――あたし、気づいたんだ。ずっと聖央に頼りっぱなしで、甘えてばかりで迷惑とか面倒とか、いっぱいかけすぎてた。あたしはずっと、聖央とふたりでひとつだって思ってたけど、やっぱり、個々の人間で……あたしはこれから独りでやっていけるようにがんばるから――。
聖央は何かを失ったように表情を揺らした。
「わかってくれた!?」
「……けど――」
「許さないからね、サッカーやめたら。サッカーを選んだんだから。これでも、いろんなことに、すごくショックを受けてるつもりなの」
聖央には最後までまともに云わせないまま、亜夜はぷいとそっぽを向いた。
「もう出てって」
しばらく息づまるような沈黙が流れたあと、ドアが開いてゆっくりと閉じられた。
堪えきれず、亜夜の口から嗚咽が漏れた。
ごめんね、聖央。こんな云い方しかできなくて。いままで、ありがと、聖央。わがままだらけで。邪魔者は消えるよ。それでなくても、あたしはもう、重荷にしかなれない。
十二月の半ばから一カ月、中山総合センターに転院してリハビリに費やした。結局、亜夜が完全に学校に戻ることができたのは一月の末だった。
リハビリ期間が至れり尽くせりだっただけに、学校生活はやはり多少の不自由さと苦痛をもたらした。
不自由な躰と聖央の不在は、亜夜を孤独にさせた。
不自由な躰は自己の責任。聖央の不在は自己の決断。
亜夜は意識して聖央を避け続けた。隣と会話できる距離の窓もカーテンを閉めきったまま。学校でも会わないようにと気をつけた。
人知れず、亜夜がサッカーをしている聖央を見ることはあっても。
学年が違うことにずっと不満を持っていた亜夜だったが、こうなったいま、それは救いとなった。
聖央が卒業するまで、あと一カ月余りのわずかな共有期間。それは永く、苦辛だらけの時間だった。
たぶん……ふたりにとって。
接したのは一度。
卒業まえの全校集会で同じ空間を共有した。
聖央は亜夜を気遣う。床に座ることができなかった亜夜に気づいて、先生に頼み、端のほうで椅子に座らせてくれた。
「おれがこんなことをするのは、よけいなお世話だろうけど」
聖央は小さくつぶやくと、しばらく傍に留まった。
亜夜は返事をしなかった。
そのかわりに、周囲からの囁きが耳に届いた。
亜夜は耐えるように手を握りしめる。
聖央がそれに気づいて、「大丈夫か」と、それだけつぶやいて、亜夜の返事も待たずに自分の場所へ戻っていった。
亜夜が聖央に目を向けることはなかった。
その頃には周囲のだれもが、亜夜と聖央の変化に気づいていた。いろんな詮索が出回っている。知名度のある聖央と岬のために、マスコミもが参画していた。
三角関係の成れの果て。最初は世間で、次は身近で。
亜夜は何度も逃げだしそうになった。けれど、潰れるわけにはいかなかった。これ以上、ふられ役になって――役≠ナはなくそのとおりだが、惨めになりたくなかったし、何よりも聖央に潰れてほしくなかった。
そういう孤独な状態のなかで支えてくれたのは、リハビリセンターで出会った万里たちと小野だ。
小野は心配して、時間が許せば学校まで様子を見にきてくれ、送迎も買って出た。トレーナーと患者の立場にしては親密すぎる行為だ。小野はすべての事情を知ったうえで、自分を利用しろ、と亜夜に云った。小野がどうしてそこまで考えてくれるのかはわからない。けれど、このときの亜夜にとっては心強いものだった。
これで聖央は安心してサッカーに打ちこめる。気兼ねなく。
当の聖央にとっては、安心でもなんでもなかった。
「ねぇ、見て、あの子。またお迎えだよ。弥永くんと手を切ったとたん、次の男」
「顔がよければ、だれでもいいんじゃない?」
それらの発言には妬みが混載している。
校門がよく見える三年生の二階の教室からは、亜夜が小野の手を借りて車に乗りこむところが見えた。
「あの子にとってみれば、ハンデ自体が男の同情を引く武器になるんじゃ――」
バンッ!!
激しい音とともに彼女たちのお喋りが途絶える。
担任の呼びだしから戻ってきたばかりの聖央は、机の上に放った教科書をそのままにして、教室を出ていった。
「聖央っ!」
傍にいた健朗が呼びとめても振り向きもしない。
聖央の両手は固く握りしめられている。傷みが溢れそうだった。
健朗は責めるように彼女たちを見た。
「ご……ごめんなさい。戻ってるって知らなくて――」
「そうじゃなくても、きみら、ひどすぎだ」
健朗はそう吐き捨てて聖央のあとを追う。
健朗にもふたりのことは、どうしようもなかった。陰で支えるしか。ふたりで乗り越えなければ。
聖央は卒業するとクラブの寮に入った。亜夜が避けていることを承知していたから、めったに家に戻ってくることはなかった。
双方の両親とも困惑顔で、けれど、いつか、と希望を持ちながらずっとふたりを見守っていた。
それから二年。
スタジアムに行って、S席に通させてもらって練習の見学をすることは、しっかりスケジュール化した。顔パスにしてくれるという健朗の好意はありがたいけれど、さすがにグラウンドまで邪魔してしまうのは甘えすぎだ。
いつものように練習を見ながら右足の屈伸をしていると、ふいに足がつった。
ツッ――。
たまにこういうことがある。痛みに慣れることはなく、亜夜はベンチの縁をつかんで耐えた。冷や汗が出てきた頃――
「どうした」
と、伏せた頭の向こうに聖央の声が聞こえた。
「足がつっちゃって……いつものことなの」
聖央がフェンスを飛び越えてきて、亜夜の足もとにかがむと右足に手をかける。
「いいよ、すぐ治るから」
「バカ。すぐに終わる」
聖央が軽くマッサージをすると、程なく痛みが退いた。
「さすがだね。もう痛くなくなった」
「当然。足のことならおまえよりよく知ってる」
聖央は下から斜めに亜夜を見上げると、くちびるの端でにやりと笑った。
その視線は、亜夜の鼓動を少しだけ早くする。以前はなんでもないしぐさだったのに、やはり、ちょっとだけ免疫がなくなっているみたいだ。
「あーあ、だれかさんはいいよな。オーナーの息子と親友だからっつって、堂々と女を連れこめて。何が天才だか。その程度でいい気になんなよなー」
これ見よがしの中傷に、亜夜も聖央も時間が止まったように凍りつく。
「お、おい、やめろよ」
別のだれかが止める声に、「はいはい」と、悪びれた様子もない返事が聞こえる。
亜夜は顔を上げることができなかった。
聖央は立ちあがる。強く握りしめている手が目に入った。その表情は見上げなくても手に取るようにわかる。亜夜は引きとめるように聖央の右腕をつかんだ。
その直後に聖央は大きく息を吐きだすと、亜夜の手を左手でつかんで、つかの間、強く握り返した。
「あっためとかないと」
聖央はそう云ってまたかがむと、亜夜の右足をほぐし始めた。
甘えてはいけないと思っているのに結局は甘えきって、亜夜はまた聖央を困らせてしまう。いつもそうだ。
職場である領域へのこのこと入りこんで、聖央の立場を悪くさせた。いつも聖央の足を引っ張ることしかできない。
「大丈夫か」
「あ、うん、もう平気」
聖央は亜夜の頭を撫でるように手を被せてから練習に戻った。
自分のことよりも亜夜のことを心配している聖央。
ほんとにあたしってバカだ。いいかげん、聖央から卒業しなくちゃ。そのためにあたしは、何よりも大事な聖央と二年間も離れた。