失いたくない

第4章 オフサイド〜歪むライン  2.嘘

 

 大学に入学してから新しいことばかりで、亜夜は忙しく毎日をすごした。半ばから始まった講義は授業時間が長いから、いざ終わって移動するとき足がこわばった気がしていたけれど、少しずつペースに慣れてきた。
 聖央はホームとアウェイの移動を繰り返している。時間が空くと、亜夜がいるのを見計らって部屋へやってくるものの、聖央はほとんどの時間を眠っている。
 何しにきているのか不思議だが、そういうのも心地よくて、亜夜は大学の課題をやったり本を読んだりして気ままにすごした。
 そんなふうに充実した日々でも、ただひとつだけ亜夜には億劫なことがあった。
 亜夜は岬と会って以来、なかなかスタジアムへ行く気にはなれない。それを知ってか知らずか、聖央はクラブへ来ないかと何度となく誘ってくる。
 不慣れな生活パターンを理由に避け続けているものの、誘いを断るたびに聖央の表情が陰り、探るような眼差しは日増しに強くなり、やがては問いただされそうで、亜夜は行かざるを得なくなった。
 健朗にまえもって確認して、府東テレビの取材の日を避けて亜夜はクラブへ顔を出した。
 最近になって、ブレイズの選手たちの亜夜に対する態度が友好的なものに変わった。
 練習が終わると、久しぶりに見学に来た亜夜をこれでもかと異様にかまいにくる。亜夜は戸惑って助けを求めるが、聖央は知らないふりをしている。
 変化したことと云えばもうひとつ。
 聖央はいま、吹っきれたようなキレのあるサッカーを見せてくれる。
 決断したのだろうか。
 そのことについて、聖央はまだ何も語らない。亜夜は無駄に猶予を与えられているような気がしていた。

 

 そして、四月二十九日。
 約束どおり、万里と小野がブレイズ川口のホームゲームを見にやってきた。
 ふたりの主な目的は岬の偵察であるはずが、それを忘れているのではと思うほど万里ははしゃいでいる。三時間後の試合開始が待ち遠しいようだ。
 健朗の計らいで、入場時間まえにフィールドのすぐ傍にある指定席スペースに入ることができた。すると、聖央が亜夜たちに気づき、挨拶がわりに片手を上げる。
「すごーい! ほんと、広いんだね」
「これだけ観客が入るとなると、中田に来てほしくないっていう、弥永くんの気持ちもうなずけるな」
 小野は妙にしみじみと云った。その横で万里がこっくりと首を振って、小野の意見に賛同する。
「亜夜もつらいけどね、見てるあたしたちもけっこうつらいんだよ」
「だから、あたしも早く治したいと思ってるんだけど」
「まあ、ゆっくりいけよ」
「……うん」
 けっして納得した返事ではなかった。
 ゆっくり、などという悠長な時間は必要ない。強くなりたい。独りでやっていけるように。聖央の手を借りないですむように。
「ねぇ、大学はどんな?」
「順調だよ。友だちになれそうな人もいる。講義時間の長さにはちょっと参ってるって感じかな」
「へぇー。あたしもやれるかな」
 亜夜から一年遅れて大学受験をすることにした万里は不安そうにしている。彼女は肝心なところで臆病さを見せる。
「始まった、万里の弱気。あたしにはいつも強気なアドバイスをするくせに、自分のことになるとバカみたいに臆病になる」
「しかたない。人間て、そういうものでしょう」
 万里は笑ってごまかした。
 こうなるまえの万里は自分に相当の自信を持っていた。美人で聡明。それが自他ともに認めた彼女のトレードマークだった。それはたった十六年間のこと。その三倍以上の時間を、いまの躰と付き合っていかなくてはならない。どれほどの自信があたりまえ≠ニともに散ったのだろう。
 万里が抱く不安は、自信とは縁遠い亜夜にも当てはまる。
 もたもたしていると人の視線が突き刺さる。人の目はいつでも凶器になるのだ。自意識過剰ということもあるだろうが、舌打ちが聞こえたり足を鳴らす音が聞こえたりするのはたまらない。
 亜夜としては、聖央への想いがあるぶんだけ早く踏みきることができたのだと思っている。その支えがなかったら、障がいを受け入れることも立ち直ることもできたかどうか疑わしい。
 聖央の存在はこの二年間、常に亜夜を励ましてくれた。
 万里にもそんな人が現れたら。――でも、あたしは知ってる。万里がセンターを出たくない、もうひとつの理由。叶うといいのに。
 そんなことを思っていると、やがて岬がグラウンドへ入った。
「あの女だよね」
 だれにともなく万里は確認を求めた。その声には強い嫌悪が宿っている。
「あたしたちがいるから、なんの害もないだろうけど……ね?」
 それは岬を見知っている亜夜でさえ、判断がつきかねる。
「いちおう、テレビに出るほどの公人だし、めったなことはしないと思うけどな」
「先生、もうすでに『めったなこと』をあの女はやってるんだよ」
 小野を軽く睨んで、安易すぎるその意見を万里は批判した。
「あたし、大げさに云ってるつもりない」
 亜夜も批難がましく万里を引き継ぐ。
「はいはい、失言でした」
 小野はふたりから責められて、降参するように両手を上げた。
「そうよ。売れっ子だろうが、たかがニュースキャスターごときでなんだっていうのよ。どうやって仇討ちしてやろうかしら」
 亜夜は万里の過激な発言を笑った。それもつかの間、すぐに笑顔は飾り物になった。
 亜夜を認めた岬がこっちへやってくる。
 亜夜は緊張を覚えて無意識に身構えた。普段は自覚さえしていない鼓動が、やけに早足で耳もとに響いてくる。
「亜夜ちゃんじゃない。しばらく見なかったから、忠告をきいてくれたとばかり思っていたのに。それほどおりこうさんじゃないのね」
 亜夜の怖れは本物で、万里の期待も小野の見解も見事に裏切られた。
 明らかに好意的ではない云い様は、あまり物事に動じることのない小野をとんでもなく驚かせた。いつも饒舌なはずの万里は、抗議の言葉を何ひとつ思いつかないほどあ然とした。
 この人は正気じゃない。
 三人ともが同じことを思う。そう確信できるほど、岬は亜夜に対して憎しみと取れるような理不尽な表情を向ける。
 そうされる理由はどこに在るのだろう。岬のなかにそんな感情を生みだすほど、いったい何を亜夜はしてしまったのか。まったくわからない。
 岬は亜夜に苛立ちの目を向けると、また毒気を含んだ言葉を投げつける。
「聖央は待ってるのよ。あなたが独り立ちして消えてくれることを。それも知らないで誘いにのって。かわいそうな亜夜ちゃん、大学ではどう? 同情を集めてみんなに迷惑をかけていない?」
 亜夜は自分を惨めに感じた。
 岬の視界、あるいは理性には、果たして万里と小野の姿が存在しているのだろうか。驚愕に硬直したなかで、逸早く小野が立ち直る。
「いったいどういう了見でもって、中田にそんなひどいことが云えるんですか。仮にも、あなたは秩序が守られるべき報道に携わる人間だ。身勝手極まりない偏見を押しつけていいはずがない!」
 小野は怒りに満ちた口調で岬に批難を浴びせた。これほどまでに感情的になる小野を知らなくて、亜夜も万里も一気に我に返った。
 岬は一瞬たじろいで亜夜の両隣を交互に見たが、すぐに気を取り直し、再び亜夜へ侮辱の笑みを向けた。
「あら、さっそく崇拝者がいるってわけ?」
 万里は、態度を改めることのない岬に呆れ返って息を呑み、一瞬後に叫ぶ。
「どうして聖央くんは、こんな女をいつまでものさばらせておくわけ!?」
 普通を逸脱した様で岬がけらけらと笑いだす。
「そんなこと決まってるじゃない? 聖央にとってわたしは特別なの。だから亜夜ちゃん、聖央の周りをうろちょろしないでね」
 伝えたつもりだ。自分にとって聖央は兄≠ネのだと。聖央が岬を好きだと云うなら、だれかを好きなのであれば、亜夜は妹という特別≠ノなるしかない。ふたりがそういう関係だと云い張るのなら、岬は聖央を信じていればいいだけのこと。
 そんな主張は実際に言葉になることはなく、亜夜はただ怯む。岬の振る舞いは異常としか映らず、発作を招きそうだった。
 小野が亜夜の肩に手を置いた。
 落ち着いて。あとは任せろ。小野の瞳が励ますように語った。
 それから、小野は岬に視線を戻して対峙する。
「あなたは中田と弥永くんの関係を誤解しているようだ。ふたりは幼なじみというだけですよ。中田には僕がいます。あなたは無駄な危惧を抱いているとしか思えない。勝手に弥永くんと付き合うなりしたらいいじゃないですか」
 小野の表情はこれまでにない冷たい怒りを宿していた。なるべく驚きを隠しながら亜夜と万里は顔を見合わせた。万里もまた岬を異様に感じていて、小野の考えに合わせようと亜夜に目で合図した。
「……そういうことなの」
 さすがに驚いたようで岬は目を丸くしていたが、それも一時で、彼女はくすっと笑う。
 そして、ふいに視界に聖央が入ってきた。
「どうしたんだ?」
 聖央は少し目を細めて、まず亜夜に向かって訊ねた。
 いま自分はどんな顔をしているだろう。そんな不安を感じながら、亜夜は意味もなくただ首を横に振った。
 亜夜が答えないでいると、聖央は再び口を開く。
「亜夜――」
「聖央は知ってた? 亜夜ちゃんとこの方、将来が決まっているそうよ。おめでとうって云ってたの」
 岬はさり気なく聖央の言葉をさえぎると、信じられないほどの飛躍した嘘を吐いた。彼女は慌ててもいなければ、後ろめたそうな様子も見せない。テレビで見るのと変わらない、至って落ち着いた艶やかな様を纏っている。
 聖央は、と目を移すとその表情は仮面を被ったように動かず、亜夜を見つめる。それが小野に移った。
「弥永くん、この――」
 亜夜はとっさに小野の腕をつかんでそれ以上を制した。
 どうして止める? と云いたげに小野が亜夜を見下ろすと、「だめ」と亜夜はつぶやいた。
「けど、云わないと」
「そうだよ。いまがいいチャンスじゃない」
 万里と小野が声を潜めて、亜夜の意思に反論した。
「云っちゃだめ。セーオーは自分でわからないとだめなの。セーオーはそういう人だから」
 亜夜が頑固に云いきると、従わざるを得ない。あくまでこれは亜夜の問題なのだ。小野と万里はそろってため息をついた。
「わかった」
 小野は亜夜の肩をなぐさめるように叩いた。
「聖央、監督が呼んでるわよ」
 岬があの日と同じように、聖央の腕に手を添えた。
「……ああ」
 ベンチへ肩越しに目をやって、聖央は短く答えた。
 聖央は、二年まえに繰り返されていた、小野が亜夜を送迎する光景を思いだしながら、自分が知らない亜夜の時間に育まれた親密さを見せつけられ、何も語ってくれない彼らを眺めるしかなかった。
「聖央くん、がんばってね」
 万里が声をかけると、硬い表情を少し緩めて聖央はうなずいた。
「亜夜、おまえはさきに帰れよ」
「わかってる」
 聖央は片手を軽く上げて背を向けた。
 岬は亜夜たちを一瞥すると、嘲笑を残して聖央を追う。その手がまた聖央の腕に触れた。
 語りかけるように岬が隣を振り仰ぎ、聖央が横顔を覗かせる。嫌な構図だ。亜夜がくちびるを咬んだそのとき。
「まだ、待っててくれ」
 聖央の声がまるで故意であるかのように亜夜まで届いてきた。岬が、聖央から云われていると亜夜に教えた言葉だった。岬がこれ見よがしにちらりと亜夜を振り向いた。
 覚悟していてもけっして認めたくない気持ちが、どうしようもなく亜夜の心底に集った。
「まったく、なんて女なの! 先生、あんな人間がいていいわけ!?」
 亜夜の衝撃はつゆ知らず、万里はかんかんに怒っていて、岬を指差しながらその矛先を小野に向けた。
「いないことをぜひ願いたいね」
 こんなふうに冷たく皮肉ったことといい、ちょっとまえの感情的なところといい、今日は小野の違う面を目にした。小野はおののいた亜夜たちに気づき、「悪い」と謝った。そして――
「おまえらにはこういうふうに歪んでほしくないな」
 と、笑ってごまかした。
 小野の内面は、見た目のクールなやさしさと違い、ずっと底まで深いのかもしれない。
「中田、あの人は危険だ。僕らがいてもあんなことを平然と吐くし、告げ口されるとかいう怖れが彼女のなかにないこと自体、正気とは思えない」
「怖れがない、じゃなくて自信があるってことじゃないのかな」
「どういうこと?」
「セーオーに信頼されてるって……想われてるっていう自信があるんじゃないかなって……」
「……どうやったらそういう考えに至るわけ? 燈台もと暗し、って云うけど、ほんとそうだね」
 万里は半ば呆れて、けれど理解もできた。
「伊原、それ以上はふたりの問題だよ。それから、中田。彼女が狂気か正気かはともかくとして、あのまま放っておけばどんなことになるのか見当もつかないし、とりあえずはあんなことを口走ったけど、弥永くんの誤解は解いておけよ」
 小野は心配顔で助言した。

 

 その夜のゲームは聖央の動きが荒っぽく、いまひとつ調子は奮わなかったものの、ブレイズ川口が勝った。
 ゲーム終了直後、万里からいまから帰るとの連絡が入った。電話の様子では試合観戦を楽しんだようで、スタジアムで見ることのできない亜夜は独りため息をついた。
 聖央が帰ってきたのは十一時頃だった。
 聖央の部屋が明るくなると程なくガラス窓に、コン、と何かが当たる。亜夜は上半身を起こしてカーテンを開き、ベッド脇の高窓を開けた。聖央が部屋の窓枠に腕をついてわずかに上半身を乗りだしている。
「悪いな。起こして」
「ううん、まだ寝てなかったよ。今日のゲーム、圧倒的だったね」
「当然」
 おなじみの答えに亜夜は笑った。
「でも、少し調子が悪くなかった?」
「……さすがだな」
 聖央は苦笑した。
「たまにはそういうときもあるさ。それよりも……練習んとき、おまえら、云い合いしてなかったか?」
「云い合い……って、ケンカってこと? そんなことなかったけど」
 亜夜は平静を装って否定した。それでなくても、自分が云われた侮辱の言葉は繰り返したくない。
 岬に関しては万里も小野も、そして、健朗も気をつけろと亜夜に忠告する。亜夜自身、云われなくてもそうする必要を感じている。
 それなのに、岬の言葉はすべて嘘なのだと思いきれていない部分が亜夜のなかに存在している。岬があれほど強気になれる理由がどこかにあるのだ。それは聖央が彼女を信頼しているという証しに思えた。
 待っててくれ――その言葉が怖いくらいに亜夜のなかで鳴動している。
「ふうん……」
 納得とは程遠い返事で、聖央は瞳を逸らしてしばらく黙った。
「……おまえ……結婚すんの?」
 聖央は亜夜に目を戻して、出し抜けに訊いてきた。だれと、という言葉はあえて省かれたのだろうか。
「いつかは……そうしたい……かな」
 亜夜は曖昧に答えた。
 小野は誤解を解くように云ったけれど、そうする気にはなれない。少なくともいまは。それよりも、聖央の真の望みが知りたかった。
「……そうか」
 聖央はまた瞳を逸らしてつぶやいた。
 聖央が安心したのかは読めない。それどころか、顔も声も無表情だった。
「セーオーは?」
「……おれ……?」
「そう。結婚とか、考えたことある?」
「……ねぇな」
 聖央はそういう質問が返ってくるとは思いもしなかったようで、戸惑いつつもきっぱりと否定した。
 思ったとおりの答えに、亜夜は笑う。
「まだ二十歳だもんね。セーオーの場合、年のわりに態度でかいけど」
「うるせぇ。そういうおまえはまだ十八じゃねぇか」
「女と男は違うの。女の子はね、小さい頃からお嫁さんになりたいって思ってる子がけっこういるんだよ。でも、男の子はそうじゃないよね」
 聖央のお嫁さんになりたい。亜夜はずっとそう思っていた。いまでもそう願っている。
 聖央は笑うだけで、亜夜がそれとなく示唆しても本音を聞きだすには至らなかった。
「明日、講義は何時に終わる?」
「えっと……二時半くらい」
「健朗んとこ、おまえも来るなら迎えにいくけど、どうする?」
「休んでなくていいの?」
「レコーディングを見たいから連れていけっつって、約束をさせたのはおまえだろ」
「無理やりじゃない――」
「行かないんなら、おれ独りで行くぜ」
 煮えきらない亜夜に、聖央が最後通達をする。
「……あたしも行きたい」
「なら、最初から行くって素直に云えよ。おまえらしくねぇな」
 聖央は寂然と笑んだ。
「ちょっと気を遣ってるだけだよ」
「おまえはやりたいようにやってればいいんだよ」
「どういうこと?」
「文字どおりのことだろ」
「それじゃ、まるでバカな子供じゃない」
「違うのか?」
「!! 失礼しちゃうっ」
 亜夜が怒ると、聖央は声をあげて笑った。
「らしくていいじゃんか」
「ほんと、怒るからねっ」
「んじゃ、退散するか。明日な」
 聖央は窓を閉めて早々と引きあげた。
 岬の虚偽を事実と認識しているはずの聖央は、別の人のものだと思っているはずの亜夜を、いままでと変化なく誘いだす。
 亜夜は大きくため息をついた。
 聖央は感情を隠すことがとても上手で、何を思ってどう感じているのか、亜夜はその片鱗さえもつかめない。

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