失いたくない

第3章 アンバランスハート  1.未来への一歩

 

「亜夜、聖央くんよ!」
 お風呂をすませて部屋に戻ったとたん、階下から母が呼んだ。
「わかった」
 返事をすると同時に、さっそく階段をのぼってくる足音がする。
 亜夜が濡れた髪を拭きながらドアを開けると、聖央はすぐそこまで来ていた。
「どうしたの?」
 聖央も風呂あがりなのだろう、スウェットの上下という恰好で髪も濡れている。
「足、マッサージしてやるよ」
 どうぞと云うまえから、聖央は亜夜の脇をすり抜け、女の子の部屋であるにもかかわらず、ためらいなく以前のように部屋に入りこんだ。
「いいよ。疲れてるのに」
「黙って云うことをきかないと、押し倒すからな」
 亜夜が遠慮なく断っても、変わらない強引さで聖央は脅した。
 聖央がいると部屋が狭く感じるのは同じだが、二年まえより、もっと窮屈になった気がするのは、少年という域を脱したせいだろうか。背の高さは変わらないと云っていたけれど、全体的に大きくなった印象を受ける。
 なんとなく、居心地が悪いような気になって落ち着かない。聖央が平気でいる以上、亜夜はなんとか普通に振る舞おうと努めて、不満そうに口を尖らせた。
「じゃ、髪を乾かすまで待って」
 亜夜は机の上に鏡を置いて椅子に腰かけた。ドライヤーのスイッチを入れて顎ラインのボブヘアにあてる。
 聖央の目的はわかっている。それをどうやって避けようかと、亜夜は無駄な時間稼ぎをした。
「……」
 声がしたので、亜夜はスイッチを切って振り向いた。ドライヤーの音に掻き消され、聖央がなんと云ったのか聞きとれなかった。
「何?」
「髪、短くしたんだなって云ったんだよ」
「洗うのにラクなの。それにしても、いま頃気づいたの?」
「ずっとまえから知ってる。話ができなかった だけだ」
 スタジアムで会った日からすれば一カ月もたっていないのに、ずっと、という大げさな云い方をして聖央は軽く肩をすくめると、手にした青南大のパンフレットに目を落とした。
 もしかしたら鏡に向かっている間、眺められていたのだろうか。
 ちょっとした焦る気持ちが湧いてきて戸惑った。ちょうど母がコーヒーを持ってきたから気が紛れたけれど、ぎこちない気分のまま亜夜はまた鏡に向かう。
 髪のことは、亜夜が高二になって、聖央は卒業して、もうふたりの接点がなくなったとあらためて身に沁みたとき、小さい頃から変化なく胸の下まで長くしていたのをばっさりと切った。気持ちが切り替えられればと思った。
 けれど、それだけで中身が変わるはずなく、聖央に会いたがるという、成長しない自分を再確認しただけだ。
 ドライヤーを切ると、亜夜は部屋の中央にあるテーブルの横に足を投げだして座った。なんとなく緊張しながらコーヒーをひとくち飲んだ。
 以前に存在しなかった気まずさは、ふたりの立場が微妙に変わったと告げているようだ。聖央は感じていないのだろうか。

 

「足を見せろ」
 聖央はパンフレットを棚に戻すと、中山総合センターでのときと同じように唐突に命令した。
「……ほんとに見るの? 忘れてよかったのに……」
「んなことあるかよ」
 聖央は吐き捨てるように云った。少し怒った表情だ。
 亜夜はひとつため息をついて、パジャマの裾をゆっくりと上げていった。傷口ぎりぎりのところでいったん止める。
「卒倒しないでね」
 亜夜はちゃかすように念を押した。
 聖央が睨み返す。
「そんなヤワじゃねぇ」
 聖央に限らず、あまり人に見られたくないのだが、亜夜はまたひとつため息をついて意を決した。
 膝をあらわにした直後――聖央は息を呑む。
 右膝は、表面がつるつるして、蕁麻疹が広がったような傷で覆われている。これでも当初に比べれば、赤みがひいてずいぶん見た目もよくなった。
 聖央はいつまでも傷口を凝視している。
 聖央から何か云ってくれないかと待っていたが、ついには沈黙に耐えられなくて、亜夜がさきに口を開いた。
「気分悪くない?」
 うつむいているせいで額に落ちた聖央の髪を後ろに払った。その顔には苦悩が張りついている。
「なんでこんなことに……」
 聖央はそれだけをやっと言葉にして再び絶句した。
「セーオー、もう二年だよ。いつまでもそんなこと云ってないで。いまのあたしを否定してるよ」
「そんなんじゃない」
 即座に強い口調で云い放たれた。何かを振りきるように一度首を振った聖央は続けて、振り絞るように疑問を口にした。
「なんで亜夜がこんな目に遭わなきゃならなかった?」
 どうして、自分が。
 亜夜も何度も思った。答えはいまだに見いだせない。けれど。
「あたしはね、セーオーの足がこうならなくてよかったって思う」
 亜夜の傷に釘づけになっていた聖央は目を上げた。
「もしあの日、あたしが行かなかったら。もしあのとき、あたしが意地張らないでセーオーと一緒に帰ってたら……」
 どうなったと思う?
 亜夜は少し首をかしげて無言で問う。そして、笑った。
「セーオーが巻きこまれたかもしれない。ふたり一緒に巻きこまれたかもしれない。セーオーは間違いなくあたしをかばってくれる。ケガしたのはセーオーだった。そうなったらあたし、サッカーするセーオーが見れなくて悲しいから」
 聖央の表情は、いまグラウンドに立っているときのように迷いで溢れている。
「ここで、ひとつ提言です」
 亜夜は偉ぶって人差し指を立てた。
「いま云った仮説が現実だったとしたら、あたしは一生自分を責め続けてしまう。聖央はそれを望む? あたしのせいだって思う?」
 亜夜の問いに驚きながら、聖央は首を振って否定した。否定の言葉は、迷うでも考えるでもなく、自然と聖央の口を突いて出る。
「そんなこと思わねぇよ。亜夜じゃなくてよかったって思う」
 聖央に云わせたかった言葉を引きだせて、亜夜は安心した。
「でしょ? あたしも同じ。これがセーオーの足じゃなくてよかったって、それしか思ってないから」
 聖央はうつむいて目を閉じた。亜夜の云うことは――云いたいことは理解できる。けれど、受け入れるには時間が必要だった。
「おまえ……成長したな」
 やがて口を開いた聖央は亜夜を見てからかった。薄らと笑みすら浮かべている。
「当然」
 亜夜は聖央の威張りくさったいつもの口癖を真似た。聖央の口もとが今度ははっきりと笑みを形づくった。
 亜夜は笑う聖央にほっとしながら、もうひとつの大事な問題を解決すべく、真面目な顔をして口を開く。
「あのね、最近のゲームを見てて思ったんだけど……いま、セーオーはサッカーが好き?」
 聖央は目を細めて亜夜を見た。何を云わんとするのか探った。
「ゲームに勝っても、それがすごく価値のあるゲームでも全然うれしそうじゃない」
「おれはもともとそんなだ」
「うん。いつも勝ってあたりまえって態度してる」
「当然」
「自信過剰もいいとこ。自滅しちゃうよ」
「そんな弱くない」
 ふてぶてしい態度に亜夜は笑ったが、すぐに真剣さを取り戻す。
「でもね、いまのセーオーは、自分の意志でやってない。だれかに操縦されてるロボットみたいなの。サッカーが好きでプレイしてるんじゃなくて、義務感でしてるように見えるよ?」
 聖央の瞳が生気に欠けて陰る。いったん言葉を切った亜夜はためらいがちに続けた。
「もし……もうサッカーがセーオーの大切なものじゃなくなってるなら、あたしの云ったことが足かせになってるっていうだけなら、もう忘れていいから。いまのセーオーのサッカーは好きじゃない……。見てて悲しい」
 亜夜が最後の言葉をぽつりとつぶやくと、聖央はふっと笑みを漏らした。
「亜夜の目はごまかせない……か」
「うん。だから、ほかにやりたいことがあるなら、そういうのを探したいって思ってるのなら、サッカー捨ててもかまわない。あたしの強制に縛られてるだけなら、鎖は解くから」
 しばらくの間、亜夜は聖央を見守るようにして返事を待った。
「……考えてみる」
 この場で結論を出すことはせず、聖央はそれだけを口にした。
 それからまた沈黙がふたりの間に横たわる。
 聖央が見るともなく横の本棚に目をやっている。亜夜はその横顔を眺め入った。やはり高校生の頃と違って、顎のラインが厚みを増しながら大人っぽく引きしまったように感じる。
「……傷はきれいにできるのか?」
 横顔を向けたまま、聖央が訊ねた。
「ちょっとはね。皮膚移植するしかないし、それって別のところも傷つくわけだから、やらないことにした」
 あっけらかんとした亜夜に向けた聖央の眼差しはまた力をなくした。
「あ、でも気にするような傷じゃないって、小野先生が云ってくれた。見た目のせいで傷つけられるようなことがあっても、その程度の人のほうがよっぽどかわいそうだし、人同士が付き合っていくのに心は絶対不可欠だけど、躰はどんなでもいまある状態が充分なんだって」
「小野先生って、リハビリの?」
「うん。ホームシックになりかけたとき――たった一カ月間なのにホームシックだよ! 自分でも子供だなって思うけど、そのとき、すごく困らせちゃったの。それから、あたしと万里を外へ連れだしてくれたり、どんな話も聞いてくれた。でもやさしいだけじゃなくて、厳しいことも云ったりするし、お兄ちゃんがいたらこんな感じかなって思ってる。セーオーと……同じだね」
 最後のひと言が遠慮がちになったのは気づかれたのか、亜夜が同意を求めると、聖央は曖昧に笑った。
「あ、話、逸れちゃった。えっと……だからね、何度も云うけど、気にしないで――って云っても無理だろうけど、とにかく心配しないで。それに、この傷はあたしにとっては戦利品なの。教訓かな。その意味で大切な傷なんだ」
「教訓?」
「そう。でもいまはまだ、ほとんど成果が出せてないの。活かすことができたら教えてあげてもいいよ」
「そんなことで恩着せるのかよ。ま、とりあえずは楽しみにしてる」
 聖央は期待しているのかいないのか、可笑しそうに云った。
「じゃ、マッサージしてやる。痛かったら云えよ」

 

 それからマッサージの間、亜夜は二年間の出来事を話した。自分でも呆れるほど喋り続けた。聖央は小さく笑いながら、相づちを打ち、ときには質問をし、そして、ほとんどを黙って耳を傾けていた。一方的に話しているだけだったが、亜夜はその時間が楽しくて、終わったときは心底からがっかりした。
「またな」
 聖央は立ちあがり、そして、部屋を出ようとドアノブに手をかけたとき、ふいに振り返った。
「明日……」
 ためらっているのか、聖央はそこで言葉を切った。
「明日?」
「明日、また見にくるんだろ?」
 今度ははっきりと声に出して、聖央がイエスの返事を求めた。口調は命令に近い。
 亜夜は戸惑いながら聖央を見上げた。
「でも……迷惑かけるし……」
「関係ねぇよ。だれになんて云われようが、それをいちいち気にしてたらキリがねぇだろ」
 乱暴に云うと、聖央はジーパンのポケットに親指を引っかけてドアにもたれた。
「だって……」
「おまえは、おれの選択を見届ける必要があるんだ」
 聖央は断言した。
「選択……?」
 すぐにはその意味が理解できなくて、亜夜は聖央の言葉を繰り返して問いかけた。
「サッカーを続けるのか、やめるのかってことをさ」
「そうなの?」
「違うか?」
 逆に問い返されて、亜夜は考えこんでしまう。
「ほんとに行っていいの?」
 返事のかわりに聖央は肩をすくめた。
「じゃ、普通にスタンドで見てる」
「それはだめだ」
 聖央は即座に拒絶した。
「どうして?」
「明日は土曜日だ……人が多いと思う」
 そんな心配はいらないのに。
 亜夜は首を振った。
「スタンドがいっぱいになるわけじゃないよね? 試合じゃないし、人が少ないところにいるから」
「……大丈夫か?」
 聖央は心配そうにしながらも、亜夜に意思を譲った。
「平気。それよりも、セーオーが嫌味云われるほうが嫌なの」
 聖央が躰を起こして亜夜の正面に来た。かがみこむと、亜夜の頭に手を置いてぶるんと一度だけ、目がまわりそうなくらい振りまわす。
「亜夜が気にすることねぇよ」
「だって怒ってた。手がふるえてた。抑えなきゃ、殴りかかってた」
「あれは、亜夜が気にするようなことを云うからだ。自分のことだったら、聞き流せるくらいの我慢はもう身につけてる。おれだって成長してんだよ」
「ほんとに……行っていいの?」
「しつこい。まえのおまえなら、来るなって云っても来てるだろうが」
「そんなことない! セーオーに迷惑がかかるってわかったらしないよ」
 亜夜は心外だと抗議した。
 聖央はにやりとした。
「そういうことにしといてやるよ。じゃな」
 聖央が帰ったあと、亜夜は躰中の空気が抜けきるほど深くため息をついた。聖央の命令に近い申し出をいいことに、亜夜は聖央からの卒業を延期してしまった。どこまでもかすかな希望に縋ろうとしている自分に呆れる。
 バカだよ。
 心がぽつりとつぶやいた。

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