失いたくない

第2章 消えない傷痕  5.決心

 

 亜夜が入院して三週間たった頃には、かわるがわるだったお見舞いも、だんだんと同じ顔ぶれになっていた。個室ということもあって、亜夜の入院生活は閉鎖的だ。
「セーオー、あたしのギプス、いつ取れるか知らない?」
「知らねぇよ。そのうち取れるだろ」
「ふーん」
 聖央も両親も足のことを訊ねると、わずかに表情を硬くする。最初の頃は気のせいだろうと思っていたけれど、いまは確信に変わっていた。
「それより、早く問題解けよ」
 聖央は毎日病院へ来る。その日の授業ノートを預かってきて、亜夜の家庭教師をしてくれる。
 亜夜は大事な質問をふたつ抱えた。はっきり訊かなければと思っているのに、どうしてもできないで、ただ怯えていた。
 聖央、クラブはどうしたの?
 あたしの足は動くの――?
 来年プロでやっていく聖央は、三年生の後半になったいまでもクラブに参加して体力を維持している。楓ケ丘はサッカーの名門校で、その活動は日を問わず七時まで行われているはずが、入院して以来、聖央は五時には必ずここへ顔を出す。
 そして、無感覚に近い、右膝の感触は何を告げているのか。
 亜夜は自分自身に決断を迫る。
 けれど、そうしたら、あたしは聖央を失ってしまう。それでもいいの? ――それでも、そうしなくちゃいけない。聖央は聖央自身が思うとおりに。
 それらを訊ねる覚悟を決めさせてくれたのは、意外にも岬だった。
 お見舞いに訪れた岬をあらためて見ると、とても惨めな気分になった。きれいで聡明な彼女に、亜夜が敵うはずがない。
 入院当初、一度だけ岬は聖央に連れられてお見舞いに来た。あのとき、岬は亜夜と聖央の様子を静かに見守っていた。それよりは、観察していたのかもしれない。何を考えていたのか、それはつかめなかったけれど、この状態の亜夜を快く思っていないのは確かだ。
 いま、なぜ岬がここにいるのか。岬ははっきりとそれを告げにやってきたのだ。
「亜夜ちゃん、今日はどうしてもお願いをきいてもらいたくて来たの」
 亜夜はふと呼吸を止め、そして、かすかにうなずいた。
「聖央くんのことだけど……本来なら、いまはクラブにちゃんと出て、プロとしてやっていくための躰づくりをする大事な時期なの。でも今回のことで責任を感じて、毎日練習するかわりにここへ来てる。プロは甘くない。練習の積み重ねが肝心なの。聖央くんのセンスを潰してしまうのはもったいないと思わない?」
 実質的にお願い≠ナはなく命令にほかならなかった。
 まわりくどい云い方に、亜夜は耳をふさぎたくなる。けれど、岬に負けたくなかった。他人から忠告されなくても充分にわかっている。ましてや岬に立ち入られるなど真っ平だ。
 いまはその気持ちだけが亜夜を支える。
「それはサッカーファンとして云ってるんですか、それともセーオー自身のファンとしてですか」
 訊かずにはいられなかった。答えなど聞きたくなかった。
 岬が顔を伏せるのを見て、半ばあきらめの気持ちで亜夜は答えを見つけた。沈黙したままの岬から、つと目を逸らした。
 窓からは、病室とは段違いに寒そうな冬の曇り空が見える。自分の未来を暗示しているようだと亜夜は感じた。
「いいんです……わかってますから。あたしは岬さんと比べものにならないくらい子供だけど、セーオーを犠牲にしてることくらいわかってます……。セーオーがサッカーのことだけ考えていられるようにします。でも、岬さんに云われたからじゃない。あたしがそう思うからです」
「ごめんなさいね。よけいなこと云って」
 岬はうわべだけの気遣いを見せた。きれいな顔にふっと浮かんだ微笑みは、勝者のようでもあり、空笑いのようでもあり、純粋な笑顔とは違っている。岬は、「お大事に」とおざなりの声をかけて病室を出ていく。
「セーオーを……よろしく……」
 そのつぶやきは聞こえたのだろうか――扉は閉まった。
 亜夜は泣かなかった。
 その日の午後、回診のとき、渋る医者を説き伏せて足の状態を訊いた。
 傷をはじめて目にした。気分が悪くなるほど、右の膝は醜い傷で覆われている。
 不思議と取り乱したりすることなく、むしろ冷静に受けとめることができた。
「あたしの右足、動かないんだって」
 その日、亜夜はあっけらかんと聖央に報告した。
 聖央は息を呑んで亜夜を見つめた。知っていたはずの聖央は呆然として見えた。
「間抜けだよね」
 舌を出して笑うと、さらに聖央はショックを受けたようだ。
「大丈夫だよ? リハビリすれば、もとどおりじゃなくても、歩ける程度にはなるらしいから」
 聖央は言葉が見つからないといったふうに口を噤んだまま、感情を隠すように顔を伏せた。その姿は傷みに溢れている。
 もう……終わりにしないと。
 絶対の決断をもって、亜夜は笑みを引っこめた。
「セーオー、もう、あたしにはかまわないで」
 聖央は驚いて顔を上げる。
「セーオーはあたしより、サッカーを選んだんだよ。このケガは自業自得だけど、それだけははっきりしてる。だから、あたしはもうセーオーとはいたくない。ここにはもう来ないで。あたしの傍には来ないで」
「なんで……」
「セーオーはあたしを選ばなかった。あたしはいちばんじゃなかった。それが許せないの!」
「それは――」
「そういうことなの! 知ってるでしょ。あたしがわがままだってこと! もういいよ。セーオーは云ったよね。いつまでも同じようにはできないって。あたしもわかった。あたしの足ももとのようには戻らない。それだけで充分だよ。ケガはセーオーのせいじゃないけど、このままでいたら、あたしは何かにつけて、セーオーのせいにすると思う。そんな嫌な自分になりたくないから」

 ――あたし、気づいたんだ。ずっと聖央に頼りっぱなしで、甘えてばかりで迷惑とか面倒とか、いっぱいかけすぎてた。あたしはずっと、聖央とふたりでひとつだって思ってたけど、やっぱり、個々の人間で……あたしはこれから独りでやっていけるようにがんばるから――。

 聖央は何かを失ったように表情を揺らした。
「わかってくれた!?」
「……けど――」
「許さないからね、サッカーやめたら。サッカーを選んだんだから。これでも、いろんなことに、すごくショックを受けてるつもりなの」
 聖央には最後までまともに云わせないまま、亜夜はぷいとそっぽを向いた。
「もう出てって」
 しばらく息づまるような沈黙が流れたあと、ドアが開いてゆっくりと閉じられた。
 堪えきれず、亜夜の口から嗚咽が漏れた。
 ごめんね、聖央。こんな云い方しかできなくて。いままで、ありがと、聖央。わがままだらけで。邪魔者は消えるよ。それでなくても、あたしはもう、重荷にしかなれない。

 

 十二月の半ばから一カ月、中山総合センターに転院してリハビリに費やした。結局、亜夜が完全に学校に戻ることができたのは一月の末だった。
 リハビリ期間が至れり尽くせりだっただけに、学校生活はやはり多少の不自由さと苦痛をもたらした。
 不自由な躰と聖央の不在は、亜夜を孤独にさせた。
 不自由な躰は自己の責任。聖央の不在は自己の決断。
 亜夜は意識して聖央を避け続けた。隣と会話できる距離の窓もカーテンを閉めきったまま。学校でも会わないようにと気をつけた。
 人知れず、亜夜がサッカーをしている聖央を見ることはあっても。
 学年が違うことにずっと不満を持っていた亜夜だったが、こうなったいま、それは救いとなった。
 聖央が卒業するまで、あと一カ月余りのわずかな共有期間。それは永く、苦辛だらけの時間だった。
 たぶん……ふたりにとって。
 接したのは一度。
 卒業まえの全校集会で同じ空間を共有した。
 聖央は亜夜を気遣う。床に座ることができなかった亜夜に気づいて、先生に頼み、端のほうで椅子に座らせてくれた。
「おれがこんなことをするのは、よけいなお世話だろうけど」
 聖央は小さくつぶやくと、しばらく傍に留まった。
 亜夜は返事をしなかった。
 そのかわりに、周囲からの囁きが耳に届いた。
 亜夜は耐えるように手を握りしめる。
 聖央がそれに気づいて、「大丈夫か」と、それだけつぶやいて、亜夜の返事も待たずに自分の場所へ戻っていった。
 亜夜が聖央に目を向けることはなかった。
 その頃には周囲のだれもが、亜夜と聖央の変化に気づいていた。いろんな詮索が出回っている。知名度のある聖央と岬のために、マスコミもが参画していた。
 三角関係の成れの果て。最初は世間で、次は身近で。
 亜夜は何度も逃げだしそうになった。けれど、潰れるわけにはいかなかった。これ以上、ふられ役になって――役≠ナはなくそのとおりだが、惨めになりたくなかったし、何よりも聖央に潰れてほしくなかった。
 そういう孤独な状態のなかで支えてくれたのは、リハビリセンターで出会った万里たちと小野だ。
 小野は心配して、時間が許せば学校まで様子を見にきてくれ、送迎も買って出た。トレーナーと患者の立場にしては親密すぎる行為だ。小野はすべての事情を知ったうえで、自分を利用しろ、と亜夜に云った。小野がどうしてそこまで考えてくれるのかはわからない。けれど、このときの亜夜にとっては心強いものだった。
 これで聖央は安心してサッカーに打ちこめる。気兼ねなく。

 

 当の聖央にとっては、安心でもなんでもなかった。
「ねぇ、見て、あの子。またお迎えだよ。弥永くんと手を切ったとたん、次の男」
「顔がよければ、だれでもいいんじゃない?」
 それらの発言には妬みが混載している。
 校門がよく見える三年生の二階の教室からは、亜夜が小野の手を借りて車に乗りこむところが見えた。
「あの子にとってみれば、ハンデ自体が男の同情を引く武器になるんじゃ――」
 バンッ!!
 激しい音とともに彼女たちのお喋りが途絶える。
 担任の呼びだしから戻ってきたばかりの聖央は、机の上に放った教科書をそのままにして、教室を出ていった。
「聖央っ!」
 傍にいた健朗が呼びとめても振り向きもしない。
 聖央の両手は固く握りしめられている。傷みが溢れそうだった。
 健朗は責めるように彼女たちを見た。
「ご……ごめんなさい。戻ってるって知らなくて――」
「そうじゃなくても、きみら、ひどすぎだ」
 健朗はそう吐き捨てて聖央のあとを追う。
 健朗にもふたりのことは、どうしようもなかった。陰で支えるしか。ふたりで乗り越えなければ。

 聖央は卒業するとクラブの寮に入った。亜夜が避けていることを承知していたから、めったに家に戻ってくることはなかった。
 双方の両親とも困惑顔で、けれど、いつか、と希望を持ちながらずっとふたりを見守っていた。

 それから二年。

 スタジアムに行って、S席に通させてもらって練習の見学をすることは、しっかりスケジュール化した。顔パスにしてくれるという健朗の好意はありがたいけれど、さすがにグラウンドまで邪魔してしまうのは甘えすぎだ。
 いつものように練習を見ながら右足の屈伸をしていると、ふいに足がつった。
 ツッ――。
 たまにこういうことがある。痛みに慣れることはなく、亜夜はベンチの縁をつかんで耐えた。冷や汗が出てきた頃――
「どうした」
 と、伏せた頭の向こうに聖央の声が聞こえた。
「足がつっちゃって……いつものことなの」
 聖央がフェンスを飛び越えてきて、亜夜の足もとにかがむと右足に手をかける。
「いいよ、すぐ治るから」
「バカ。すぐに終わる」
 聖央が軽くマッサージをすると、程なく痛みが退いた。
「さすがだね。もう痛くなくなった」
「当然。足のことならおまえよりよく知ってる」
 聖央は下から斜めに亜夜を見上げると、くちびるの端でにやりと笑った。
 その視線は、亜夜の鼓動を少しだけ早くする。以前はなんでもないしぐさだったのに、やはり、ちょっとだけ免疫がなくなっているみたいだ。
「あーあ、だれかさんはいいよな。オーナーの息子と親友だからっつって、堂々と女を連れこめて。何が天才だか。その程度でいい気になんなよなー」
 これ見よがしの中傷に、亜夜も聖央も時間が止まったように凍りつく。
「お、おい、やめろよ」
 別のだれかが止める声に、「はいはい」と、悪びれた様子もない返事が聞こえる。
 亜夜は顔を上げることができなかった。
 聖央は立ちあがる。強く握りしめている手が目に入った。その表情は見上げなくても手に取るようにわかる。亜夜は引きとめるように聖央の右腕をつかんだ。
 その直後に聖央は大きく息を吐きだすと、亜夜の手を左手でつかんで、つかの間、強く握り返した。
「あっためとかないと」
 聖央はそう云ってまたかがむと、亜夜の右足をほぐし始めた。
 甘えてはいけないと思っているのに結局は甘えきって、亜夜はまた聖央を困らせてしまう。いつもそうだ。
 職場である領域へのこのこと入りこんで、聖央の立場を悪くさせた。いつも聖央の足を引っ張ることしかできない。
「大丈夫か」
「あ、うん、もう平気」
 聖央は亜夜の頭を撫でるように手を被せてから練習に戻った。
 自分のことよりも亜夜のことを心配している聖央。
 ほんとにあたしってバカだ。いいかげん、聖央から卒業しなくちゃ。そのためにあたしは、何よりも大事な聖央と二年間も離れた。

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