失いたくない

第2章 消えない傷痕  2.Blank

 

 カウンセリングルームを奥に進んだところに中二階のリハビリ用プールがある。柿原の指示どおりの順でそこへ行くと、水着に着替えてから持たされているスケジュール表を理学療法士に見せた。三十分の水中歩行を指示される。
 二十メートル四方のプールのなかは二メートル間隔でバーが設置され、そのプールを取り囲むように付き添い者や休憩者用の椅子が置かれている。亜夜はスロープから胸下まである水中に入った。
「亜夜、会いたかったよー」
 ゆっくりと往復を繰り返していると、ふいに背後から甘えた声が亜夜を脅かした。同い年の伊原万里だ。水の立つ音と流しっぱなしの音楽に邪魔されて、まったく気づかなかった。びくっとして振り向く間もなく亜夜は抱きつかれた。
「万里! あとで部屋に寄るのに」
 亜夜は躰を反転させて、その声のとおりびっくりした顔を万里に向けた。
「柿原嬢が教えてくれたの。亜夜と早くお喋りしたくて、プールの時間を変更してもらったんだ」
「何をそんなに早く訊きたいかな?」
 惚けた亜夜の脇腹を万里が肘でつつく。
「わかってるじゃない。わがままな亜夜ちゃん、もったいぶらないで」
 聖央と仲直り≠オたことを話してから、万里は電話するたびに状況を訊きたがった。今度ね、と切り抜けてきた亜夜も、聖央が同行している以上、もう避けられない。万里がよけいなことを聖央に云うまえに釘を刺しておいたほうが賢明な気もする。
「他人からわがままだって云われるのは嫌いだってこと、知ってるよね。もう話してあげない」
「うわぁーん、撤回するから話してよ」
「やだ」
 そんなふざけた調子で、追いかけっこじみたことをしたりと、ふたりは歩行を続けながら、しばらく猫みたいにじゃれ合った。亜夜は散々焦らしたあと、甘え攻勢を徹底し続けた万里に勝ちを譲った。
「それで、何が訊きたい?」
「そうね……いちばん訊きたいことはあとに取っといて、まずは下界のこと。どう?」
「いつものとおりだよ。意外と好調だし、人の視線が痛いときもあるし」
 亜夜が大したことないといったふうに答えたのにもかかわらず、万里はがっくりとため息をついた。
 万里が云う下界とは健常者の生活圏のことだ。なんらかの障がいを持つ人にとって住みにくい下界と違い、ここは至れり尽くせりのまさに理想郷だ。世間で少数派でしかない障がい者の立場は明らかに弱い。何気なくても人の視線はつらいし、設備不足を考えたら、いざ外へ出かけようとするとき勇気と覚悟を必要とする。
 亜夜の右膝はほんの申し訳程度しか曲がらない。学校という平等な場さえ、生徒用は和式のトイレしかなくて、亜夜はいつも職員用のお手洗いまで行った。そんな些細な苦労が積み重なって、時に心労に変わる。
 亜夜と違って、長い時間をここですごしている万里は、そういう意味でとても臆病になっていた。亜夜がここに来るたびに世間のことを訊きたがる。大丈夫だよ≠ニいう安易な言葉だけですませてもいいのかもしれないけれど、万里にはそうしたくない。
「ちょっと不便だよ。万里もいずれは戻るんだし……大丈夫?」
「大丈夫じゃない。でも……ずっと逃げてるわけにもいかないよね」
 ここにいる人の半分は世間から追われてきた人たちだと云っても過言ではない。自分の非力さにどうしようもなくなってやってくる。ただ、それを弱いと片づけてはいけない。この場所は勇気を集めるためにあるだけで、逃げ場所ではけっしてない。
 特別視するだけで、受け入れない世のなかのほうがよっぽど弱く病んでいる。もし障がいを持たなかったら、亜夜もその一人だったかもしれないということも否めない。
 万里は亜夜と同じように、二年まえまでは健常者だった。
 車の事故に巻きこまれて、頭を強く打った後遺症から右半身が不自由になった。いま手術直後とは比較にならないほど回復した。だれもが読めるくらいの字を書けるようになったし、右足もかすかに引きずる程度だ。ただし、完璧には戻らない。
 万里のショックは計り知れない。
 だれしもそうだろうし、亜夜にとっても衝撃だった。それでなくても傷ついた。そんな簡単な言葉では表せないほど。ただし、亜夜の場合はそのことよりも聖央のことのほうが大事だった。
 あとで気づいた。自分に精神的後遺症があることに。
 それでも亜夜の障がいはごく軽いうちで、いつまでもうじうじしてはいられないと思った。
「お母さんがね、また遊びにきてって。あたしより楽しみにしてるんじゃないかって思うけど」
「もちろん、行くわよ」
 ふたりは水中歩行をしながらずっとお喋りをした。
 亜夜にとって万里は親友と呼べる友だちだ。同じ時期にここへ来て、亜夜の一カ月のリハビリ集中期間を同じ部屋ですごし、話が尽きることなく、いろんなことを語り合った。退院しても付き合いは続いて、ときにはけんかもするけれど、ごめん、と素直に云えて仲直りができるし、障がいのことでは特に互いが支えになっている。親友という、亜夜がはじめて築いた関係は限りなく居心地がいい。
「聖央くんはどうしてる?」
 万里はついにいちばん訊きたかったことを口にした。わかっていてその話題を持ちださない亜夜に痺れを切らしたらしい。
「……うん」
「なんなのよ、その返事は」
 亜夜の歯切れの悪い返事に、万里は立ち止まった。
「ちょっと怖いの」
「何が?」
「セーオーが壊れちゃいそうで……あたしが知ってた強いセーオーじゃないの。あの事故でいちばん傷ついたのはセーオーなのかもしれない」
 万里が左手を伸ばして、亜夜の頬をつねった。
「バカね。躰も心のことも、いちばんの被害者はあくまで亜夜なの。それは間違っちゃだめ。聖央くんはきっと……」
 尻切れトンボで終わった万里は、一点を凝視して硬直した。
 万里の視線を追ってプールの入り口辺りを見ると、そこには聖央が壁に寄りかかって立っていた。
「あの人って……聖央くんじゃない! どうして一緒に来てるって云わないのよ!」
 我に返った万里は即座に亜夜を責めた。
「柿原さんは云わなかったの? てっきり知ってると思ってた」
「じゃなくて、柿原嬢は意地悪したんだよ。あたしたちがあとで会うってわかってるのに、わざわざ亜夜が来てるって知らせてきて。ああ、もっときれいな恰好して会いたかったよぉ」
 万里が心底から嘆いている様子を見せたので、浮かない顔をしていた亜夜も思わず笑った。
「大丈夫。万里は充分きれいだから」
 事実、万里はきれいだ。どちらかといえば童顔の亜夜に対して彼女は大人っぽい。
「柿原嬢はわざと云わなかったんだよね。あたしたちがすごく聖央くんに会いたがってたこと、充分に知ってるんだから。まだ舞美たちだって聞かされてないはずだよ」
「念願叶ってよかったじゃない?」
「それはそうなんだけど」
 万里はまだ不意打ちが許せないようで首をくいっとかしげた。こういうときは彼女の勝ち気な部分が顔を出して、なかなか引いてくれない。
「それにしてもいい男だわねぇ」
 歩行を再会した万里は、芝居じみてわざと下品な云い方をした。亜夜は声を出して笑う。
「いいな。亜夜にはあんなカッコいいカレシがいて」
「何度も云うけど、カレシ≠カゃなくて幼なじみ≠セよ。間違っても聖央のまえでそんなこと云わないでよ!」
 亜夜がため息混じりに云うと、万里はなぐさめるように笑みを浮かべた。
「そのうち、あたしの云うとおりになるわよ」
 義務とかじゃなくて?
 その疑問は常に亜夜のなかにあるのだが、口に出してだれかに訊ねることはなかった。肯定されることが怖い。
「中田さん、終了です」
 係員が呼びかけた。
「亜夜、みんなレストルームで待ってるよ。あたしもあとで行く。早く終わっても待っててね」
 プールサイドに向かいながら万里は急くように口にした。
「万里に黙っては帰れないよ。あとが怖いもんね」
「手、貸そうか」
 突然、プールサイドの真上から聖央の声がした。
「ううん。ここでは自分でできることは自分でしないと怒られちゃうから。スロープあるから大丈夫だよ」
 亜夜は慌てて遠慮した。それは本当のことに違いない。
「こんにちは。亜夜の親友の伊原万里です」
 亜夜が紹介するより早く、自分から名乗るところが万里らしかった。だいたいが自分で自分のことを、親友だ、などと紹介するだろうか。確かに親しい友ではあるけれど。
「弥永聖央です。よろしく」
「知ってます。亜夜に付き合わされて、ずいぶんサッカーの試合を見せられたから」
「へぇ……それはどうも」
 聖央は亜夜を怪訝そうにして見つめた。亜夜は気まずくなって、こっそりではありながら万里を睨みつける。
「亜夜ってばふた言めには聖央くんの話ばっかりで……あ、ごめんなさい。はじめて会ったのにくん&tけしちゃって」
 万里はぺろっと舌を出して謝った。
 聖央はその陽気さに釣られて笑った。
「かまわないよ。なんたって、亜夜は呼び捨てだし」
 口を挟む機会を窺っていた亜夜は、自分のことをだしにされて不機嫌になる。
「万里、よけいなことは云わない! 柿原さんにも云ったんだけど、話をしつこく訊いてきたのはそっち! それとセーオーは、小さい頃からそう呼んでたんだから、いまさらそんなこと云っても知らない!」
 聖央は肩をすくめる。
「はぁい。じゃ、またあとでね」
 万里はふざけた返事をして、早々に水中歩行を独りで再開した。
「セーオーも向こうへ行って」
「なんで」
「いいから外で待ってて」
 聖央は渋々ながらも思いがけなくあっさりと退いた。
 亜夜はほっとした。

 

 更衣室でトレーナーに着替えると、廊下で待っていた聖央と合流して一緒にエレベーターに乗った。
 降りてすぐの自動ドアから向こうは広いリハビリルームで、多くの人がいろんな器具を使ってトレーニングをしたり、電気器具で治療を受けたりしているのが覗ける。その周りをリハビリトレーナーが行ったり来たりしながらアドバイスをしている。そのなかに亜夜の担当をする理学療法士、小野和也も見えた。
「北沢先生との話、長かったね」
「まあな」
 素っ気ない返事だ。
 小野の空きを待つ間、北沢と何を話したのか聞きだすつもりだったが、これでは教えてくれそうもない。
「寝て待ってるんじゃなかった?」
「見学してんだよ。おまえの二年間には欠かせないとこだろうが」
「……うん」
「中田さん、どうぞ」
 曖昧に返事をしているとスタッフから声がかかった。待合室からリハビリルームへ案内される。一部では若い子たちのお喋りの声が湧き、一部では黙々と処置が行われるというおなじみの空気のなか、人や器具の間を縫って奥に行った。
「こんにちは、小野先生」
「おう、久しぶりだな」
 マットが並ぶ場所に着くと、壁に向かってカルテを確認していた小野が、振り向きながらいつもの威勢のいい声で出迎えた。
「今日はセーオーと一緒に来たの」
 小野が亜夜の背後に目を向けてその姿を確認するまで間が空いた。
「幼なじみの聖央くん?」
 小野は少し目を見開いて云い、聖央は一歩まえへ踏みだす。
「弥永聖央です」
 聖央は今日、四度めになる自己紹介をした。
 小野は立ちあがり、握手を求めて右手を差しだす。聖央が応じると、挨拶としてはめずらしいほどの力を込めて握りしめられた。
「小野和也です。よろしく。テレビで見るより迫力あるよなぁ。サッカーは好きなんですよ。きみのテクニックはだれにも増して見事だ」
 小野が話をしている間、聖央は自分の右手をじっと見つめている。どうしたのだろう――そう疑問に思いながら亜夜が、「セーオー?」と呼びかけると、聖央は手から目を引き剥がすようにしてやっと顔を上げた。
「どうかした?」
「なんでもねぇよ」
 聖央はすぐに打ち消したが、亜夜は納得がいかなくて首をかしげる。聖央の不安定な様子は亜夜をも不安にさせる。
「中田、マッサージやるからマットの上にうつ伏せになって。弥永くんは適当に座っててくれ」
 小野は亜夜の右足の筋肉をほぐして膝の屈伸を始めた。二十度くらいしか曲がらない膝は、それをすぎると痛みを伴う。その限度を知り尽くしている小野の治療が続いた。その間、さっき万里と会ったことから始まって、亜夜はほとんど独りで喋っていた。仰向けになって同じことが繰り返されると、小野は次に左足のマッサージに取りかかる。
「使わないでいると固まってますます動かなくなるから、なるだけマッサージをしたり、歩いたりしないといけない。左足も右が不自由なぶんだけ負担がきてるから、注意しないとだめなんだ」
「それって耳にタコ」
 ちゃかすと、小野は亜夜の頭を指先で弾いた。
「弥永くんに云ってるんだよ」
「痛い。それこそ野暮じゃない? セーオーは足を使うプロだよ。そんなことは知ってるに決まってる。ね、セーオー」
 聖央に同意を求めると、「まあな」と短い返事がきた。
「そういやそうだ。愚かな助言だったな」
「そんなことないですよ。おれにマッサージ方法を教えてもらえますか」
 その発言にハッとして聖央を見ると、その顔は真剣だった。
「あたし、自分でやる方法を習って毎日やってるから大丈夫だよ」
「そうだな。弥永くんなら適任だ」
 亜夜が断っているというのに、小野はまったく逆のことを云いだした。亜夜の意思には無頓着で小野は続ける。
「状態は本人よりも客観的に判断できるだろうし、マッサージのやり方による良し悪しを熟知していれば云うことなしだ。その点、サッカー選手である弥永くんならベストだな」
「先生! セーオーはだめ。ハードなスケジュールで疲れてるからそんな余裕ないよ」
「そんなことねぇよ。おれにだって休みはある。プロ一年生じゃあるまいし、なんてことねぇよ。毎日やってやるって云ってるわけじゃないだろうが」
 聖央はなんでもないことのように軽く諭したけれど、亜夜は後悔した。
 やはり送ってもらうべきではなかった。聖央は思い立ったら必ず実行する。そう知っているからこそ、一緒にここへ来るという申し出を拒みきれなかった。
 けれど今回は、亜夜のほうが絶対の頑固さをもって拒否すべきだったのだ。ここに連れてきたら、聖央がまた二年まえと同じことを繰り返すとわかっていた。それなのに、聖央が送ると云ったときにそれを喜んでいる自分がいて、その気持ちを優先した。
 二年間の埋め合わせをしたいと、ただそれだけの想いが今度こそ聖央を追いつめてしまうかもしれない。
「するしないは別にして、教えるぶんには僕は全然かまわない。いざってときは弥永くん自身のために役立つかもしれないだろう。なんといってもサッカー選手は足が命だからな」
 亜夜が黙ってしまうと、小野が気を利かせてフォローした。それでも黙っていると、聖央が亜夜の頭の上に手を置いた。何も云わないけれど、その手は気にするなと伝えてくる。気にしないわけにはいかないが、亜夜は渋々とうなずいた。
「痛くしないでね」
「バカ」
 聖央が小野に習って亜夜の足の扱い方をマスターすると、やがてリハビリのプログラムは終了した。
「さあ、終わりだ。伊原とはまた話していくんだろ」
「うん、よくわかるね」
「中田と伊原の行動パターンだろ。じゃ、また一カ月後に。無理するなよ」
「えぇっ、いま、運動をしなさいって云ったじゃない」
 亜夜が大げさに云い返すと、小野は真面目な表情で首をひねり、立てた親指を自分の心臓に当てながら正す。
「心の問題だよ」
「うん、大丈夫」
「じゃ、弥永くん、中田を頼みます。そのうち、サッカーを見にいかせてもらいたいな」
「はい、ぜひ」
 そう答えた声は心なしか活気に欠けていた。

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