失いたくない

第3章 アンバランスハート  3.賭け

 

 会場に入ると、すでに満員の観客がどよめいていた。
「デビューまえなのに、すごい人気だね」
「そうみたいだな。そうでなきゃ、デビューも決まんないだろうし。それよりおまえ、大丈夫か?」
 露骨に心配する様子は見せず、聖央は何気なく訊ねた。
「うん。いまのとこ平気」
 ふたりの席は非常口のすぐ傍だった。いざとなればすぐに外へ出られるようにと、健朗が配慮して用意してくれた。少しだけいつもより鼓動が波打っているけれど、さほど不安は感じていない。
「健朗と何を話してた?」
「え……どうして?」
 亜夜はどきっとしたものの、平静を装って問い返した。
「真剣な顔して話しこんでた」
 メンバーとの話に夢中になっていると思っていたのに。
「そんなことないよ。バンドに入ったきっかけとか大学のこととか、話してただけ」
 嘘ではない。なんとかごまかそうとした亜夜の説明に、聖央は納得したふうでもなく、「ふーん」と、生返事をした。
 直後、開演のコールがあり、それ以上追及されずに亜夜はほっとした。
 場内のライトが順番に消えていき、真っ暗になる。
 期待と不安とで、亜夜の鼓動が跳ねだした。
 数秒後、幕が開いていくと同時にアップテンポの演奏が始まり、ステージ上にスポットライトが集中する。
 キャアァァァァ――――ッ。
 黄色い歓声が一斉に会場を埋め尽くした。
 亜夜は自分の症状を侮っていたと後悔する。この時点ですでに、FATEの人気ぶりに感心するどころではなくなった。
 立ちあがってリズムをとる人々とその歓声は、まったく関係のない、二年まえの事故とオーバーラップする。あれ以来の亜夜にとって、興奮した人ほど怖いものはない。
 酸欠状態のように息が浅く早くなる。
 発作が……。
 うつむくと、ふるえている自分の手が目に入る。おまじないを唱える余裕がない。軽い発作ではないかもしれない。そう思ったことがよけいに発作を深刻にしていく。
 聖央……あたしに気づいて――。
 それが聞こえたように、聖央は亜夜を支えて立ちあがらせた。抱えられるようにして亜夜は会場を出た。
「亜夜、どうしたらいい?」
 聖央は冷静に訊ねた。
 声は聞こえてもその意味が理解できなくて、亜夜は首を振った。心臓発作ではないかと疑うほど心臓はばくばくと脈を打ち、痛み、呼吸もままならない。怖かった。
 けれど聖央の声は耳に届いた。そのぶんいつもよりはらくな状態なのだ、と亜夜はかすかに残った理性のなかで自分に云い聞かせる。
「亜夜、おれを見ろ」
 聖央は伏せていた亜夜の顔を両手で挟み、無理やりに自分のほうを向かせた。
「ここにはだれもいない。わかるな? おれに、どうすればいいか教えてくれ」
 聖央のしっかりした声と力強い瞳が、今度は浸透してきた。亜夜の瞳はようやく焦点を定める。聖央にうなずいてみせた。
 亜夜はふるえる両手で口もとを覆い、呼吸を繰り返した。聖央の手は首筋に滑って亜夜の頭を支えるように添った。聖央の胸に額を預けると、自分とは違う心臓の音を感じる。あのときのように急ぎ足の鼓動は、なぜか亜夜を安心させた。肩で息をするほどの不安定な呼吸が静まっていく。
 亜夜はふと小さい頃のことを思いだした。
 不安や怖い思いを感じた夜は――例えば、つい怖いテレビ番組を見てしまったとかいう詰まらないときでも、必ずといっていいほど、わざわざ弥永家を訪れて、聖央のベッドに潜りこんで一緒に眠った。成長するにつれてそういうことは少なくなり、聖央が中学生ともなると、さすがに親の口出しがあって許されなくなったものの、それまでの亜夜は、いつも聖央の鼓動を抱きながら安心して眠っていた。
 だからいまの自分はこんなに落ち着ける。聖央を頼りにできる状況にあったから、これくらいの発作で治まっている。つまり、幼い頃からまったく自分は成長していない。
 ため息と、発作が落ち着いた安堵が混じり合って、口から吐息が漏れた。
「……ごめん……ありがと」
 離れるのは名残惜しかったけれど、情けない気持ちが亜夜自身を責める。
「謝るな。大丈夫か」
「うん……」
「やっぱり無理だったんだ。悪かった。こんなとこに連れてきて」
 聖央はかすかに蒼ざめて見えた。
「ううん。いつまでも逃げていられないし、たまに忘れて自分から入っていっちゃうことがあるから、ちゃんと克服しなくちゃだめなの。北沢先生が云ってたの、聖央も聞いたでしょ?」
「けどおまえ、死にそうな思いしてるだろ」
 それは否定できない。しばらく発作を経験しなかったせいで油断したのだろう。加えて、岬を目にしたことで不安定さが増長している。けれど、亜夜は首を横に振った。
 いまは聖央のほうがつらそうだ。
「帰ろう」
「やだ」
 亜夜の強い拒否に、聖央が驚く。
「もう一度、今度はちゃんとFATEの歌を聴きたい」
「だめだ」
「嫌、行きたいの。席には戻りたくないけど、出口のすぐ近くだったら平気。セーオーがいるから大丈夫な気がする。それに、こんな病気をいつまでも抱えていたくない。そっちのほうがずっとつらい」
 聖央は迷う。北沢から亜夜がどんな状態に陥るのかを聞かされていたが、実際に発作を目の当たりにして少なからず動揺していた。
 北沢ははじめて会ったにもかかわらず、聖央の傷をあの場限りの様子で見切り、やんわりとそれに触れて絶ちきるしるべを示した。
 亜夜のそれは自分の比ではない。
 自分が課した傷みのせいで、亜夜はいつか死んでしまうかもしれない。
 そう思ったくらいに。
 そして同時に、強くなった亜夜にも気づいた。亜夜は変わった。甘えることしか知らなかった亜夜は、もうどこにもいない。自分はそれを尊重してやらなければならない。
「……わかった」
「あ」
「どうした?」
 聖央は顔をしかめた亜夜を覗きこんだ。
「足がつってる」
 聖央は笑って亜夜の足もとにかがんだ。
「おまじないの効かない発作のあとは、いつもこうなの」
「おまじない?」
「うん。子供っぽいって云わないで。あたしは必死なんだから」
 先回りして弁解すると、聖央はまた笑った。
「軽いときはおまじないを唱えるとすぐよくなるんだよ」
「なんて?」
「内緒」
「……なんだよ」
 聖央は子供っぽい云いぐさで不満そうにし、亜夜は小さく笑った。
 そうしているうちに足の痛みはとれた。亜夜はつと、かがみこんでいる聖央の上に覆い被さるようにしてその肩に頭を置いた。
「怖かった?」
 訊ねると、聖央はうつむいた姿勢のまま、亜夜の肩に片手をまわした。
「覚悟してたから」
 聖央は静かに、それだけしか云わない。
「競争だね」
 聖央は手を離して立ちあがった。
「何が?」
「あたしの発作が治るのと、セーオーがこれからどうするか、答えを見つけること。どっちも簡単じゃないよね?」
 すると聖央が何やら思惑あり気にくちびるの端を少し上げた。
「何を賭ける?」
「え? えーっとね……」
 突然の提案に、亜夜は慌てて考えた。
 しばらくして、いちばん簡単で、且つ難しい案を出した。
「じゃあね、勝ったほうのわがままをひとつだけ、なんでもきくっていうのは?」
「いいぜ」
 聖央はあっさりと了解した。
「じゃ、決まり!」
 この賭けに負けるわけにはいかない。
 聖央、あたしのわがままはもう決まっているんだよ。

BACKNEXTDOOR