失いたくない

第4章 オフサイド〜歪むライン  1.憎悪

 

 亜夜が大学の準備に追われる一方で、Jリーグ戦が開幕した聖央はまさにサッカー尽くしとなった。
 それは必然的にふたりが会える時間を少なくさせた。ただ、いまは遠征中でないかぎり、ベッド脇の出窓を開けさえすれば聖央と話すことができる。
 聖央は、亜夜の合格発表の翌々日、突然ブレイズ川口の寮を引き払って家に戻った。寮を出た理由を訊ねると、聖央はプロとしての余裕ができたと答えた。
 けれど、本当の理由は訊かなくてもわかっている。
 たぶん。
 取り戻したい時間がここに在るから。
 そこにある聖央の本意にはふたとおりの意味が秘められている。
 傍にいたいから。
 傍にいてやらなければ。
 その違いはあまりにも大きくて。
 決心も覚悟も培ってきたつもりなのに、それは所詮つもり≠ナしかなく、亜夜はどっちつかずのさなかに追いこまれた気がした。
 三月の末、二日後に大学の入学式を控え、亜夜は久しぶりにスタジアムへ練習を見にいった。
 アウェイのゲームを勝利して帰ってきたから、クラブ全体が活気に満ちていた。
 聖央の声がグラウンド中を駆け巡っている。もしかしたら、それが活気づいているいちばんの要因かもしれない。下手な動きをすれば、容赦なく聖央の声が飛ぶ。名実ともにベテラン選手であろうが、そんなことを気にかけるような聖央ではない。
 なんだか笑えた。聖央はサッカーへの欲求を取り返しつつあるのだろう。亜夜にはそう思えた。否、そうであってほしいと願った。
「亜夜ちゃん、久しぶりね」
 なんの前触れもなく降りかかった声に、考えるよりも早く躰が過敏に反応して亜夜はびくっとふるえた。つかの間、息が詰まる。
 動揺を隠す時間を稼ぐために、ゆっくりと声のする方向へ顔を巡らした。
「……岬さん……こんにちは」
 亜夜は警戒しながら、半ば引きつった面持ちで挨拶を返した。
 岬はすぐまえの席に横向きになって腰かけると、顔だけを亜夜のほうに向けた。
 長い髪を後ろに束ね、ベージュのパンツにスカイブルーのシャツ、そして、黒のジャケットと、いかにもキャリアウーマン然とした岬は、完璧な身のこなしが相まって寸分の隙も見せない。
 あらためて間近で岬と接すると、亜夜は圧倒される。大人と子供の違いを見せつけられるようで怯みそうになる。あえて欠点を述べるならば、聖央には――テレビでもけっして見せることのない、この冷ややかな眼差しだろう。
「もとに戻ったとたんに、聖央にべったりのようね」
 岬の言葉は無数の刺を含んでいる。
 快くは思わないだろう――充分に承知していたけれど、実際はそれだけでは足りない感情がその言葉に見えた。以前は聖央くん≠セった呼び方も、いまは聖央≠ノ変わっている。
「……そんなことありません」
「そう? あなたはまたその足で、聖央を引きとめてない?」
 岬は気遣いのひとつも見せず、はっきりと核心に触れる。
 亜夜は岬への怖れをはじめて意識した。それは戦場に身を置く怖さと同種類のように感じた。亜夜は何も身を守るものを持っていない。
「……そんなことありません」
 亜夜は同じ言葉を繰り返した。
「本当にそう云えるの?」
 云えるわけないでしょう――暗に含んだ云いまわしに、亜夜は反論もできない。そのとおりだ。聖央の本心がわからないかぎり、答えられない。
「せっかく二年間離れて、あなたも聖央もそれぞれの道をつかみかけていたのに、亜夜ちゃんはまたふりだしに戻してしまったのよ。それがわからない?」
 岬はそこでいったん言葉を止め、何か意図があるかのような、冷たい微笑みをきれいな顔に宿した。
「二年間がんばって、目指した青南大に行くんでしょう?」
 亜夜は驚きに目を見開く。
 どうして……。
「聖央が教えてくれたの」
 亜夜の無言の疑問を読んで、岬は勝ち誇ったように告げた。
 あたしのことを……どうして、聖央?
 亜夜の与り知らないところで聖央は岬と何を話しているのだろう。途方にくれた。
「自分の目標があるうえで、大学へ行くんでしょう? だったら聖央に頼らずに、近づかずに、自分で努力したらいいわ。聖央を引きずりこまないで、ね」
 亜夜は気分が悪くなる。発作に似たふるえが手に表れた。
 この人はあたしを憎んでいる?
 根拠はどこにもない。けれど二年まえにはなかった、あるいは気づかなかった憎悪が岬のなかに存在している。
「……岬さんには関係ない。セーオーに、いまのあたしは無理なんて云ってないし、何も強制したりしてない」
「関係なくないわよ。あなたがまた現れたりするから、しばらく待ってくれって云われてるの。どういう意味かわかるわね? あなたはその足で、聖央に無言のまま服従を強要しているのよ」
 岬は残酷に云いきった。
 聖央が責任を感じている以上、自分の足が枷であることは否定できない。それが聖央と岬の間を引き裂いて、義務感と間違ったやさしさを招いたのなら、苦しくても身を引く。
 けれど。
「……そんなはずない……セーオーは……だれもいないって云った」
 岬さんには気をつけて。健朗の忠告を思いだす。
「だから、それはあなたへの聖央のやさしさなの。妹に対するものと同じなの。本当の妹ではないうえに、あなたの気持ちをわかっているから云えないでいるだけのことよ」
「あたしは……あたしにとっても、セーオーはお兄ちゃんでしかありません。あたしはセーオーの邪魔なんか絶対にしない!」
 そう誓った。聖央から離れるときに。
 亜夜の思いのほか強い口調に、岬は少し驚いたようだった。
 もう岬の口から発せられる冷たい言葉は聞きたくない。一刻も早く、亜夜はこの現状から逃げだしたかった。
 亜夜がそうするよりも早く岬がさきに立ちあがったときは、自分の鈍さが浮き彫りになって惨めな気持ちになった。反射的に見上げた岬の顔には、小ばかにしたような笑みが張りついている。
「本当にそうであることを祈ってるわ」
 捨てゼリフを吐いて岬は去った。
 岬の言葉は嘘だらけだと、亜夜は自分に云い聞かせた。
 だれの言葉が真実か。それはすなわち、だれを信じるのか、ということ。
 亜夜ははっきりと岬に対する嫌悪と恐怖を自分のなかに認識した。
 でも健朗くん、どうやって気をつけたらいいの?
 グラウンドで岬が聖央にインタビューをしている。
 それをぼんやりと見つめた。
 見知らぬ場所に置き去りにされたように、亜夜は心もとない気分に襲われた。

 

『亜夜、今度そんなことを云われたら、その女、殴り倒しな! めそめそしてるんじゃないわよ』
 うつに陥りそうな嫌な気分をだれかに払拭してもらいたくて、亜夜はその夜、万里へ電話をかけた。
 事の次第を話すと万里は激怒した。冷静なときであれば、周囲の人になんと思われるのか心配になるほど万里は大きな声を出した。しかも、言葉遣いが乱暴すぎる。
 ただし、亜夜はそこに気がまわらないほど、どうしようもなく落ちこんでいた。知らずと涙が出てくる。
「だって……」
『亜夜、泣かないでよ。それにしても……なんだって聖央くん、そんな女を野放しにしてるのかな』
 万里が不満を漏らす。
「セーオーは……岬さんを好きなのかもしれない」
 その否定材料はまだ何も見つからない。
 万里は深くため息をついた。
『まだ、そんなこと云ってるの? 聖央くんを信じられない?』
「……ううん。そういうんじゃなくて……」
 うまく言葉にできない。
 ただ、あの日の、聖央から突き放された事実と、聖央と岬が並んだ状景が頭にこびりついて忘れられない。
 亜夜の煮えきらない返事に、万里はまたため息をついた。
『まぁ……スムーズにいくくらいなら、はじめから離れる必要はなかったんだもんね。彼女が平然と嘘を吐く理由がわかればいいんだろうけど……。ちょっと待ってて』
 云うなり万里は送話口をふさいだ。電話の向こうでだれかと会話を交わしているようだ。声は不明瞭でまったく聞きとれない。
 その間に、こっちでは階段をのぼってくる足音が聞こえてきた。
『もしもし、中田?』
 いきなり男の声に変わった。驚いたのは一瞬で、すぐに相手はだれだかわかる。
「小野先生? まだ仕事?」
『そうだよ。だいたいのところは聞いた。詰まんないことでくよくよするなって云っただろう』
 小野の心配そうな声にまた涙が溢れてくる。
「でも……あのひとが怖くて……」
 亜夜が訴えかけているとドアのノックに続いて、「入るぞ」と聖央の声がした。
『弥永くんにちゃんと云えばいいんだよ』
「何を云えばいいの?」
 ドアを見つめていると、返事を待たずして入ってきた聖央と目が合った。ベッドの上に足を投げだして電話をしている亜夜の顔を見ると、聖央は目を細めた。
 亜夜はその理由にハッと気づいて荒っぽく涙を拭くと、座って、と聖央に手振りで伝えた。
『もちろん、事実を、だよ』
「……そんなことできるわけない」
『どうして』
「だって……絶対だめ。それじゃあ、同じなの。まえと同じこと云われたくない……引き換えるものが大きすぎる」
 さっきの万里に続いて、小野のしょうがないなと云いたそうなため息が聞こえた。受話器の向こうで、再びぼそぼそとふたりで話し合っている。
 亜夜は聖央に目をやった。聖央は座りもせずドアに寄りかかって、亜夜をじっと見ている。居心地が悪い。
『中田? 伊原を連れてスタジアムへ行くよ』
「……いつの話?」
『もちろん、岬さんて人がインタビューに来る日だよ』
「そんなの……いつかわかんないじゃない」
『試合のときは来るだろう。今度はいつなんだ? ああ……と、土曜日のほうがいい』
「……知らない」
『じゃあ、弥永くんにでも訊いてから、また電話をしてくれよ』
 亜夜は黙りこんだ。
『中田?』
 十秒もすると、沈黙に痺れを切らした小野が呼びかけてきた。
「……セーオーなら、さっきからここにいるよ」
 今度は小野が黙ってしまった。
『……なるほど……歯切れが悪いわけだ。弥永くんにかわって』
「どうして!?」
『試合の日程を訊くだけだよ。直接話したほうが早いだろう?』
「……ヘンなこと云わないでね」
 けっして乗り気ではない亜夜のむっつりした返事に小野が笑った。
『わかってるよ。よけいなことは云わないから』
 亜夜は小野に「絶対ね」と念を押したあと、聖央に携帯電話を差しだした。
「小野先生なの。話したいって」
 聖央はわずかに眉をひそめて携帯電話を受けとると、亜夜の机から椅子を出して座り、小野と話し始めた。
 亜夜はティッシュを取って鼻をかんだ。その遠慮のなさに、聖央がしかめ面をして抗議を示す。亜夜は気づかないふりをして首をかしげた。
 万里と小野に話を聞いてもらい、亜夜も少しは気が晴れた。
 聖央の受け答えを見守っているとまもなく携帯電話が返ってきた。
『話はついた。一カ月後、四月二十九日に行くよ。近くなったらまた電話する。じゃ、がんばれよ』
 小野の横から万里が、「バイバイ」と云ったのが聞こえた。
「おまえ、何泣いてんだよ」
 電話を切ったとたん、聖央が責めるように訊ねた。
「泣いたってほどじゃないよ」
「笑ってたって云うつもりか?」
「……もらい泣きしてただけだよ」
「なんの」
 今日の聖央はしつこい。
「話すと長くなるから……」
 聖央は訝しそうに亜夜を見る。
「それより、今日はどうしたの?」
 追いつめられないように、亜夜は何気なさを装って聖央の用件に話題を振った。
 聖央は変わらず、亜夜を探るように見つめた。が、やがて視線を外すと、追及をあきらめたらしく、息を吐いた。
「健朗からデビューイベントの連絡だ。五月十四日にゲリラライヴで華々しくデビューだと。よくやるよな」
 呆れたような口ぶりでも、聖央の表情には親友に対する慈愛じみた気持ちが見てとれる。
「スカーラホールでのライヴもすごかったもんね。はじめて聴いてもいいなって思うくらい、曲はきれいだし、演奏は迫力あるし、高弥さんの声も最高じゃない? 絶対に売れるよ」
 亜夜があまりに意気込んでFATEを褒めまくるので、聖央は声に出して笑った。
「そうだな。あいつらならやれるだろ。で、行くか、ライヴ?」
「セーオーは行ける?」
「試合の翌日だから時間は取れる」
「じゃあ、もちろん行く! 万里と小野先生も誘っていい?」
 聖央の表情がかすかに揺れた。
「じゃ、健朗にそう伝えとく」
 気のせいだったのだろうか、その声はいつもと変わらない。
「あさって……試合だよね」
 亜夜は唐突に話題を変え、ためらいながらわかりきったことを訊いた。
「……ああ」
 聖央は眉間にしわを寄せた。いまさらそんなことを確認してどうすると云いたげだ。
「見に……行きたいんだけど――」
「だめだ」
 聖央は即座に拒絶した。
 それは想像していたとおりの反応で、笑うべきなのか悲しむべきなのか、はたまた怒ってもいいのか、複雑な心境のなかで亜夜は曖昧に笑った。
 心なしか蒼ざめて見える聖央はつと瞳を逸らす。
「急ぐ必要ないだろ」
 聖央はつぶやくように云った。
「……うん。でもテレビばっかりじゃ、詰まんない」
 元気なく不満をこぼすと、聖央が手を伸ばして亜夜の頭に置いた。
「焦るなよ……。おれのいないとこでおまえが倒れるの、嫌なんだ」
 聖央のいまの様子を見ては行けるはずがない。亜夜がいることで、応援になるどころか逆に聖央の集中力を殺いでしまう。
「冗談だよ。あたしもそこまで勇気ないから」
 亜夜のからかった表情に聖央は目を細めて不快を示した。
「岬さん……相変わらずきれいだね」
 亜夜は思いきって口にした。
 岬の名を出しても、聖央が目立った反応は見せることはなかったが、どこかかまえているような印象を受けた。
「そうか?」
「うん。カレシ……いないのかな」
「さぁな。んなこと、話さねぇから」
 聖央は至って興味なさそうにしている。
 岬が云ったことは全部が嘘だと信じきれない。理由は亜夜自身がわからない。
 聖央の心はどこにあるのだろう。
「ね……」
「なんだ?」
「あたしに無理するなって云うけど……ほんとは賭けに負けたくないんだよね」
 真面目な顔でそう云ったにもかかわらず――
「バーカ」
 と、聖央は笑いだした。

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