失いたくない

第3章 アンバランスハート  4.アンバランス

 

 ドアが施錠されていないと知ると、亜夜はドアホンも鳴らさずに隣家の玄関に入った。
「セーオー、いる?」
 家の奥に向かって問いかけた。
 足音が聞こえたかと思うと、リビングから出てきたのは聖央の母親だった。今日は木曜日だが、看護師という職業柄、平日に家にいてもおかしくない。亜夜の表情をじっと観察したあと、聖央とどこか似たきれいな顔立ちをぱっと綻ばせた。
「おはよう、亜夜ちゃん。その顔からするとうまくいったのね。おめでとう」
「うん、ありがとう」
「お祝いしなくちゃ。女の子って何が必要かしら。またそろってどこかで食事というのもいいわね。あ、そのときに亜夜ちゃんの好きなもの、一緒に買えばいいんだわ。何が欲しいか決めててね。食事はどこにしようかしら……」
 聖央と離れている間、聖央の母親とも疎遠になって、話すことはあまりなかった。そんな気を遣わせて心配もかけた。それなのに、まえと同じようにここまで楽しそうに接してくれると、亜夜は気が引ける。
 そういう屈託のなさはそれだけ近い存在であることの証しだろうけれど。亜夜はそんな距離感に甘えて、聖央の母親を急かす。
「それでセーオーは?」
「まだ寝てると思うわ。せ――」
「あ、おばさん、いい! あたしが起こしてくる!」
 亜夜は慌ててさえぎった。
「あら。じゃ、いってらっしゃい。襲われないようにね」
 茶目っ気たっぷりに送りだされた。

 亜夜はそっとドアを開けて、ベッドに近づいた。カーテンが引かれたままで薄暗いなか、もう十時というのに聖央は横向きになってぐっすり眠っている。
 今週に入って午後は全員参加のチーム練習が始まり、疲れているのだろう。来週はJリーグの開幕が控えている。
 亜夜は身をかがめて、ずっと見ることのなかった寝顔を眺めた。きれいに整った顔立ちは変わらなくても、そこには少年を脱した聖央がいて、慣れないどきどきに襲われた。亜夜は驚かすのをためらってしまう。
 ……もう! きっと、さっきのおばさんのひと言のせいだ。
 引き返そうかと思ったけれど、ずっと楽しみのひとつだった悪戯心のほうが勝った。亜夜は大きく息を吸いこむ。
「セーオー、合格だよ!」
 聖央の耳もとで、亜夜は心持ち抑えながらも叫んだ。
「ぅわっ……バカ! 寝てっときにいきなり叫ぶな!」
 右耳を手でふさぎながら跳ね起きると、聖央は半端なく怒鳴った。
「ふふ。さて、あたしはだれでしょう」
「こんな子供じみたことすんのはおまえしかいねぇだろうが、亜夜」
 カーテンを開けた聖央は眩しそうに目を細めた。そして、乱れた髪を手でざっと梳きながら亜夜を睨みつける。
 亜夜は可笑しそうに舌を出しておどけた。
「で、なんだって?」
「四月から、青南大生なの!」
「合格?」
「そう! いまホームページで確認したの。それで、青南大にちゃんと合格発表を見にいきたいんだけど連れてってくれる? 午前中は空いてるよね」
「オーケー、着替えるから反対向いてろ」
 亜夜が云うとおりにすると、聖央は勢いよく起きだしてタンスのなかを掻きまわす。
「おまえが自力で青南大に受かるとはな。センターでは頭もリハビリしたようだな」
「どういう意味! あたしはもともと頭いいんだからっ」
 云い返すと、聖央が笑った。
 二年間、これまでになくがんばったつもりだ。聖央がいなくても独りでできる、という証明が自分自身に対して必要だった。あの事故がなかったら、高校受験のときのように聖央のアドバイスを最大限に当てにしてしまっていただろう。だから大げさに云えば、亜夜は自立への第一歩として、大学受験で名門私立校というささやかな戦場を選んだ。
「行くぞ」
 手を貸そうともせず、聖央はさっさと部屋を出ていった。亜夜はゆっくりとあとを追う。
 すると、とっくに下へ行っているはずの聖央が、階段のおり口で待っている。
「さきにおりていいよ。あたしは手すりがあるから大丈夫」
 聖央はふっと笑った。
「自立心、出てきたじゃん。まえなら、おんぶしてって云うところだろうな」
「いつまでも子供だと思ったら大間違いだから」
「そうらしいな」
 亜夜が抗議をすると、聖央はさほど喜んでいるふうでもなくつぶやいて認めた。

 ふたりが青南大へ行くと、合格発表から一時間がたっていても、一直線に歩いていけないほど人がいる。結果を知っているとはいえ、本当に自分の番号が存在するのか、亜夜は少し不安になっていた。
「亜夜、何番?」
 さきを歩く聖央の質問に、亜夜は受験票を取りだして確認する。
「人文学部の六〇一一四一番」
 聖央はうなずいて掲示板のまえに立った。
 亜夜はゆっくり近づいていく。
「早く来いよ」
 聖央が振り向いた。すっかり承知の聖央は、臆病な亜夜をおもしろがっている。
「あった?」
 亜夜は自分で見るまえに聖央に訊ねた。聖央は黙って指で差し示す。亜夜はその方向を見て、受験票と照らし合わせ、自分の番号を確認した。
「よくやったな。おめでとう」
 子供に対してやるように、聖央は亜夜の頭に手を置いた。いま頃になって涙が出てくる。
「バカ。何泣いてんだよ。こういうときは笑うもんだろ」
 けれどいまは、少しだけ自分に感動している。聖央に会いたいという想いを抱く暇がないよう、亜夜は必死になったんだった。
 はじめて自分を認めることができる。自分は強さも、それを生みだす力も持っている。いま、亜夜はそんなふうに自分を信じられた。
「じゃ、お祝いだな」
 涙にかすんだ視界のなか、聖央が声に笑みが見えた。
「……うん。何をくれるの?」
 聖央に手を取られて歩きながら、亜夜は約束を持ちだした。
「何が欲しいんだ?」
「いっぱいあって、選べない」
「いままで泣いてたくせに、がめつい奴」
 聖央は空いているほうの手で、ぽんと亜夜の頭を弾いた。
「女のサガだもんね」
 亜夜はふざけつつ、繋いだ手を少し強く握った。
 亜夜の心はいつも強く想い、願っている。
 欲しいのは、聖央。聖央の心が何よりも亜夜でいっぱいになってほしい。聖央しかいらない。それしか思わないほど、亜夜は聖央をいちばん必要としている。
 けれど、きっと手に入ることはない。
 いちばん≠ニはそういうもの。
 聖央は携帯電話でだれかと話したあと、車で街中へと行った。
 地下駐車場に車を止めて地上に出たあと、聖央に導かれて亜夜は異国ふうの並木通りを歩いた。少し大人っぽい雰囲気の街だ。
 どこへ行くのか訊いてみたけれど、「着いてのお楽しみ」と聖央は教えてくれなかった。
 ウィンドウショッピングを楽しんでいると、やがて聖央は立ち止まる。
「ここだ」
 聖央が指差したのは、とても凡人の亜夜が入れそうにない、高級感に溢れた宝石店だった。
「いらっしゃいませ」
 なかへ入ると厳かに声がかかる。気後れした亜夜と違って、聖央は動じるふうもなく、亜夜の歩調に合わせて悠然と奥へ進んでいく。
「弥永さま、お待ちしておりました。オーナーを呼んで参ります」
『店長』という肩書きのネームプレートを胸につけた男性は、丁重に歓迎を表して応接用のソファへとふたりを案内した。店長は奥の部屋へと消えていき、入れ替わって女性が現れると、目のまえにお茶を出された。
 ふたりになって、亜夜は問いかけるように聖央を見た。
「大学生になるんだからさ、こんなのひとつくらい持ってたっていいだろ」
 無言の問いに答えた聖央は顎をかすかに動かして、ガラスケースに囲われた宝石たちを示した。亜夜はこういうものに頓着するほうではないけれど、もらってうれしくないわけはない。
「でも、ここ高そう」
 亜夜が小声で云うと、聖央は小さく笑う。
「見合う稼ぎはあるぜ」
「それは知ってるけど……よく来るの?」
「まさか。こういうのに興味ない。ここは健朗の母親の店なんだ」
 そう云われれば、ずっとまえに健朗からそんな話を聞いた気がする。亜夜は少し気が抜けた。高級であれども、知り合いの店となるといくらか親しみを感じる。
 まもなくオーナーである健朗の母親が淑やかにやってきた。
「聖央くん、こんにちは。亜夜ちゃん、久しぶりね」
 気さくに声をかけた健朗の母親は変わらず、年齢不詳のきれいさを保っている。
「おばさま、ご無沙汰してます」
 聖央の母親のことはおばさん≠ニ呼べても、健朗の母親はどうにもおばさま≠ニなってしまう。その呼び方に似合う微笑みがこの場を艶やかにした。
「本当に。一時期はどうなることかと心配したけれど、ふたりともそろって……安心したわ」
 聖央は苦笑し、亜夜は答えようがなくて困ったすえ複雑な面持ちで照れ笑いをした。健朗の率直さはきっと母親譲りだ。
「聖央くん、はい、頼まれていたもの」
 健朗の母親は手にしていた箱のふたを開けると、確認を求めて聖央に提示した。聖央は受けとってうなずくと、無造作に亜夜に手渡した。
 それは、五ミリ幅くらいのゴールドのブレスレットだった。留め金のところに二本の鎖が垂れていて、その先端のそれぞれに、コイン型のペンダントと亜夜の誕生石ブルートパーズのカット石が揺れている。
 そのコイン型ペンダントのデザインを見て、亜夜の顔に自然と笑みが広がる。サッカーボールの模様だった。
「気に入った?」
 笑っている亜夜を見れば、その返事は一目瞭然だ。
「亜夜ちゃん、合格おめでとう」
「おばさま、ありがとうございます。健朗くんにはまた大学でお世話になります」
「健朗のことを遠慮なく頼ってやって。頼られるとうれしいらしいから」
 健朗の母親は優雅な笑みで答えた。
 それから、オーナーと店員たちから申し訳ないくらい丁寧に見送られ、亜夜と聖央は店をあとにした。
 歩き始めた直後、聖央は笑みを漏らした。
「こういうときってさ、顔が知れてると便利だよな」
「え、どうして?」
「おれに金があるってことを知ってるから、けっこう丁寧に応対してくれるだろ。これが例えば、その他大勢の一般人だったなら、ああはいかない。オーナーの知り合いだろうが、ただのガキ相手にあんなバカ丁寧な応対はしない」
「大人の世界って、そういうもの?」
「ああ。薄汚い奴は多いぜ」
 その言葉の裏には、聖央の繊細さと強さが相対している。
「だから……マスコミに対してはわざと態度悪くしてるの?」
 当の亜夜に訊かれると、聖央は言葉に詰まる。
「……あの事故んとき、被害者だったおれらを……あいつらはどんなふうに扱った?」
 聖央は答えを期待するふうではなく、自らに事実を叩きこむように吐き捨てた。
 未成年者であり一般人だったから、亜夜も聖央も名は伏せられていたけれど、身近な者にとっては歴然だ。特に聖央はすでに公人化していて、名を伏せることは無意味だった。
 下卑た報道は聖央と岬の関係や、そこに亜夜がどう絡んだのか、勝手な憶測をさも事実であるかのように取り扱った。取材だったという真実を語っても、おもしろくも可笑しくもない主張は無視されるだけだった。
 そのとき与えられた傷みは聖央をかたくなにさせた。府東テレビとの長期密着取材の契約も、最低限度の一年をすぎてからは更新されていない。
 一時的なものではあったけれど、でたらめな報道に、亜夜も傷つかなかったわけではない。それどころか、立ち直れるのかと思ったくらいに落ちこんだ。聖央と岬がどんな間柄かという憶測の記事に至っては、思いだすだけでいまでも苦しく、つらくなる。世間からもふたりは釣り合って見えるらしく、何よりもまず、『B子さん』と称された亜夜が邪魔者だった。
 そんな傷みは欠片も見せず――
「嘘と真実が交差してるからね」
 と軽く云って、亜夜は呑気なふりをした。
「だからおれは応じない。うわっ面ばかり気にしてるような奴らに媚びたりしねぇよ。そんな人間にもならない」
 聖央は強い意志でもって云いきった。
「その態度だよ」
 可笑しそうにした亜夜を聖央が見下ろす。
「セーオーの場合、お金持ちかっていう問題以前に、そのふてぶてしい態度にみんなが怖れをなしてるって感じがしない?」
「……そういうこと云うんなら、これ返せ」
 聖央は自分の腕に絡んでいる亜夜の手首をつかんで、ブレスレットを引っ張る真似をした。
「嫌。もうあたしのだから」
 亜夜は聖央の意地悪な手を避けようと躰を引いた。右足が自由にならないことをすっかり忘れて。
 バランスを崩した亜夜はよろけながら、きゃっ、と小さく叫ぶ。聖央の手が伸びてきて、とっさに亜夜の腰をつかまえた。
「バカッ、気をつけろ」
「だって、十六年間はまともな足してたんだから、つい忘れるときがあるの。いまのはセーオーが意地悪するからだよ」
 少し頬をむくれさせた亜夜は、聖央の腕をつかんで体勢を立て直した。そうしながら亜夜は自分の失言にハッとしたけれど――
「はいはい。どうせ、おれのせいだろうよ」
 と、聖央は目立った負の反応を見せることはなく、それどころか包容力をひけらかした。両手で亜夜の頬を挟むようにふざけて叩く。
 足のケガのことに触れても目に見えて動揺することのない聖央に、亜夜はほっとした。
 亜夜がいなかったことで置き去りになっていた聖央の時間も、やっと時を刻み始めている。これでふたりは、いまのありのままで向き合っていける――と、そんなふうに思えた。
 亜夜はふいに笑った。
「なんだ?」
 聖央がしかめた顔をして亜夜を見下ろす。
「お守り、ちゃんとしてる?」
 訊かなくても本当は知っている。ゲームのとき、聖央の胸もとで見え隠れするもの。
「ケガしてねぇだろ」
 聖央が間接的に答えを告げて亜夜は満足する。
 二年まえにプロデビューが決まったとき、お小遣いを叩き、お守りとしてサッカー選手がよく身につけているチェーンを聖央へ贈った。『ケガをしないように』とメッセージを添えて。
 その先端のペンダントはコイン型で、亜夜がもらったブレスレットと同じように、サッカーボールの模様が施されている。
『Congratulations! A to S』
 ペンダントの裏側にそう刻んだ。
 そして、亜夜のブレスレットにも刻まれたもの。
『Congratulations! S to A』
 亜夜はブレスレットの感触を何度も確かめた。一生の宝物だ。自分で決めて勝ち得たことを、いちばんそうしてほしいと思っていた聖央が認めてくれた。この上ない最高のお祝いだった。
「ね、合格しなかったらどうしてた? ムダになるのに」
「次の祝い事まで保留に決まってるだろ」
「……それって、怠慢じゃない?」
「なんの理由もないのに、高価なもんをもらえるって思うほうがどうかしてる。どっちにしろ、受かったんだし問題ないだろ」
「それはそうだけど……。ね……ペアだよ?」
 亜夜は聖央を覗きこむ。
「バーカ。何云ってんだか」

 亜夜を守るように笑っていた聖央はもういないのだ、とそう思ったのはほんの二週間まえのこと。いまは、そんなさみしさすら忘れてしまうほど、互いにあった疎外感は嘘のように感じられる。
 ふたりは急速に二年間の距離を縮めようとしていた。あるいは無意識のなかで、幼なじみという不安定な関係を取り戻したいと切に心が欲していた。
 それが正しいことなのかもわからないまま――。

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