいったいだれの許可を得て、ここで撮影しているんですか! スタジアム内では広報を通していただくように通達しているはずです。すぐに出ていっていただきたい!」
 田中の抗議に取材人たちは渋々と引きさがった。そのなかの一人が自分たちの正当性を訴える。
「府東テレビの岬さんですよ、僕らをここに寄越したのは。ブレイズの弥永くんのスクープ取れるって……」
 ふたりとも息が詰まるような気がした。
 取材陣が退去したあと、岬だけが残った。帰り際に記者たちが彼女の脇を通りつつ罵っても、何事もなかったように冷めた目で平然としていた。

 

「あんたはなんだって、亜夜をこんな目に遭わせるんだ? 亜夜があんたに何をしたっていうんだ!」
 亜夜を抱えたまま、聖央の怒りが一気に岬へ放たれた。
「わたしはただ亜夜ちゃんに教えてあげたかっただけよ。幼なじみって関係がどんなに当てにならないものか、ということをね。聖央のあとを追ってる亜夜ちゃんをかわいそうだと思ったわ。だから、別の道を探しなさいって忠告してあげたの。なのに無視するから……」
 岬は言葉尻を濁した。
 聖央はそのニュアンスを正確に読みとる。
「あんたは……知ってるのか? 知ったうえで……」
 まさか――。
 それが信じられなくて――というよりは信じたくなくて、聖央の言葉は途切れた。
 こんな現実がまかりとおることなど信じたくない。子供から大人へと成長する過程で、いったいどれだけの傷みを抱えたら、ふたりは傷つかなくてすむようになるのだろう。
「死ぬわけじゃないでしょう?」
 岬はその言葉の持つ重みとは裏腹に、笑みを宿した。そして、さらに残酷に云い放つ。
「いくらでも教訓を与えてあげるわ。それとも……死ねたほうがラクかしら」
 なんの道理もない、ただの悪意だった。
 亜夜はこれまでに受けたことがないほど、酷なショックと傷みを覚えた。
 聖央の躰ははじめて経験する、殺意に似た憤りにふるえる。ただ、自分の腕をつかんでいる亜夜の手に力が込められると、これ以上、岬の口からどんな言葉も引きだしてはならないと気づいた。
「おれと亜夜のことは、あんたの知ったこっちゃねぇよ。将来どうなろうが、それはおれと亜夜が決めることで――学んでいくことであって、あんたに教えてもらう謂われも必要もない」
 聖央は冷静に云いきった。
「聖央にはわからないのよ。結局、傷つくのは亜夜ちゃんのほうだもの。男には一生わからないことよ」
 亜夜はその静かすぎる声に顔を上げ、岬を見た。その目にある敵意が、いまは聖央に向けられている。
「いったいあんたは何が云いたいんだ」
 岬は答えない。
「云いづらいんなら、僕がかわりに云ってやろうか」
 吐き捨てるように口を挟んだのは健朗だった。
 岬はハッと後ろを振り向き、訝るような面持ちで健朗を認めた。健朗が思わせぶりに顎を突きだすと、自分の過去がすべて知られていると察した岬は蒼ざめていった。
「健朗くんには……関係のないことよ」
「冗談じゃない。関係ないのはあんたのほうだ。聖央と亜夜ちゃんとは長く付き合ってきたわけで、僕にはふたりを守る権利があるんだよ」
 これまで亜夜が見たことがないほどの冷たい表情で、健朗は荒々しく云い放った。
 健朗は岬の事実を暴いていった。

 

 岬にも二つ年上の幼なじみがいた。
 六年まえ、その彼に親しい女の子ができて、やがてその子は恋人となった。幼なじみのことを自分のものだと信じて安心しきっていた岬は、その意味が妹でしかないと気づく。
 岬は納得などできなかった。そのまま引きさがることができないほどの、長い想いだった。ただ、引きとめたかった。
 けれど、遅すぎた告白を彼が取り合ってくれるはずもなかった。
 何もかも消してしまいたかった。彼も彼女も、過去も現在も、そして、真っ先に未来のない自分を。
 自殺という方法を選択した岬。彼はその連絡を受けて、いったんは岬の傍に戻った。それが実は偶然のケガを利用した狂言でしかないとばれて、今度こそ彼の心をなくしてしまう。
 虚ろを憎しみが侵していく。岬は突き動かされるように、ふたりへの嫌がらせを繰り返した。
 それは、唐突に終わりを告げる。彼の仕事上の転勤が幸いし、ふたりは海外へと渡ったのだ。
 標的をなくした 岬は、聖央と亜夜に出会った。
 岬のなかに芽生えたもの――それは、亜夜と聖央のふたりには要因のない悪意にほかならない。

 

「あんたがしてきたことは、まさに狂気だ。狂ってるとしか云い様がない」
 健朗が告げた事実に、亜夜も聖央も絶句してしまう。
「そんなこと嘘よ。狂言じゃなかった」
 健朗は首を振って岬の訴えを否定した。
「僕は自分で片っ端から調べてったんだよ。この世のなか、金で動く奴は腐るほどいる。うれしいことだよ、な?」
 健朗は皮肉った。
「それに、だ。あんたのケガが、自殺未遂だろうと狂言だろうと、僕らの知ったこっちゃない。あんた、最低だよ。全うな人間がやることじゃない」
「岬さん、あなたには担当を降りてもらいますよ」
 取材陣を追い払ってきた田中が健朗の言葉に重ねるように追い討ちをかけ、出入り禁止を云い渡した。
 亜夜を抱く聖央の腕がぐっと躰を締めつける。
「理由がどこにあろうが……おれたちに向けたあんたの仕打ちは事実、罪だ。徹底的に排除してやる。それにひとつ――」
 聖央はその瞳に揺るぎない意志を宿す。
「あんたは重大な計算ミスをしてるよ。おれはおれ≠セ。あんたの幼なじみとは違う」
 その違いはわかるだろう?
 聖央は暗に含めた。
 岬の目から強固な姿勢が欠ける。
 聖央はその顔にいちだんと冷酷さを重ねた。
「あんたが男だったら殴り倒してたぜっ!」
 聖央の怒号はスタジアム中に響き渡るほどだった。
 岬は萎縮したように蒼白になって立ちすくんでいる。そうなりながらも彼女はかりそめの威勢を保ち、口を開いた。
「降ろされることは覚悟のうえよ。聖央がそうしたがっていることを知っていたから。あなたたちのまえには二度と現れないわよ。おもしろい見物だったわね」
 三人とも感情を抑制しようと必死にさせられた。
 岬は身をひるがえして出口へ向かう。と、消える寸前、彼女が振り向いた。
 亜夜はその姿に、またしても紛れもない悪意を見てとった。
「あ、そうだ。もうひとつ云い忘れたことがあるわ」
 岬は小気味よくもったいぶり、嫌らしいまでの笑みを投げる。
 亜夜は瞳を逸らしたいのに、離せないでいた。心は聞くなと訴えているのに、耳をふさぐことができなかった。
「あの事故の日のこと――あれは仕事じゃなかったの。亜夜ちゃんの誕生日だと知って、邪魔しただけ。この上なく好都合だったのは、偶然の事故で取材はボツになったって云い訳ができたことかしら。わたしはあくまでプライヴェートだった。聖央がどうだったのかは知らないけど?」
 もうやめてくれ。何も聞くな。
 聖央は強く目を閉じて切に懇願し、亜夜にまわした手に力を込める。
 岬は捨てゼリフを残して消えた。
 こんな目に遭うほど、いったいどんな理由があって導かれたのだろう。いまや何が事実で、何を信頼していいのか、亜夜は混乱していた。
 あのとき――メディアは真実を取りあげてくれないと思っていたのに、彼らのほうが真実を語っていたなんて。
 逸早く立ち直った田中が、「上層部に話してくる」と立ち去った。
 それがあとの三人を現実に戻す。
 自分のばかさかげんに呆れ果て、涙すら出てこない。亜夜は余りある苦痛を受けていた。それは聖央も同じだったかもしれない。けれど、そんなことにかまっていられないほど、亜夜の傷は深いものになった。
『いちばん傷ついたのは亜夜だよ』
 万里が云ったとおり、いまはそう主張したい。
「あたし……みんなが思ってるようないい子≠ネんかじゃない」
 亜夜は聖央の腕から抜けだした。
 文字どおり、そうなったのだ――と、聖央は絶望すら感じる。
「亜夜……」
「亜夜ちゃん」
 聖央と健朗が同時に呼びかけた。
 けれど、亜夜には届かない。
「あたし……こうなったのは岬さんのせいだと思った。でもそう思うのは……人のせいにするのもすごくつらくて……自分が悪かった、運が悪かったって云い聞かせて……。だって……あたしがわがまま云わなかったら、あの瞬間にあの場所にいることはなかった。あたしはちゃんとそう納得した。セーオーの時間はあたしのせいで犠牲になってたから、そうしちゃいけないって……セーオーと離れた。でも、それでも……セーオーは苦しんでたし、このままじゃいけないって仲直りして……やっと事故のこと、なんでもないことにできたのに……」
 亜夜は痞えながら、つぶやくように云った。だれに向けていいかわからない憎しみに占領されそうだった。
「でも、もうだめだよ。事故のときから、あたしの時間はみんな嘘だった。あの日、あのひとがセーオーを連れださなかったら、あたしの足はこんなにならなかった。あたし、ほんとバカだ。こんな足なんていらないっ」
 その叫びはすべて聖央へ向かった。
 そのとき亜夜は思う。
 あたしは聖央を憎んでいるのかもしれない。
「亜夜、おまえの足を壊したのはおれだ。そうだよな」
 質問ではなく確認だった。
 あの日、聖央にとっては、けっしてプライヴェートではなかった。けれど、それは云い訳にならない。云い訳にはしたくない。
 聖央は声からも表情からも、完璧に感情を隠していた。
 亜夜は否定できなかった。
 あの日……聖央があんな人を選んだから――。
 亜夜の心のどこかに聖央を責める自分がいた。
 亜夜の無言の批難を、聖央は察し、黙って受けた。

 

 ねぇ、聖央。あたしはずっと信じてた。聖央のことをずっと信じてた。たぶん、生まれたときからずっと……あの日までは……それは確かだよ。でも……。
 あたしは……あの日、聖央に……裏切られたんだ。

 

 どうにもならない沈黙を、いまはどうしようにも見いだせない健朗が破る。
「亜夜ちゃん、今日はこれで帰りましょう。送ります。聖央、練習に戻ってください。あとでまた来ます」
 健朗に背を押されて、亜夜はようやく歩きだす。
 この三年、なんだったのだろう。
 憎しみと入れ替わりに、虚無が満ちた。

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