失いたくない

第4章 オフサイド〜歪むライン  4.幼なじみ

 

 FATEに会いにいくと、顔を見せる程度ではすまなくなり、打ち上げの席まで参加することになった。前回と同様、ライヴを終えたばかりのFATEはだれもが陽気だった。
 聖央も、少なくとも高校まではサッカーの試合で勝利するたびに、これくらいハイテンションでチームメイトと一緒に騒いでいた。プロになってからは感情を伏せてしまっている。
 いま目のまえには、公衆の場で見せることのない、リラックスした聖央がいる。FATEのなかに溶けこんで、会話を楽しんでいるのは明らかだ。懇意にしている仲間内では、屈託のない笑顔を惜しみなく見せてくれる。
 仲直りしようとしたはじめの頃はそれさえも危うかったけれど。
「男の人ってすごいよね。会ったばかりなのに、気が合うと、ずっと友だちだったみたいに話しこんでる」
 いつの間にかその輪のなかで仲間≠ノなっている小野を見て、亜夜は云った。
「年の差なんて関係ないみたいだし」
 万里がすかさず同意した。
「夢中になるものがあれば、女の子はすぐに蚊帳の外に置かれちゃう」
 突然、そう云って話に加わってきたのは、FATEのドラマー、(わたる)のカノジョである実那都(みなと)だった。
「でも、それを指を咥えて見てるだけじゃ癪だし、あたしたちも同盟をつくりましょう」
 実那都はふたりにジュースを手渡した。
「そうですよね」
「じゃあ、その発起を祝して乾杯しよ!」
 それからしばらく、三人はそれぞれの身のうえを語り合った。
 実那都は、デビューまえのマネージャーだった女性以外でFATEに女の子が出入りするのははじめてのことだと云って、亜夜と万里の参加を歓迎した。彼ら自身がそういうのを嫌っていて、そのうえで、打ちあげの場に招かれたふたりにはいつでもどうぞ≠ニいう権限がある、とお墨つきをもらった。それ以前の問題として、一度でも特定じゃない女の子の出入りを許せば、とんでもなく収拾がつかなくなるだろうことは容易に想像できる。
 亜夜と万里が、浅いながらもFATEの歴史をひとしきり聞きだしたあと、実那都は航のもとへ戻った。
 実那都と航から感じられる雰囲気は自然で、だれが見てもうらやましく映るだろう。『自分は音楽の次だから』と少しさみしそうに見えた実那都だったが、彼女が傍に行ったとたんにちらりと見下ろす航のしぐさを見れば、大事にされているのは一目瞭然だ。
「亜夜と聖央くんも、あんなふうに見えるんだよ」
 亜夜の羨望の眼差しを追って、鋭く理由を察した万里が云った。
「……そう?」
 亜夜は自信なさそうにつぶやいた。
「そうです!」
 万里がふざけつつ云いきったところへ、健朗がやってきた。
「最近、聖央は元気がないように見てたんですが、そうでもないですね」
 談笑している聖央に目をやりながら、健朗は解せない様子だ。
「それはきっと、誤解が解けた、からに違いないでしょう」
 亜夜が応じるまえに万里が口を出して、一部分を強調した。亜夜には意外すぎる発言で、驚きながらも考えてみた。
 聖央の調子がよくなかったのは、誤解していたせい? 聖央は誤解≠望んでいなかった? それなら本当に、あのひとは聖央にとってなんでもないもの?
「誤解、って?」
 健朗が訊いても説明を渋っている亜夜に変わり、万里が経緯を話した。岬の名が出ると、健朗は険しい表情になり、腕を組んで少しの間、押し黙った。
「……まったく。聖央は何をしてるんでしょうね」
「おれが、どうしたって?」
 聖央がいつの間にかやってきて、背後から健朗の肩に手をまわした。健朗は顔をしかめて聖央を見返した。
「岬さんのことですよ」
 聖央までもがしかめ面になって、不機嫌な健朗の肩から手を離した。
「……それはなんとかする」
 聖央は硬い声で返事をした。
「そうすべきですよ。亜夜ちゃんのことを守るつもりなら。ただし、行動は慎重に。聞いたところによれば、彼女は普通じゃない。僕自身の見解でも」
「わかってるさ。広報に打診はしてる。ただ無理を押せるわけじゃねぇし、結論がまだ出てないんだ」
 亜夜はぱっと聖央を見上げた。すでに行動を起こしているとは思いもしなかった。
 聖央がほのめかしたことがそうならば、聖央のなかに岬は存在すらないということ? そのうえで、聖央の本心は果たしてどこにあるのだろう。
 亜夜自身に、それとも聖央が自分自身に課した拘束に?
「僕の心配は無用だったようですね」
 健朗は聖央の自覚を知って、ようやく安堵して微笑んだ。対して聖央は口を歪めた。
「自分の心配は自分だけで充分だ」
 そして、「けど、今回はオーナーの力を借りるかもしれない」と聖央は真顔で続けた。
「……お気に入りの聖央の頼みとあっては、父も断れないでしょう」
 健朗は少し目を見開いたあと、軽く受け合った。
 健朗が戸惑うのもあたりまえだ。聖央は人の力を借りることを、何よりも嫌っている。
 そんなプライドを無視してまで……。
「よかったね」
 万里が亜夜の腕に手をかけて囁いた。
 違うんだよ、万里。聖央はあたし≠ェ嫌な思いしてるから、それをどうにかしてやらないとって思ってるだけなんだよ。
 聖央の頭痛の種をまた増やした。
 それだけが事実。
 亜夜がいなかったら聖央は、煩わしいことも、性格からしてするはずのない不本意なことも、きっとやらなくてよかった。

 

「田中さん、あれ、やっぱり無理ですか」
 練習中、グラウンドに顔を見せた広報部の田中をつかまえて、聖央は訊ねた。
「そうだな。いまのところ、うちが迷惑を受けたという事実はないし、下手にやって局と揉めるのもどうかと思うし……。担当をかえたくなるほど、岬さんと何かあったのか?」
 聖央は表情をあからさまに陰らせた。
 田中は内心、その表情の動きに驚いていた。何せ、これまで聖央が感情を表に出すことはなかったといってもいい。
「いえ。おれにじゃないけど、サポーターにタチの悪いことをやってるんで……。オーナーに出てきてもらったら、やっぱりまずいですか」
 田中はだれのことを指しているのかぴんときたが、聖央の頼みには難色を示した。
「できるなら、おれも穏便にすませたいんです。けど、あまり呑気にかまえていられるような状況じゃねぇから……」
 聖央はわずかに語気を荒くして、なんとか喰いさがった。
「……おまえがそこまで必死だとはな。よっぽど、そのサポーターが大事ってわけだ」
 聖央はつかの間、視線をスタンドにさまよわせて、片方の口の端を上げた。
 田中はそれを肯定のしるしと受けとった。二年あまり、聖央と付き合ってきたわけだが、やる気があるのかないのか、どっちつかずのプレイを見せていた聖央に、最近は見違えるように覇気が出てきた。サポーターに対する態度は頭の痛いものだったが、徐々に改善されつつある。
 そうした歓迎すべき影響があの無二のサポーター≠フ存在に因ることは、ブレイズ内では周知の事実となっていた。それらの変化が、チームメイトの眼差しをやっかみから羨望へと変えている。この上向きの状態を保つためにも、聖央の意見を聞き入れてやりたいところだが。
「わかった。とにかく、岬さんのことは粗捜しをやってみる。それまでもう少し我慢してくれ」
「すみません。わがまま云って」
 聖央は頭を下げ、練習に戻ろうと躰の向きを変えた。
 と、目の隅にだれかを捉えた。それが岬だと認識し、思いがけないほど近くにいる彼女にハッとする。
「こんにちは」
 岬は笑顔で口を開き、いつもとなんら変わりない。
「……岬さん。今日は早かったですね」
 田中は驚いたにも関わらず、普段を装って応対した。聖央もうなずいて挨拶に応じ、あとは田中に任せた。
 彼女は――。

 

 聖央は亜夜の部屋にそっと入った。ベッドのなかの亜夜がまだ眠っていることを確認すると、そっと笑みを漏らした。
 かがみこんで亜夜の鼻をつまみ、耳もとで心持ち叫ぶ。
「おいっ、遅刻だぞ!」
 亜夜はぱちりと目を開け、いったん閉じて目を擦り、そして、真上にある顔に焦点を合わせた。
「セーオー……なの……? 心臓、止まるかと思った……」
 起きぬけであることと驚いたせいで、亜夜は気が抜けたような声でため息とともにつぶやいた。
「いつもおれにやってることだろ。たまには仕返ししないと気がすまねぇよな」
 再び亜夜の鼻をつまみながら、聖央は笑う。
「意地悪」
 亜夜は聖央の手を借りて起きあがった。
「今日はドライヴ連れてっちゃる」
「でも講義あるし……」
「へぇー。おまえの大学、日曜も講義やってんの?」
 聖央はわざと感心したふりをした。
 亜夜はカレンダーと時計の日付を見比べると、不機嫌な顔になった。
「さっき、遅刻だって云わなかった?」
「云った」
 亜夜はすまして云ってのけた聖央を睨み、拳で聖央の胸を叩いた。
「イテッ」
 避けられたはずなのに、聖央はそうせずに受けとめた。何事に関してもそうだ。
 聖央は信頼に値する。
 なのに――。

 

 聖央は亜夜を連れて、海浜公園へ車を乗り入れた。
 海岸に沿ってアスファルトで塗り固められた道は歩きやすく、六月を直前に控えてすごしやすい気温のなか、海風が躰に纏わりついて心地いい。午前も早いせいか、まだ人はまばらでゆっくりできた。
 聖央の腕につかまって散歩をしながら、亜夜は独りそっと笑う。足が悪いのは、聖央に触れていられるためのいい口実となっていた。もっとも、そうなる以前も腕を組んだり、そうできないときは服の裾をつかんだりして、無理やり亜夜はくっついていた。
「W杯のアジア最終予選。たぶん招集が続くと思う」
 聖央がビッグニュースを告げた。まもなく最終予選は始まる。
「すごーい。セーオー出るんなら、W杯出場も夢じゃないよね」
 亜夜がはしゃぐと、聖央は可笑しそうに短く吹いた。
「おれ独りでどうこうなるもんじゃねぇよ」
 謙遜しながらも、聖央は当然のようにそのつもりの顔をしている。
「これまで以上に家にいる時間が少ないと思う」
 亜夜の表情が少し曇る。が、すぐにそれを押し隠して聖央を激励した。
「さみしいけど、W杯に行けるんだったらあたしもうれしい。サッカー選手の夢だもんね」
 聖央が突然立ち止まり、亜夜もそうした。
 聖央は焦げ茶色のサングラスを外して、亜夜と向き合った。その瞳はとても真剣な光を放っていて、亜夜は問うようにほんのわずか首をかしげた。
「亜夜」
 その声は少し緊張して届いた。亜夜は戸惑いつつも、聖央の態度に応えて真面目に見返す。
「うん」
「おまえ、おれに対してかまえるようになったよな。まえはうるさいくらいなんでも話してたのに……亜夜が相談する相手は、もうおれじゃなくなってる」
 亜夜は指摘されてはじめてそう気がついた。
 聖央に迷惑をかけてはいけないという誓いは、聖央に対しての素直な感情を押し殺してしまっている。それは必然的に相談相手を変えた。いまは、万里と健朗と小野が亜夜の逃げ場所だ。
 亜夜はどう答えていいのかまごつく。
 聖央がその様子を見て、ため息まがいの笑みを漏らした。
「たぶんおれたちふたりとも、微妙に変わったんだ。いまもそれは進行してるんだと思う。けどさ……どんなふうに変わるとしても、おれ、まえのわがままな亜夜を取り戻したい。おれのあとをいつもくっついてきた亜夜を取り戻してぇよ。あの日……わがまま云うなっつって、あんな目に遭わせて……いまになってなんだって思うだろうけど……」
 聖央は躰を折り、亜夜の肩に顔を伏せた。
「頼むよ……おれ、さみしいんだ――」
 聖央が切実につぶやいた。
 亜夜はこのときはじめて、聖央も自分を必要としていることを知った。渦巻いていた疑惑が消えて、そう信じられた。それが幼なじみの立場に留まったとしても、この聖央の気持ちがずっと変わらないのだとしたら、それでもいいと思えた。
 亜夜は聖央の首に手を巻きつけた。
「そんなこと云ったら、背後霊みたいに一生くっついてまわるよ。払っても払っても、追い払えないかもしれないよ」
 亜夜の肩が聖央の笑みで揺れる。
「それくらい、覚悟してる」
「じゃあ、外泊のときは毎日電話して」
「ああ」
「戻ってこれるんだったら、ちゃんと帰ってきて」
「オーケー」
「W杯、絶対に行けるようにして。あたしも行きたい」
「それは……」
 聖央が顔を上げた。
「約束できねぇよ。サッカーはおれの力だけじゃどうしようもないだろ」
 亜夜は手を伸ばして、しわが寄った聖央の眉間を人差し指で撫でる。
「そんな云い訳は聞こえない。行けなかったら豪華客船世界一周の旅≠セからね。もちろんファーストクラスで。お金ない、なんて云わせない」
「バーカ。ガキが何を云ってんだか」
 聖央に頭を小突かれそうになったので、その腕を絡めとった。
「二つしか違わない!」
「亜夜とおれの二年は、精神的に云うなら実質五倍の差はあるぜ」
「そんなことないよっ」
 だんだんと本題を逸れて、他愛ない口論になっていく。それは本来のふたりの姿に違いない。
「似たような人たちがいると思ったら、やっぱり聖央と亜夜ちゃんだった。こんにちは」
 その声に飛びあがるほどびっくりした亜夜は、無意識のうちに聖央の背後に隠れぎみになった。怖々としながら見やると、いつからいたのか、はたまた来たばかりなのか、すぐさきに岬がいた。
「有名人がこんなところで女の子といたら、フラッシュたかれるかもよ」
「こそこそする気はねぇよ」
 聖央は驚くほど冷たく吐き捨てた。
 岬はそれに動じることなく、微笑む余裕さえ見せた。
「そうね。亜夜ちゃんは幼なじみだし、小野さんだったかしら、すてきなカレもいる身だから関係ないわね。でも亜夜ちゃん、聖央とこんなに仲いいところを見せたら、カレも疑うんじゃない?」
 亜夜は答えようがなく、聖央を窺うように見上げた。
「それは、あなたから亜夜を守るための、彼の嘘だから問題ない」
 聖央が真実を知っていると判明したところで、岬の態度が改まることはなかった。
「云ってることがよくわからないけど、とにかくジョークだったわけね」
 困惑した素振りで聖央を見やり、岬は動揺も見せずに軽く肩をすくめた。その視線が亜夜に移る。
 聖央は無意識で、亜夜をかばって躰をずらした。
 それを見た岬の目が、気のせいかと思うほどの刹那、不穏に光る。
「じゃ、仕事中だから失礼するわね。これでも忙しいのよ、いろいろとね」
 一方的にそれだけを云い残して、岬は踵を返した。
「大丈夫だ。岬さんのことはどうにかする」
 聖央は自分のシャツを握りしめている亜夜に気づいて力強く受け合った。
 けれど、あの平静さが逆に消しようのない不安を亜夜にもたらす。
 岬は一風変わった近未来的な建物のなかへ消えた。
「……そこが府東テレビだってこと、忘れてたな」
 そびえ立つ建物を見渡して、聖央がぽつりとつぶやいた。
 自分が興味を持ったことにはとことん関心を示すけれど、どうでもいいことには見向きもしない。その無頓着さを亜夜は笑った。
 どっちがガキなんだか……。
「何独りで笑ってんだよ」
「セーオーらしいなって思って」
「それは褒め言葉として取っとく」
「得な性格してんね」
「それも褒め言葉だな」
「セーオー」
 亜夜は呼びかけるだけで口を閉じた。
 ふいにためらいを見せた亜夜を見下ろして、聖央は首をひねった。
「なんだよ」
「うん。……待っててって何?」
「……なんのことだよ?」
「岬さんに、待っててくれって云ってた」
 怪訝にしていた聖央はしかめた顔のまま考えこんだ。待っていると、やがて横に逸れていた視線が亜夜に戻った。
「取材の件か?」
「取材?」
「ああ。長期取材、W杯のこともあるし、また再開してほしいって府東テレビから申し入れがあってる。それしか思いつかねぇけど、それがなんだよ」
 そんな単純な答えがあるとはまったく思いもつかなくて、無造作な声にそう聞かされたとたん、亜夜は吹きだすように笑った。
 聖央は呆れたように首を横に振った――と、ふと聖央の表情が止まった。
 なんだろう。亜夜はその瞳を追ってみた。
 そこ――砂浜には中学生くらいに見える男女がいた。ふざけ合い、砂に足を取られつつも彼女が笑いながら彼を追いかけていた。
 それは数年まえの自分たちを思い起こさせる。
 もうあんなふうに聖央を追いかけることはできない。
 亜夜はあらためて現実を思い知らされる。
 たぶん聖央も……。
「ねぇ、おなかすいた。あたし、ステーキが食べたいな。フルコース!」
 亜夜は聖央の腕を強く引いて、覗きこむようにねだった。
 聖央は遡っていた時間を現実に戻す。
「真っ昼間っからそんなもん、よく食うな」
 聖央は呆れ返る。
「いいじゃない」
 亜夜は笑って、右足を引きながら聖央の腕を引き、先立って進む。
 聖央はつかの間、その横顔を追う。
 あんなふうに自分を追いかけて走る、無邪気な亜夜の姿は二度と見られない。
 おれが壊した――。

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