失いたくない

第2章 消えない傷痕  3.心の傷

 

 亜夜は来たときの服に着替えて、聖央が待つレストルームに向かった。
 受付のまえを通っていったレストルームは、一端のホテルよろしくモダンな造りでかなり広い。付添人の待合室も兼ねるため、ちょっとした軽食メニューも用意されている。
「亜夜、こっち」
 入るとさっそく声がかかった。ここに滞在しているとき、万里を含めて仲良くしていた子たちだ。亜夜はさきにその席に向かった。
「元気だった?」
 舞美と可奈子が開口一番、声をそろえて訊ねた。亜夜は半ば吹きだすようにして笑った。
「みんなしてずっと会ってなかったみたいな云い方じゃない?」
「そうだよ」
「まえはずっと一緒だったんだから、だよね?」
 亜夜はあとを引き継いだ。
「そのとおり!」
 再びふたりはそろって云いきった。大げさな応酬のあと、三人で顔を見合わせると笑い声が渦巻く。こうやって他愛ないことで笑い合える空間が変わらずここにあることに、亜夜はいつも安心感を覚える。
「万里ももうすぐ来ると思うけど。それで亜夜、近況報告は?」
「まあ、いろいろ、ね。話してあげたいんだけど、今日は独りで来たんじゃないの。向こうで待ってるから、あとでまた来るね」
「お母さん?」
「ううん、セーオー」
「ええーっ! どこ、どこに!?」
 一斉に雄叫びがあがって、亜夜は耳をふさいだ。
「ちょ、ちょっと声が大きすぎるよ」
 周囲の視線を感じて亜夜がたしなめた。
「会わせてよぉ」
 それにもかまわず可奈子がおねだりをすると、「うーん」と亜夜は唸る。
「だってぇ、あのブレイズの弥永聖央くんだよ。会いたいに決まってるじゃない。亜夜のカレシだったらなおさらだよ」
「そうそう。紹介してよぉ」
「カレシじゃないってば。そんなこと云うんなら会わせてあげない」
「ごめーん。絶対に失言しないから頼みますっ」
 それでも亜夜がうん云わないと、周囲を顧みないふたりのお願い″U撃が始まった。あまりのうるささに、わざと気が進まないふりをして亜夜は折れる。
「わかった。セーオーに訊いてみる」
「お願いしますぅ」
 舞美のあまりにもきらきらした瞳に亜夜は笑いながら、「じゃ、あとでね」と別れた。
 聖央は奥の窓際の席で待っている。亜夜がゆっくりと向かう間、その目が離れることはなくてどきどきしてしまう。ずっと幼なじみとして接してきて、こんなことははじめてだ。へんに意識して、いつも以上に歩き方がいびつになったように感じた。
「ごめん、待たせちゃったね」
 聖央は肩をすくめ、手に持っていたコーヒーをテーブルに置いた。
 とたんに背後で小さな歓声があがった。舞美たちに違いなく、聖央は小さくうなずき返した。それは火に油を注ぐようなもので、きゃあきゃあと再び彼女たちは騒ぎ立てた。
「ここは居心地いいみたいだな」
 聖央の言葉は、訊ねているというよりは自分に事実を認識させているような云い方だ。
「うん。とっても快適なんだよ」
 亜夜は聖央が用意してくれていたコーヒーを口にした。
「そう見える。友だちもできたじゃん」
 聖央はさほど喜んでいるふうでもない。
「セーオーはいつも友だちをつくれって云ってたね」
 亜夜が意味深長に口にしてみると、聖央はあからさまに不機嫌な顔になった。
「おれは自分のために云ってたんじゃない」
「ふーん。じゃあ……安心した?」
 何気ない問いかけのはずがすぐには答えがなく、聖央はしばらく沈黙した。そして――
「……安心なんかできるかよ」
 聖央は吐き捨てるようにつぶやいた。
 その表情から内心がつかめそうな気がしたのに、読みとるまえにそうする亜夜に気づいて、聖央は素早くポーカーフェイスになった。
「あとで友だちと一緒していい?」
「かまわねぇよ。それより、ここの費用はどうしてる? けっこうかかるだろ」
「うん。あたしも贅沢だって思ってる。うちが払ってるわけじゃないの。サッカー協会とテレビ局が出してくれてる。知らなかった?」
「補償のことは見当つくけど」
 聖央は、詳細までは知らないのだろう、首をひねった。
「それと別にね、通院費とかいって月々の手当てもあるの。補償はしてもらってるから、お父さんはそこまでいらないって云ったのに、きいてくれなかったんだよ」
 聖央は小さく吹いた。
「何か可笑しい?」
「おまえんちらしいな、と思ってさ」
「人間てよけいなお金を手にしたら、できそこなっちゃうよ」
「そういう自覚があるなら大丈夫だろ」
 からかい口調は止まらない。
「とにかく! 学費も親に頼らなくていいくらいなの。安心した?」
 亜夜はむっとしながらも、安心という言葉を繰り返した。
 けれど、ついさっきまでの様子とは打って変わり、聖央の表情は安心どころか重々しくなった。
「それでも、おまえの右足とかえられるものじゃない」
 すぐには切り返せないほど、怖くなるほど、聖央は真剣だった。
 聖央の脳裡には二年まえのことがよぎっていた。事故のあと、退院した亜夜の歩く姿をはじめて目にしたとき、ステッキに頼らざるを得ない現実にあらためてショックを受け、それからその衝撃は、ずっと、少しも、和らぐことがない。
「おれは……恨まれて当然だと思ってる」
「……二年まえはね。いまはそんなこと思ってない。あの時点ではショックだっただけで……」
「おまえは徹底しておれを避けてた」
「……そんなすぐには立ち直れないよ。でも、いまは……。あたし、平気だから」
 最後の言葉はきっぱりと宣言じみたのに、聖央は黙りこくってしまった。
 聖央はもともとお喋りではない。それにも増して、いまはまえとは比べものにならないくらい無口になっている。
「亜夜」
 ようやく口を開いた聖央は普段に戻っていた。
「足、見せろよ」
 唐突すぎて、亜夜は思わず訊き返す。
「足?」
「さっき、プールでさきに行けって云ったのは傷を見せたくなかったんだろ?」
 聖央は理由をすっかり承知していたのだ。長年、亜夜を見てきた聖央をごまかせるなどと思うほうがどうかしている。
「違う。水着姿を見られたくなかったの。色気ないし」
 亜夜はためらわずにはいられない。傷を見てしまったら、聖央の傷が深くなりそうな気がした。
「おまえに色気は期待してないよ」
「ひどいこと云う」
「話、逸らすな」
 聖央は咎めた。
「……わざわざ見なくていいよ」
「なんで」
「だって……見た目いいもんじゃないし」
「それはわかってる」
「だめ。見たこと、絶対後悔するもん」
「かまわねぇよ」
「イヤ」
「おれが原因だぞ。全部、受け入れる義務がある」
 やはりまだ聖央の考えは変わっていない。
「違うよ。セーオーには原因も責任もない。セーオーのせいだとか思ってない。その証拠に、みんなにセーオーのこと話してるでしょ。普通、恨んでたら話題にするのも嫌なはずじゃない?」
「見せろよ」
 亜夜の言葉を無視して、聖央は自分の主張を続けた。
「見せても、何も変わんないよ」
「変わらないから見せろっつってんだろ」
「や!」
 しばらく押し問答が続いた。だんだんと聖央の表情がきつくなっていく。
「亜夜!」
 整った顔で苛立ちをあらわにされると、逆らえない迫力がある。けれど聖央の場合は慣れもあり、亜夜は最後の悪あがきをした。
「だって……人がいっぱいいるとこでスカート上げられないよ」
 それを聞いて、凄みを増していた聖央の表情がわずかに緩んだ。
「わかった。けど、あとで必ず見せてもらうからな」
「知らない!」
 聖央の意思をかえることのできない自分が情けなくなる。むっつりとして亜夜がそっぽを向くと、聖央は肩をすくめてしてやったりと笑った。
「云っとくけど、あたし、セーオーに責任とか感じてほしくない」
「あの日、ちゃんとおまえのほうを優先してれば、あんな事故には巻きこまれなかった」
 聖央は逃げたりしないと云わんばかりに、まっすぐに亜夜の瞳を見ている。
「違うよ。あれは、あたしのわがままが引き起こしたことだから。セーオーが帰ってくるのを待ってればよかったんだよ。セーオーが約束は絶対に守ってくれることを知ってたのに……。このケガのことで何を後悔してるかって云ったら、それはあたし自身の愚かなわがままだよ。セーオーがずっとこだわってるなら、あたしはますます自分を嫌いになる。この足よりそっちのほうがずっと嫌だよ」
 亜夜も聖央をまっすぐに見て、はっきりと本心を告げた。
「バカ」
 聖央はつと瞳を逸らしてつぶやいた。

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