失いたくない

第2章 消えない傷痕  1.心の傷

 

 したいようにして三日め、亜夜のクラブ見学と終了後の聖央の見送りと、それぞれがふたりの日課となりつつある。
「明日は見にいけないから」
 帰りのバスのなか、隣に座った聖央が亜夜を振り向いた。
「なんで?」
「リハビリ。あたし、いろんな意味で油断しちゃうから、一カ月ごとに診断とかを受けにいくってことになってるの」
「……じゃ、おれが送ってく」
「えっ……いい、いいよ。練習サボっちゃだめ」
「バカ。明日は――木曜日、おれはチーム練習は休みにしてる」
 そういえばいまはシーズンオフで、チーム練習は強制ではない。最初から亜夜は間抜けなことを云っていたらしい。
 それを指摘せずに理由を聞きだした聖央は、策略家としてこの上ない。
 よけいなことを口にして後悔する亜夜は、思わぬ申し出にしばらく迷った。同時に聖央の云いだしたらきかない頑固さも充分に承知している。
「じゃ……頼もうかな」
「オーケー」

 

 次の朝、約束の十時きっかりにドアチャイムが鳴った。さすがはお隣さん≠セ。
 亜夜が二階からゆっくりとおりる間に、母がぱたぱたとスリッパの音を立て、玄関へ迎えにでた。
「いらっしゃい。今日は甘えてしまってごめんなさいね。すぐに亜夜もおりてくるから、ちょっと待ってて。それにしてもなんだか懐かしいわ。迷惑をかけるけど、これからも亜夜をよろしくね」
 そこから始まって母のお喋りは、亜夜が玄関にたどり着くまで延々と続いていた。
 やっと仲直りをしたと思っている母はよほどうれしいのだろう。それは父も聖央の両親も同じで、日曜日に家族同士で食事をした夜は大人気ないほど四人ともがはしゃいでいた。当の本人たちにとっては仲直りというにはぎこちなくて、居心地はけっしてよくはなかった。
 弥永家が共働きというのに対して、中田家は母親が専業主婦で、お喋りの場は限られている。いま母はここぞとばかりに話しかけていて、聖央は苦笑しながら相づちを打っている。その姿が過去とだぶった。母が云うようにこの光景は本当に懐かしい。
「お待たせ」
 靴を履く間、母が今度は亜夜に向かって喋りだす。
「先生方によろしく伝えてね。それから万里さんに遊びにきてくださいって云うのよ」
「それは昨日も聞いた。行ってきます」
 聖央が支えているドアから早々に出ると、亜夜はため息をついた。その意味を察した聖央は小さく声を出して笑った。
「おばさん、相変わらずだな」
「うん。病院に行くたびに同じこと云ってるの」
 うんざりした様子の亜夜に、聖央はおもしろがったすえ、いきなりとどめを刺す。
「二十年後のおまえだよな」
「――!? 違うよっ!」
「そのうち、はっきりするさ」
 亜夜が口を尖らせて抗議をすると、笑いながら聖央が追撃した。
 そんなことはない、などと亜夜が文句を並べながらバス停へ行こうとすると、聖央が呼びとめた。
「亜夜、こっち。車で行くぞ」
「車……ってだれが運転するの?」
 亜夜のきょとんとした顔つきが可笑しくて、聖央は吹きだした。
「おれ、もう二十歳だぜ」
 云いながら、聖央はジャケットのポケットから免許証を取りだし、亜夜に投げ渡した。それを受けとりながら、亜夜はまた知らない時間を感じた。
 聖央の姿が隣の敷地に消え、入れ替わりに低いエンジン音を立てながら、車が車庫から出てきた。シルバー一色のスポーツカータイプだ。
「亜夜、早く来い。遅くなるぞ」
 車の窓を開けて聖央が急かした。
「これ、セーオーの車?」
「そうだ。ずっと寮に置いてたから、おまえ知らないんだっけ。カッコいいだろ」
 聖央は得意そうだ。自分の好きなものには目がなく、それが手に入ると子供みたいにはしゃぐ。ここにも変わらない聖央がいた。
「自分で買ったの?」
「もちろん。おれがいくら稼いでると思ってんだ」
「ン千万だっけ?」
「ザッツライト」
「なんだかすごすぎて見当がつかないけど、なんに使うの?」
 ごく一般庶民的な好奇心で訊ねた。
 聖央は運転しながら亜夜をちらりと見ると、
「さあな」
 と、教えてくれないまま黙りこんだ。その表情はなぜか硬くなっていた。
 ただ、数分後に口を開いた聖央はまたふざけた調子に戻っていた。
「何が欲しいわけ? ブランド物の洋服とかバッグとか……あ、それともあひるのぬいぐるみか」
「失礼だよ。あたしはもう十八になってるんだから。もうすぐ女子大生だよ!」
 亜夜が怒って抗議すると聖央は片方の口の端を上げて、「わかってる」とだけ応じた。その笑い方は心からのそれではない。
 またもや離れたまますごした時間がふたりの間に立ちはだかる。
 ふたりはそれぞれの変わりない何かを探し求め、変化してしまった何かに慌て戸惑っている。相手に対してどこか遠慮がちな態度は、まだ互いのなかから消えてはいない。横たわっている溝は考えているよりずっと深いかもしれないと亜夜は思った。
「大学合格したら、なんかやるよ」
「うん」
 聖央のその約束事は、亜夜が素直にうなずけるほどさり気ない申し入れだった。それなのに、亜夜は努めて明るく返事をした。

 

 亜夜の家から車で約四十分かかるところ に中山総合センターがある。ほかに類を見ないほど充実したリハビリ施設は、中山学園という小中高一貫の教育施設も備えている。
 門から入ってすぐ見える六階建ての建物がリハビリ施設で、外来患者も入居患者も、ともにこの場所でリハビリを受ける。三階以上が入院病棟で、そのリハビリの棟と渡り廊下を経て、次の建物は学生の宿舎、いちばん奥が教育施設だ。
「送ってくれてありがと。気をつけて帰ってね」
 亜夜が云うと、聖央は気に入らないとばかりに顔をしかめた。
「バカ。せっかくここまで来たのにもう追い払うつもりか。ちゃんと帰りも送ってく」
「でもけっこう時間かかるし、退屈すると思うけど……」
「休憩するとこくらいあるだろ。おれは寝てるから」
 そう云われたら断る理由も見つからず、困惑しながらも、亜夜は聖央を建物のなかへと連れていった。
 玄関正面にある受付へ行くと、おなじみの柿原嬢がだれにと限らず、あなたを待っていましたと云わんばかりの笑顔を向けた。それが、亜夜だとわかると満面の笑みにレベルアップした。
「お待ちしておりました。元気だった、亜夜ちゃん?」
 最初のひと言は社交辞令だったけれど、あとはいつもの砕けた言葉遣いだ。
「柿原さん、大げさです。いつも思うんだけど、ずっと会ってなかったみたいに聞こえるよ」
「あら、まえは毎日のように会ってたんだから、十日も会わないとさみしいのよ」
「その毎日っていうのも、二年まえのちょっとの間の話でしょ。もう慣れてもいい頃です」
 亜夜はわざと呆れたふりをして突っこんだ。
 柿原は小さく首をすくめ、亜夜の後方に控えている聖央に目を向けた。すぐにだれかわかったようで、紹介するより早く聖央に手を差しだした。
「聖央くんでしょう。柿原です。あなたの話は亜夜ちゃんからよく聞かされました」
 聖央はいきなり名まえで呼ばれて一瞬だけ驚いたように目を見開いたものの、「どうも」と応えながらその手を取って握手を交わした。
「よく、じゃないよ、柿原さん。話は強要されたんですからね!」
「そうだったかしら?」
「そうです!」
 亜夜は訂正するのに必死になった。
 二年まえ、亜夜は聖央を拒絶した。いまがどういう関係であれ、仮にも、亜夜は聖央を恨んでいたことになっている。
「とにかく、テレビで見るより実物はいちだんとステキね」
「柿原さん、そんなこと云うと、セーオーがまたつけあがっちゃうじゃない」
「おれがつけあがってるって?」
「違うの?」
 聖央はにやりとした。
「いまさら、わかりきってること云われてもいい気になったりしねぇよ」
「ああもう、それがもうつけあがってるって状態なの」
 柿原は可笑しそうに目を細めて吹きだした。
「いいわね、幼なじみって」
 亜夜は眉をわずかにひそめた。
 その関係もいまは危ういけれど。
 聖央は柿原に向き直った。
「挨拶、遅れました。弥永聖央です。都合がつけばこれからも伺うつもりですので、よろしく」
「ええ、こちらこそ。じゃ、亜夜ちゃん、カウンセリングから温水浴、整体リハビリの順にお願いね」
「はい」
 亜夜は聖央の言葉に気を取られたままカルテを受けとり、うわの空で返事をした。
 いまのって……? だめだよ。あたしはまた聖央の時間を奪ってしまう。そうしないためにあんなことを云ってしまったのに、いままたそんなことをしたらこの二年も全部が無駄になってしまう。
「カウンセリングって?」
 受付の右側から伸びる廊下を通りながら聖央が訊ねた。
 つかの間、亜夜は答えに詰まる。聖央を傷つけるのではないかと思った。ただ、聖央のまえに戻ったいま、隠しとおせるものでもない。
「精神的な後遺症もあって……」
 亜夜が気取れるくらい、聖央はすっと深く息を吸いこんだ。
「慣れない場所で大勢の人がいるところに入れないの。ライヴ会場とかスタジアムとか……まえはデパートや交差点の人込みもだめだった。でもそれはなんとか克服できたから、普通に生活していくのには全然困らなくなったよ」
「けど、スタジアムに来てるじゃないか」
「練習のときは人が少ないから平気。同じ目的を持った人が集まる、密度の高い空間にいられないってだけ。ただ単に人が多いところはだめっていう状態はとりあえず脱したんだから、すごく進歩したでしょ」
 亜夜は重たい空気を振り払おうと、わざと偉ぶって同意を求めた。その努力も虚しく、聖央はそれについては何も返事をしなかった。そのかわりに寝て待つはずだった聖央は同行すると云いだして、気が進まないまま、亜夜は奥のカウンセリングフロアまで連れていく破目になった。
 北沢≠ニいうネームプレートが貼られたドアをノックすると、「どうぞ」と即座にくぐもった声が応じた。
「北沢先生、こんにちは」
「やぁ、こんにちは。調子はどうかな?」
「はい、スタジアムは大丈夫でした。人が少なかったせいですけど」
「よくできました。何事も克服するにはそういった自覚が必要です。徐々に進めていけばいいんです」
 五十歳をすぎた北沢は、カウンセラーには打ってつけの柔和な表情をいつもその顔に宿している。
 聖央が目に入ると、「おや」と云いながら、柿原と同じように手を出した。
「カウンセラーの北沢です」
 聖央もまた手を取って名乗り返した。
「ああ、中田くんのお隣さんですね。申し訳ないね、サッカーは見ていないもので」
「いいえ」
 聖央は北沢が勧めた椅子に座り、亜夜が受けている問診に付き合った。
 質問事項が終わって北沢がカルテに目を通し始めると、亜夜は後ろを振り返った。
 聖央はうつむいている。
「セーオー、疲れちゃった?」
 顔を上げた聖央は蒼ざめて見えた。
「いや」
 亜夜の気遣いを制するように、聖央は片手を軽く上げた。
 いま、本当にカウンセリングが必要なのは自分より聖央なのかもしれない。そう思わせるほど聖央の様子は以前とは違っている。聖央は弱みとかつらさを見せることがなく、だから亜夜がそうわかってしまうこと自体がもうおかしいのだ。
「中田くん、カウンセリングはしばらく期間を置いてもいいよ。半年とか一年とか」
 北沢の所見は思ってもいなかったもので、亜夜はびっくりした。
「発作を起こさないためには熱狂的な集団を避けること。もしくは自分から踏みこんで克服に努めること。踏みこんで、というのは実際のことじゃなくていい。たまに私がすることだ。頭で事故を再現して自分の心の動きを追う。それを何度も繰り返す。その感情に慣れるということが大事になるんです。二年間でこれだけ回復する強さを持っているきみだから、心配なのは無理をすることだ。独りでがんばりすぎないこと。それを注意するんだよ。躰に睡眠が不可欠なように、心にも休息は必要だからね」
「うれしいけど……少し不安です」
「いつもながらきみの答えは百点満点だね」
 北沢は亜夜の素直さを指して微笑んだ。
「もちろん、相談はいつでも受けるよ。高校を卒業して環境も新しくなるし、心の問題は難しいからね。ここでこう云ってしまうのは医者として失格かもしれないが、人間はそう弱いものでもない、というのも私の考えなんだよ」
 それを聞いて亜夜は少し安心した。
「ひとつだけ、課題をあげよう。人は独りで在り得るのか」
「それが……課題ですか?」
「そう。リハビリの一環だよ」
 亜夜はやや難しい顔をして、その言葉を頭に叩きこんだ。
「わかりました」
「けっこう。今日はこれまでですよ。迷ったら遠慮なくここへ来なさい」
 亜夜が立ちあがると、聖央もそれに倣って先立ち、ドアを開けた。
「ああ、中田くん」
 北沢が呼びとめ、「お隣さんを拝借してよろしいかな」と続けた。
「え?」
 亜夜は北沢の申し出を不思議に思いつつ、「セーオー?」と隣を見上げた。亜夜よりずいぶん上にある聖央の表情からは、なんの感情も見いだせない。
「とって喰ったりはしないよ。サッカーの話を訊くだけです。何しろ、プロに会う機会なんてめったにあることじゃないからね」
「先生って、けっこうのっちゃうんですね」
 北沢をからかってから、亜夜はまた聖央を見上げた。
「じゃ、あたしはさきに下へ行ってるね」
 ようやく聖央はうなずく。
 無口になってしまった聖央は、その瞳にも何も映さなかった。

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