失いたくない

第4章 オフサイド〜歪むライン  3.誤解

 

「十四日は大丈夫?」
「もちろん! すごく楽しみにしてる」
 FATEのデビューライヴへ行けるか、亜夜が確認の電話を入れると、万里は勢いよく返事した。
「すっごくカッコいいんだよ。だからって失神されたら困るけど」
「聖央くんを見慣れてる亜夜がそう云うんだから、いい男ばっかりなんだろうね。ホントに楽しみ!」
 万里の浮き浮きした声はハートマークが飛び交っているみたいだ。
「あたしが云ってるのは、バンドとしてってことのほうだけど」
「とにかく期待してていいってことでしょ。小野先生に無理やりにでも連れてってもらうからね」
 これまで、小野は万里の強引さを逃避できたためしがない。その光景を脳裡に描いて亜夜は笑った。
「ところでさ、聖央くんの誤解はちゃんと解いた?」
「……それは……えーっと……そのままにしてる。本当のことは云ってない」
「え――――っ」
 万里の叫び声はあまりにすさまじく、亜夜は思わず携帯電話を遠ざけた。
「何よ、それっ!?」
 問いかけるというよりは責めた声が届いて、亜夜は携帯電話を耳もとに戻した。
「いろいろ考えてたら、誤解されてるままがいいかなって」
「だから、なんでよ」
「セーオーには……あたしのことを除外して、自分が望むとおりの道を選んでほしいから。そのチャンスだと思う。あたしのことでもうセーオーを振りまわしたくない。それに、誤解を解くにはそうなった理由を云わなきゃいけないじゃない? 岬さんのことを告げ口するような真似はしたくない。もういまのままがいいの。幼なじみってだけでいい」
 万里は黙りこんだ。亜夜の意見が正しいとはけっして思わない。けれど、そういう選択に至った経過は理解できる。
「あたし、あのひとが怖いんだ。なぜか発作が起きそうになる。自分でもいろんなことで臆病だと思う。でも、どうしてもあの事故とあのひとが結びついてしまうの」
 万里はあきらめたのか、ため息をついた。
「じゃ、しばらく様子を見ることにする」
「ありがと」
「あたしはべつに何もしてないわよ」
「小野先生を貸してくれたじゃない」
「……何云ってんの」
 万里は俄に焦りだした。電話の向こうでは、顔を赤くして長い前髪を掻きあげているはず。そんな彼女の癖を想像しながら、亜夜はくすっと笑みを漏らした。
「知らないとでも思ってるの? あたしに隠し事するなんて百年早いよ」
「なんのことよ」
 万里は悪あがきをした。
「小野先生を追う万里の瞳と、セーオーを追うあたしの瞳はきっと同じだね」
「…………あーもう!」
 万里はそう嘆いて、直後にはくすくすと笑いだした。
「そっかぁ……亜夜とは一緒にいたからなぁ。じゃあね、どっちの想いが早く成就するか、競争しない?」
「だめだよ。あたしのは叶わないから」
「バカねぇ。亜夜のほうが絶対、分がいいんだよ」
「単純明快な人生などあり得ません!」
 亜夜は威張りくさって宣言した。
「ぷっ。確かに、ね。人生には行き止まりがいくつもあるから」
 万里は事実と認めざるを得ない真理をさらりと云ってのけた。
 亜夜もいま、八方ふさがりの窮地に追いつめられている気分だった。
 目のまえにある目標は聖央との賭けに勝つこと。負けられない。自分のわがままをきいてもらうために。それが叶えば、自分の未来はノスタルジアで終わるかもしれない。
 それでも――。

 

 聖央は公園の駐車場へと車を滑らせた。天気がいいせいか、駐車場は広く設けてあるものの、多くの車で埋め尽くされようとしている。
「聖央くん、腕を貸してね」
 車を降りるなり、万里は強引に聖央の腕を取ると、先立って行った。
 万里?
 亜夜は怪訝そうに眉をひそめてふたりの背中を見送った。
 ふと、聖央が振り向いた。つかの間、ふたりの瞳が絡み合ったけれど、すぐに聖央はまた背を向けてしまった。
「僕たちも行こうか」
 必然的に、亜夜は小野と連れ立っていく。
 駐車場から公園内へ続く道は両脇に背の高い木が植えてあり、太陽の光で新緑が眩いほどだ。木々の間を通り抜けてくる風は心地いい。そんな気配をもってしても、亜夜の心中はざわついている。
「中田、弥永くんは誤解したままだって?」
 そう切りだされて、万里が聖央を引き連れていった理由に思い至った。
「……うん。ごめんなさい」
「僕はいいけどさ。このままじゃ、中田のためにも弥永くんのためにもよくないと思う」
 亜夜は足を止めて小野を見上げた。
「……云うつもり?」
 小野がきっぱりとうなずくと、亜夜は思いあぐねた。
「……でも……じゃあ、岬さんのことも?」
「そうだ。中田の云うことは理解できる。けどそれは、弥永くんが望んでいることだろうか」
「そんなの……わかんないよ」
「弥永くんに確かめてみろよ」
「セーオーは、望んでないって云うに決まってる。義務を感じてるんだよ」
「彼は義務なんかとは縁遠くみえるけどな」
「そうだよ。セーオーはそういうのに左右されない。あたしのことは……特別なの」
 小野はふっと短く吐息を漏らすと、小さく笑みを浮かべた。
「そうわかってるなら、なおさらのこと、弥永くんに知ってもらうべきだと思わないか? 中田が頼るのは僕じゃない。中田のことを岬さんから守るのも僕じゃない。それに、誤解は人生を狂わせるよ。そのさきには後悔しかない」
「…………」
 立ち止まったまま考えこんでいると、小野が亜夜の背を押して、聖央と万里のあとを追った。
「最近、弥永くんの調子がよくないと思わないか?」
 突然の話題転換に亜夜は戸惑う。
 確かに、ここ最近のゲームを見ていると、聖央のプレイは荒っぽく、集中力に欠けているように感じる。
「それと……このことと、何か関係があるの?」
 小野が亜夜を見下ろして笑った。というより、この場合は吹きだした≠セ。
「さあな。弥永くんに訊いてみるといい。彼が答えるとは思えないけど」
 自分が話題を振ったわりには無責任すぎる補足だ。亜夜は文句を云いたげに小野を睨み返した。
「とにかく事実ははっきりと云うから、そのつもりで。それから中田、おまえはもっと自分の感情を素直に出したほうがいい」
 小野が示唆したことはいまひとつ理解できなかったけれど、この二年間で築きあげた信頼関係は揺るぎようがない。亜夜はあきらめ半分、小野に任せようと思った。
 遊歩道は奥へと進むにつれて、散策する人が多くなっていく。木々が開けたと思うと屋外のホールが目に入る。公園のほぼ中央に位置して、遊歩道で囲まれた窪地にあった。ステージを軸として、扇状に大人六人が優に座れるほどの椅子が段々に設置され、それらはコンクリートで一体化した造りになっている。
 ステージ上はFATEのスタッフによって、楽器の設置や最終点検などが行われていた。ホールへとおりる各階段にもスタッフが駐在して、チケットの確認作業をしている。チケットといっても、これは席を確保するためだけに発行されたノーマネーの整理券だ。
 インディーズ時代からのファンに感謝を込めて、というFATEの粋な計らいなのだ。従来のファン以外の人にとってはゲリラライヴだ。ファンからの口コミによってかなり集まった人々の周りを、さらに通りすがりの人が何事かと足を止める。
 ざわめきのなか、ステージに向かって右寄りの席で手招きしている万里を見つけた。合流するとすぐに、小野が聖央を連れだした。亜夜は万里の横に足を投げだして座る。
「先生が全部話すって云うから、あたしがいないとこでしてって頼んだの。臆病だよね」
 亜夜は情けなく笑った。
 万里は少し難しい顔をして、つかの間、考えこむ。
「……あたしさ、思うんだけど……亜夜は用心しすぎてるよ。もしかしたら聖央くんも。亜夜がこのまま自分の気持ちを閉じこめて、聖央くんにぶつけなかったら、ふたりとも未来はめちゃくちゃだよ。傍から見てると、お互いの気持ちを誤解してるとしか思えない。事故のことなんて、亜夜と聖央くんの間には関係ないことだよ」
「そう……思いたいよ」
「亜夜、少しは聖央くんを信じてあげなよ」
 その言葉は亜夜をハッとさせる。それは亜夜自身がいつも感じていたこと。
「あたし……セーオーを信じてないの?」
「亜夜自身のこともね。未来どころか、過去までもゼロにするつもり?」
 亜夜は首を振った。
「いままでのことはみんな大事な時間だよ」
「じゃあ、いまも大切にしなきゃ。たぶん亜夜のほうがね、足にこだわりすぎてる」
「万里は違うの?」
「違わないわよ」
 万里は肩をすくめて即答すると、情けなく笑った。
「でも聖央くんに関するかぎり、亜夜のこだわりは必要ないよ。亜夜は聖央くんの態度からこだわりを差し引いてしまって、素直に受けとめることができないでいる。つまり信頼が欠けてるってことだよ。あたしは聖央くんとの付き合いは短いけど、亜夜から話を聞かされてたせいか、実際会ってみるとよくわかった気がしてる。あの女のことだってさ、聖央くんが放っておいてるのはよっぽど好きなのか、もしくは全然関心がないか、じゃない?」
 聖央の真意はどちらなのだろう。
「あたしは間違いなく後者だと思う」
 亜夜の無言の問いが聞こえたかのように、万里は確信して云いきった。
「わかんないよ」
 亜夜は小さくつぶやいて続けた。
「……幼なじみじゃなかったら、いつだってまっすぐにぶつかっていけるのにって……。拒否されて……あたりまえのように傍にいることもできなくなってしまうのが怖かった」
「あたしはすごくうらやましいよ。ないものねだり、だね」
「……そだね」
 ふたりとも顔を見合わせて笑う。
 そこへ聖央と小野が戻ってきた。
 聖央は亜夜の右横に、小野は万里の左横に、それぞれ彼女たちを囲むように座った。
 亜夜の縋るような瞳に、小野はうなずいて伝えた。
 大丈夫。
 けれど、亜夜はこの状況にどう対処していいのか戸惑うばかりで、聖央を見る勇気も持てないでいた。聖央も同じなのだろうか。何も語ろうとしない。
 万里と小野はどうしたものかと顔を突き合わせた。
 気まずいともいえる空気を一掃してくれたのは、FATEの登場だった。
 デビュー報告、そして、メンバーの紹介と続いた。その都度、歓声があがって会場のあちらこちらから、「おめでとう」と祝福の声が飛び交う。デビュー曲のお披露目に入るなり、客は総立ちとなった。
 亜夜たちもそれに倣った。同時に亜夜は無意識で胸もとへ手を上げる。
 セーオー、大丈夫、セーオー、がんばれる、セーオー、大好き…………。
 おまじないを唱えた。
 聖央の左手が背中からまわりこんで亜夜の頭を引き寄せた。亜夜の頬がちょうど聖央の心臓の部分に触れる。相変わらず、その鼓動で亜夜は落ち着いていった。
 曲目が増えるにつれ、場内のファンは連帯感を伴って歓喜に満ちる。その影響なのか、しばらくすると曲に集中できるほど、亜夜のなかから発作への不安は忘れ去られた。気づくと聖央の腕を離れ、亜夜はだれもがそうしているように手拍子をしたり、躰でリズムをとったりと楽しんでいた。
 一時間のライヴは、通りすがりの人をも巻きこんで拍手喝采で終わった。
「すっごくよかった。亜夜の周りっていい男ばっかりだよねぇ」
 退場する人が減るまでそのまま席で待機していると、万里が亜夜の耳もとで囁いた。
「万里の隣にもいるじゃない」
「そりゃそうだけど」
 万里はからかわれてふくれ面になる。
「そだね。セーオーと健朗くんと一緒にいるのって、ちょっと鼻高々だったかな」
「この果報者」
「万里も充分に目の保養をしてったら。たぶん、これからセーオーが会わせてくれるから――」
「えぇ――っ、ど、ど、ど、どうしよ――っ!」
 万里があまりにも大声で叫んだので、亜夜たちは一瞬引いて、直後には笑いだす。
「万里ちゃんて、美人のくせに、すっげぇおもしろい」
 聖央は笑いが止まらず、その合間に途切れ途切れで口にした。
 万里は顔を赤くして、ついには開き直る。
「このきれいな顔でいつもすましてたら、ただの嫌味な奴じゃない? これでちょうどいいの!」
「そうだよな」
 小野が笑いながら、万里の頭に手を置いて同意した。万里はますます顔を赤く染める。果たして、小野はそれに気づいているだろうか。
「顔出してくるか」
 人がまばらになったところで、聖央が立ちあがった。それを合図に、来たときとは違う組み合わせで四人はホールを出た。
「このまえより……状態よくなったな」
 聖央がここに来てはじめて亜夜に話しかけた。
「うん」
「……小野さんから聞いた」
「……うん」
 聖央の反応がよくわからず、亜夜はどっちつかずの返事しかできない。
「岬さんのこと、ずっとおれも考えてた。亜夜の様子、岬さんと鉢合わせした日に限ってヘンだったからな」
 気づいてた?
 口を噤んでしまった亜夜を見下ろして、聖央はため息をついた。
「いまの亜夜に、おれは必要ないのかもしれない。けど、亜夜のことを守る権利くらい、おれも主張していいだろ。おまえが生まれたときからそうだったようにさ。ずっとそれは変わらねぇよ」
 亜夜はゆっくりと顔を上げた。
「でもセーオーは……岬さんのこと――」
「バカ。勘違いすんな」
 亜夜が最後まで云わないうちに、聖央がさえぎった。亜夜の額を聖央が小突く。
「だって……」
「岬さんとは仕事以外、関係ねぇよ」
 聖央の腕をつかんでいる手に、亜夜は少しだけぎゅっと力を込めた。
 二年まえのあの日もはっきりとそう云ってほしかった。
 けれど。
 あのとき、否定されたとしても、きっと疑ったままだっただろう。いまでさえ、聖央の言葉がすべてだと信じきれているかというと、そうではない。岬の態度とそこから見える自信の理由がわからないままでは、疑惑の余地が残る。聖央の言葉は真摯に聞こえるのに、何かを漠然と不安に感じている。
 いま、亜夜ははじめて確かなものとして自覚した。聖央に対する不信が自分のなかに渦巻いていることを。
 たぶん、あの日に芽生えていた。

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