失いたくない

第2章 消えない傷痕  4.アクシデント

 

 二年まえ――。
 聖央を怒らせてしまった誕生日の日、夜になって両親がお祝いをしてくれても、一向に亜夜の気は晴れない。
「どうしたの」
 母がそれに気づいて問いかけた。理由を話すと、やはり亜夜が悪いと云われてしまう。
「亜夜、聖央くんが行ってるサッカーの中継だぞ」
 それが憂うつの原因だとは思いもしない父が、わざわざ教えた。
「知らない!」
 バタンと居間のドアを閉め、二階にある自分の部屋に駆けあがって引きこもった。隣の家の真っ暗な窓を見ると、亜夜は手もとにあったクッションをそれに向かって投げつける。クッションはカーテンを揺らしただけで、亜夜の気がおさまることもなくなんの効力もない。
「バカ。今日はあたしの誕生日だぞ!」
 しばらくくだくだとしていると、今度は不安になっていく。あとで来ると云ってくれた聖央を、亜夜は怒らせてしまった。
 本気で怒っていて……来てくれないかもしれない。
 そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
 ばたばたしながら、パジャマを脱いで洋服に着替えると、クローゼットから薄手のコートを取りだし、バッグをつかんで階下へ駆けおりる。
「あたしもスタジアムへ行ってくる」
 両親は目を丸くする。
「やめなさい。何時だと思ってるの」
「行くの! そうしないとセーオーは来てくれない」
「行っても人が多すぎて見つけられないぞ」
「大丈夫、絶対わかる。ケータイ持ってるから」
 亜夜は両親の制止を振りきってスタジアムへ向かった。
 スタジアムまえに到着したのは九時すぎで、試合は延長戦に入っていた。よほど盛りあがる試合なのだろう、大きな声援が聞こえてくる。
 亜夜はサッカーの事情にうとい。聖央のサッカーを見ることは好きであっても、亜夜はそれ以外のことに興味はないのだ。
 地元のサッカーチーム、ブレイズは優勝に最も近いチームと云われている。それがこのところ負け続きで、優勝を逃がしつつあり、サポーターたちは欲求不満に晒されていた。
 スタジアムの門にもサポーターがたむろしていて、亜夜はそこを通り抜け、スタジアム内への出入り口付近で聖央を待つことにした。
 まもなくスタジアムのどよめきが伝わってきて、試合が終了したとわかった。
「ちっくしょーっ、また負けたぜっ」
 なかに入れないというのに、少しでも近くで応援しようとスタジアムの外でワンセグ観戦をしていたサポーターから悲惨な叫び声があがった。
 電話をしてみよう、と亜夜はバッグから携帯電話を取りだした。けれど、けんかしたままであることがボタンを押す手をためらわせる。迷ったすえ、携帯電話はバッグに戻した。
 やがて、ざわついたスタジアム内からぽつりぽつりと人が出てきた。すぐにそれが波のように押し寄せた。泣いたり、罵声を吐いたりしながらサポーターが亜夜のまえを通りすぎる。
 亜夜はあ然とする反面、そこまで夢中になれる人たちに感心してしまう。もっとも、亜夜が聖央に対する感情は夢中と称するしかないのだけれど。
 どれくらいたったのか、スタジアムから出てくる人も減ってきて、逆に門のところには大きな人だかりができている。選手たちが来るのを待っているのだろう。
 聖央の姿はまだ見えない。もう十時をまわっている。
 背が高いから見逃すはずないのに。そう不安じみて思いながら首を長くして待っていると、人がまばらになったとき、ようやく聖央の姿が目に入った。
 ――!
 聖央の隣には、並んで歩く岬の姿があった。ふたりが必要以上に寄り添っていることに気づいた。聖央は急ぐふうもなく、ゆっくりと歩きながら談笑している。ブレイズが負けたにもかかわらず。
 ふたりに年齢の差など見えない。むしろ釣り合いがとれて見えた。聖央の隣にいるには、子供すぎる亜夜のほうがよっぽど不自然かもしれなかった。
 岬が嫌いだ。
 亜夜の心が怒りに満ちる。
 聖央は亜夜の誕生日を忘れている。そう断定した。
 もう十時半だ。聖央が帰りつく頃にはきっと今日≠ヘ終わっている。そんな雰囲気だった。
 亜夜は怒りを込め、自分に気づくべきだと思いながらふたりを凝視した。
 嫌い。
 聖央はその内心の訴えを聞きとったように、岬の話に耳を傾けるために伏せがちだった顔をふいに上げた。その視線が辺りをさまよう。それが亜夜を捉えると、信じられないといった表情になった。
 聖央は岬に何かひと言ふた言を口にすると、彼女の手を自分の腕から外して亜夜のほうへ足早にやってきた。
「あたしの誕生祝いは?」
 亜夜は不自然なほど静かに訊ねた。
「帰ってから行くって云っただろ」
「あたしの誕生日は今日なの。帰ってくる頃にはもう明日≠ノなってるじゃない!」
 選手を待つ、不満を抱えたサポーターの群れを見ていると、スムーズには帰れそうにない。それにも増してふたりの様子を窺い知れば、到底まっすぐ帰ってくるとは思えない。少なくとも、岬が放すとは思えない。
 屁理屈と思いこみでしかない。それは自分でも承知している。
 けれど――。
「亜夜、ガキじゃあるまいしダダこねんな」
 そうだ。聖央にとってあたしはずっと子供のままだ。妹≠ナあっても女の子≠カゃない。
 そんなことを認めたくはなかった。
 でも……もうだめだよ。あたしはいつまでたっても幼なじみ以上にはなれない。
「セーオーはあのひと≠フことが好きなの?」
「バカ。岬さんは取材してるだけだ。それに五歳も年上だぜ」
 聖央の表情を見たけれど、その本心はつかめない。
「答えになってない……」
 違う、と、ひと言だけでいいのに。
 遠回しな返事に、聖央が自分のことを幼なじみだとしか思っていないと認めざるを得なくて、亜夜は泣きそうになった。
「亜夜ちゃんじゃない。こんばんは。どうしたの、こんなところで?」
 追いついてきた岬が話しかけたが、亜夜はそれを無視した。
「家まで送ってもらうけど、おまえも――」
 亜夜が挨拶を返さなかったことに顔をしかめながらも、聖央が一緒に帰ろうと誘った。
「もういい!」
 亜夜は聖央をさえぎって叫んだ。
「亜夜!」
 和解を示したにもかかわらず、それに応えなかった亜夜を聖央が怒鳴る。
 亜夜は踵を返して人がひしめいている門へ向かった。
「どうしたの?」
「いえ、いいんです」
 背後でなされた会話が亜夜の耳に届いた。
 よくないっ、全然よくないよ!
 心のなかで叫ぶと同時に、我慢していた涙が溢れてくる。目のまえがかすんでよく見えなくなった。
 一刻も早くこの場から立ち去りたくて騒がしい人込みに紛れようとした。その人込みの異様さに気づかなかった。
 選手たちが乗ったバスのクラクションに負けないくらいの悲鳴とともに、前方からうねるように人が倒れてきた。
 涙越しにそれに気づいたときは、もう亜夜が倒れるばんだった。本能的に後ずさりをしたものの、途中でつまずいて尻もちをついた。コンクリートの地面でしたたかに打ったお尻が痺れる。それでも立ちあがろうとした亜夜に別の人がつまずいて一緒に倒れた。小さく悲鳴をあげながら顔を上げると、後ろに下がってきた、ちょうど目のまえにいる人の手から、かついでいた取材用のカメラが抜け落ちるのが見えた。
「危ない――っ!」
 だれかが大声で叫んだ。
「亜夜っ!」
 その声は――主は独りしかいないのに、だれのものか判別がつかない。悪夢としか思えなかった。なぜこんな状況に及んだのか把握できないまま、本能的に避けようと立ちあがるつもりが、へんにひねった右足に痛みが走ってそれもできない。中途半端に伸びた足の上にまともにカメラが落ちた。
 ――っ!
 その上から人が折り重なるようにして伸しかかってくる。
 ――――っ!
 亜夜の口から悲鳴が出ることはなかった。あまりの痛みに呻き声すら出てこない。
 トクン、トクン、トクン……。
 脈に合わせて血が流れだしているのを感じた。右足の痛みと人の重さに呼吸さえままならず、窒息してしまうかもしれない。意識が薄れそうになる。
 あたし、このまま死んじゃうのかな……セーオー――。
 この痛みと苦しさから逃れられるなら、意識を手放したほうがいいと思った。けれど、それは一時しのぎでしかなかった。すぐに意識は戻り、亜夜は再び痛みに襲われる。ただ、重みはもう感じない。
 トク、トク、トク、トク……。
 耳もとで急ぎ足の鼓動が聞こえた。
「亜夜」
 繰り返し自分の名を呼ぶ声も。
 その声はずっと苦痛に満ちていて、亜夜は目を開けなければと思った。
「セー……オー?」
「亜夜!」
 聖央でしかあり得なかった。
 ふるえる声を裏づけるように、その表情は怯えて見えた。
 それだけを見てとると、痛みに耐えるために亜夜はまた目を閉じてしまう。少しでも紛らそうと、聖央の腕をぎゅっとつかんだ。
「わたし、看護師なの。とりあえず止血しなきゃ。ちょっと我慢してね」
 そんな見知らぬ女性の声が足もとから聞こえると、足を持ちあげられてひどい痛みに襲われた。呻いた亜夜の頭を聖央はしっかりと抱く。
「すぐ救急車が来るから、がんばれ」
「……ん……罰だよね……セーオーに……わがまま云って……困らせちゃった……あたし……バカだな……」
 途切れ途切れにつぶやき、亜夜は力なく笑った。たぶん、人生最初で、そして、最後にしたい、最悪の誕生日だ。
「そんなことどうでもいい」
 投げやりに聖央がつぶやいた。
「ごめんね……」
 謝ると、上半身が締めつけられた。亜夜はいまになって自分が聖央の腕のなかにいると気づいた。規則正しい鼓動は聖央の心臓の音で、亜夜を縛るのは聖央の腕だった。
「……っくしょう、救急車はまだかよっ!」
 聖央がだれにともなく叫んだ。そのとき、まぶたを閉じていてもわかるほどに周囲がやたらと明るくなる。
「てめぇら、こんなの撮るんじゃねぇっ! どけよっ」
 聖央の怒鳴り声が辺り中に響いた。
「セーオー……怒らないで……」
 亜夜は手探りで聖央の腕に触れながらなだめた。
「おまえに怒ってんじゃない」
 聖央は乱暴に云った。
「くすっ……怒ってるじゃない……くすくす……」
 亜夜はずっと笑い続けた。ばかみたいに笑い続けた。そうしていなければ痛みに負けそうだった。
 やがて救急車のサイレンが何重にもなって聞こえだした。
「……なんで……亜夜なんだ……」
 救急車のなかで聖央がつぶやいた、祈るようなその言葉がいつまでも亜夜の耳に残った。
 それが心のこだわりになるとは思わなかった。

「聖央くん、家には連絡したから。亜夜ちゃんはどんな様子?」
 あとから追いかけてきた岬が、病院の廊下を急ぎ足でやってきた。救急の待合室は将棋倒しの犠牲者とその付添人とでごった返しだ。
 壁に寄りかかっている聖央はうつむいたまま首を振る。
「膝が……めちゃくちゃになってた。救急車んなかで手を握ってたら、あいつ……自分の手もおれの手も真っ白になるくらい強く握ってるんだ。それくらい痛いのに『ごめん』て笑うんだ……っくしょうっ、なんで亜夜なんだよ!」
 聖央はやりきれなく、握り拳で背中の壁をどんと叩いた。素人目で見たら、亜夜の足はもとに戻るとは思えないような傷だった。切断、という言葉さえよぎっている。
「聖央くん、あなたのせいじゃない。偶然、事故に巻きこまれただけなのよ」
 聖央は首を振って岬のなぐさめをはねつけた。
「おれが怒って置き去りにしてきたせいだ。今日……亜夜の誕生日なんだ。試合を見にくるまえに、いつもみたいに祝ってやれば……けんかなんてしなかったらこんなことにはならなかった」
「けんかしたからって、スタジアムに来るってわかるはずないでしょう?」
「……あいつ、謝りにきたんだ」
「え?」
「ずっと亜夜を見てきた。亜夜が追いかけてくることはわかってたんだ」
 手術室のドアに目をやり、それがまだ開かれる気配もないことを知ると、聖央は再びうつむいた。どうすることもできない自分の無力さがはがゆい。
「聖央くん、亜夜は!?」
 廊下を通ってくるその声に聖央はハッと顔を上げた。
「おばさん……いま、手術室に……」
 亜夜の両親と、その後ろから聖央の両親が到着した。
「聖央、いったいどうしたの! 亜夜ちゃんは女の子なのよ!」
「それくらいわかってるさ」
 母の責めに力なく抵抗した。
「いいのよ。聖央くんのせいじゃないんだから。今回のことは亜夜が悪いの。亜夜だってそれくらいわかってるわ」
「すみません」
 聖央は謝ることしかできない自分がもどかしく、情けなかった。
 亜夜の父が、「いいんだよ」と、聖央の背中に手をまわす。
 なんのなぐさめも必要ない。自分に対する苛立ちと、それを上回る怒りが聖央を押し潰した。

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