失いたくない

第1章 ノーサイド  3.ためらい

  

 グラウンドに入ると、健朗は選手たちから離れた方向へと行き、片隅に無造作に置かれたベンチに亜夜を案内した。
「こんなとこに入っていいの?」
 亜夜はおずおずとグラウンドを見渡した。
「どうぞ、おかまいなく。これでも、オーナー貴刀の御曹司≠ナすよ」
 健朗は亜夜の気をらくにさせようとしてのことか、よく敬称される、もしくは皮肉られる別称――御曹司という嫌った言葉をわざと使っておどけてみせた。
「セーオーは嫌がってるのに」
「いいえ、聖央は了解してます。今度から亜夜ちゃんは顔パスにしておきますから、練習を見るときはここに来てください」
 気が進まないまま、亜夜は半ば強制的にベンチに座らせられた。健朗は、「監督に挨拶してきます」と亜夜に断ってから離れていった。
 亜夜は健朗と違って部外者でしかなく居心地は悪い。かといって引き返すタイミングも失ってしまった。そっと息をつくと緊張は無視しようと努めて、亜夜はいままでよりずっと間近で聖央の動きを見守った。その様子は、さっきよりもいくらかましになったように見えた。
 聖央が了解しているのはどこまでなのか、ここに亜夜がいることをわかっているのか、一度もこっちを見ようとしない。
 すぐに戻ってきた健朗は横に座って優雅に足を組む。育ちがいいせいか、いちいちしぐさが綺麗だ。
「亜夜ちゃん、心のほうはどうですか」
 何も打ち明けていないのに、健朗は出し抜けに亜夜の問題を云い当てた。隣を振り仰ぐと、見下ろしている健朗と目が合った。
「どうして……?」
「聖央を見ていて気づいたんですよ。最近になってやっと断言できたことですが。聖央にあるなら亜夜ちゃんにも、って見当はつきます。聖央はずっとうまく隠してましたよ。僕でさえわからないほどに。亜夜ちゃんもそれに気づいた。だからここへ来たんでしょう?」
 最近になって急に目立ってきたから気づいてしまった、聖央の理解できない行動。聖央は亜夜と同じように、心的な傷を負っているのかもしれない。そう思い至れば納得がいく。
 試合の中継を見ていてずっと不思議に思っていた。負けても勝ってもスタンドを振り返ることはなく、ましてやサポーターたちへの感謝などする気もないように足早にグラウンドを去っていく、蒼ざめた聖央。
 それは傷にほかならない。いまになって心底にあったものがじわじわと浮上している。聖央の傷は隠しとおせないほど深く浸透していた。過去に限った傷ではなく持続していて、それどころかきっと進行している。
 亜夜はどれほどの傷みを聖央に強いてしまったのだろう。自分がいちばん傷ついて犠牲を強いられたと思っていたのにそうじゃなかった。
「聖央は、試合終了後のグラウンドでサポーターたちの声援に応えることができません。それが熱狂的であればあるほど、聖央は蒼白になって控え室に戻っていく」
「あたし……自分がいちばんかわいそうなんだって思ってた……」
 健朗が言明したことで聖央に課した傷みが明確になり、そのつもりはなかったとはいえ、亜夜は自分を責めた。
「そのとおりですよ。いちばんつらかったのは亜夜ちゃんです。だからこそ、聖央は苦しんでいる。けど、あのサッカーセンスを捨てるには早すぎる。いまは自分を見失っていますが、あの事故と、その結果と、すべてを乗り越えないと、ここで逃げだしたりしたら、聖央だけじゃなくて亜夜ちゃんまでもがさきへは進めない。そう思うんです」
 健朗の云うとおりだ。
 ふたりともがいつまでも引きずっていてはいけない。
 うなずいた亜夜に、健朗は口角を上げて力づけるような笑みを見せた。
「聖央はこれまで順調でありすぎたんです。聖央はあらゆる過程でスランプというものを知らない。頭が良くて、サッカーという天性の才能を持ち、あれだけの容姿を備えて、それに……」
「それに?」
 云い淀んだ健朗を促すように首をかしげると、しばらく亜夜に目を留めたあと、健朗はかすかに首を振った。
「いえ。そうですね……強いて云えば、親しくない人には控えめに云ってクールなところがちょっと難ありですね。けど僕たちにとっては性格よしで、聖央が悩みを持っていたかというところも疑問です」
 健朗がのべつに聖央のことを描写すると、可笑しくなって亜夜は吹きだした。
「それは健朗くんにだって云えることだよ。頭良くって、大企業社長の息子で、ケチをつけるところがない容姿をしてて……うーん……強いて云えば、親しくない人には控えめに云って言葉遣いが普通になっちゃうけど、あたしたちにとっては性格よしで悩みなんてないように見える」
「……やられましたね」
 亜夜が健朗の言葉を少しアレンジして返すと、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「まぁ、見えないところで聖央が努力しているところは僕らも知っているわけで。だからこそ、聖央はサッカーを才能とか天才という言葉で括られるのを嫌がるんですよね。挫折なんて言葉とは無縁できてるから、そう称されてもおかしくはない」
「うん。テストの点数悪くて、勉強やる時間がないんならサッカーやめなさいっておばさんに怒られたら、次のテストじゃ満点近く平気で取ったり」
「左足の動きが悪いって云われれば、一年後にはどっちが利き足かわからないくらいまで克服していましたし」
「そう考えると、セーオーってやっぱりすごい」
 亜夜は憧憬のこもった声に、健朗は「ですね」と賛同した。
「あえて云うなら、あの事故が唯一、聖央の試練となりました。それを克服することなくいまに至ったわけで、つまりは亜夜ちゃん、きみが下した決断によって、よけいに聖央は立ち直れなかったんだと思いませんか?」
 健朗はけっして責めているわけではなかったけれど、亜夜の瞳からつと涙がこぼれてしまう。
「ああ……泣かないでください。聖央は亜夜ちゃんがいないとだめだって云いたかったんですよ。困ったなぁ」
 健朗はめずらしく慌てている。
 亜夜は泣いているのは健朗のせいではないと云うかわりに首を振った。泣くつもりも、そんな気配も自分自身が感じていなかったのに、いきなりの涙は理由も見つからず、なかなか止まらない。
 バッグからハンカチを出そうとしていると、ふいに健朗が立ちあがってそのまま数歩まえに出た。
 直後、軽く弾くような音が響く。
「――ィッテ――ッ!」
 健朗の奇声に顔を上げると、なぜか片手にサッカーボールを持ち、もう片方は何かを振り払うようにひらひらとさせている。飛んできたボールを素手でキャッチしたらしい。痺れているのだろう。
「さっすが! 楓ケ丘高のもとゴールキーパーだけのことはあるな!」
 離れたところから聖央が叫んだ。
「プロが素人相手にこんなことしないでください!」
 健朗が抗議しながら、力いっぱいボールを蹴り返した。健朗は小学生時代、聖央と一緒にサッカーを始めて高校までずっと続けていた。まだ足の感覚は鈍っていないらしく、ボールはまっすぐ伸びていく。
「ちょっと足もとが狂っただけさ。悪ぃな」
 聖央は飛んできたボールを胸で受けると、それを自在に操りながら練習に戻った。
「白々しくよくあんなことが云えますよね。こんな突拍子もない方向にボールが飛ぶほど、聖央のコントロールが狂ったことがあるわけないんですから。この際だからって、僕の将来まで潰さないでください」
 健朗は聞こえるはずのない聖央に、訳のわからない文句まで云い続けた。それが滑稽で亜夜の涙もいつしか止まっていた。
「聖央は変わらないですよ」
 亜夜が笑ったのを見て健朗は諭した。
「亜夜ちゃんのことになると見境がなくなるところが。わからないですか? 僕がきみを泣かせたから、聖央はわざと僕に向かってポールを蹴ったんですよ」
 亜夜は目を丸くして、それから短く笑った。
「そう……だね。セーオーはずっとあたしの守護神だった」
 あの女性が現れるまでは確かにそうだった。
「いまもそうですよ」
 亜夜が過去形で云ったことを気にして健朗は修正した。亜夜は首をかしげる。
 たったいまのことがあるとはいえ、健朗の云うとおりなのか確信は持てない。聖央が亜夜に向けた眼差しは、憎しみに近いほどの怒りだったのだから。
 健朗は練習が終わるまで亜夜に付き合った。四時になって解散の声があがったあと、聖央が亜夜たちのところへやってきた。
「亜夜、送るからチケット売り場んとこに待ってろ」
 それは、健朗と話があるからさきに行け、という意味にも聞きとれた。亜夜はうなずいてグラウンドをあとにした。
 聖央の有無を云わせない声音は、大丈夫、と断るひと言さえ口にする余地を与えなかった。感情の見えない聖央の顔が頭のなかに渦巻いている。
 他人にそうすることはあっても、亜夜に対してそういう態度をとることはなかった。あらためてそう思うと悲しい。
 あんな断ちきり方をしたにもかかわらず、なぜか、再会したらすぐにもとの関係に戻れると思っていた。話すことはたくさんあったはずなのに、それさえ吹き飛んでしまうほど、亜夜はさみしい思いしか得られていない。
 聖央は亜夜の本意を知らなかったのだから当然なのだけれど。

 

「待たせたな」
 一時間くらいたって、やっと聖央が来た。
 それだけ云って、聖央はさっさと先立って歩き始めた。亜夜のペースを気遣ってだろう、その歩調はゆっくりとしている。
 バス停まで来ても、横に立ち並ぶ聖央の視線が亜夜に注がれることはない。平行線のままだ。冷たい風と相まってよけいに寒さを感じる。
「進路、決めたのか?」
 息が詰まりそうなこの場所から逃げだしたい気持ちがピークに達したとき、ようやく聖央が沈黙を破った。
「……うん」
 返事をすると、聖央はやっと亜夜のほうを見た。ジャンパーのポケットに手を突っこんだまま、肘を動かしてベンチに座れという素振りをする。
「四月から青南(せいなん)大に行くの……。おととい試験あって、合格したら、だけど……」
 ベンチに腰かけると、亜夜はためらいがちに報告した。受験は終わり、結果待ちで、高校も決められた出校日を除いていまは自由登校だ。
「自信あるんだろ」
「わかんないよ」
 聖央のあまりにも無愛想な態度に戸惑いつつ、亜夜は自信なさそうに返事をした。高校受験のときのように聖央が家庭教師をやってくれていたらもっとらくにがんばれたかもしれない、と思いながら。
 やがてバスが来ると、亜夜はいつものように最後に乗りこむつもりで順番を待った。
 それに倣っていた聖央が、最後まで待って亜夜の背中を押す。
「さきに行けよ」
「あたし、時間かかるから」
「さきでもあとでも変わんねぇだろ」
 それはそうなのだけれど。
 亜夜は気後れしながらステップに杖をついた。バスの乗り降りは、階段と一緒でステップの高さがどうしても動作を鈍くする。聖央は手伝うこともなく亜夜が乗るのを待って自分もあとから続いた。
 手助けするのではなく、できることだから待っている。そんな度のすぎないやさしさは変わっていない。
「すみません。足が悪いんで席を空けてもらえませんか」
 空席がないと見てとった聖央が、二十歳くらいの男性に声をかけた。少し周囲がざわつく。
「セーオー、いいよ。あたしなら大丈夫だから……」
「どうぞ。僕はかまいませんよ」
 その人は親切にすぐに立ちあがって、席を譲ってくれた。亜夜が「ありがとうございます」と云うのは聞こえたのか、その人は聖央をまじまじと見つめている。
「弥永さん、ですよね。いつも応援してます」
「それはどうも。亜夜、座れよ」
 聖央は素っ気なくお礼を云うと、再び亜夜の背中を押した。
 自分が当然だと思えば遠慮なしでそれを人に押しつける。それは、いまみたいに自分のためではなく人のために限られる。そんなところも少しも変わりない。
 家近くのバス停に着くまでの三十分、ふたりはまた黙った。聖央が有名すぎて、お喋りをするにはふさわしくない場所ではある。それとは別に、ぎくしゃくとした気まずい沈黙はふたりの間に重く伸しかかった。
 こういったシーンを亜夜は想像していなかった。
 二年という月日は、実際に長い時間だが、それがとてつもなく長い時間だったと思い知らされる。亜夜が一方的に拒絶したことを考えれば、この結果は受け入れなくてはならないことだ。
「亜夜、降りるぞ」
 亜夜は通りの風景を見て、まもなく到着することに気づいた。そして、亜夜はいつの間にか気まずさから抜けだして物思いにふけっていたらしく、傍に立つ聖央のジャンパーを握りしめていた。
「ごめん」
 慌てて手を放すと、聖央は軽く握った拳で亜夜の額をつついた。
 バスが止まると、聖央がさきに降りて、やはり亜夜が降りるのを見守っていた。
「ありがと」
 バスがクラクションをひとつ響かせて発車する。ふたりは家のほうへと歩いた。
 くっ。
 聖央がふいに笑った。
「セーオー?」
「おまえ、変わってないな。人の服をつかむ癖も、その舌っ足らずなおれの呼び方も」
 そう云って亜夜をちらっと見下ろしたあと、聖央はまた笑った。
 亜夜のなかに希望が差す。
 もしかしたら聖央も、変わったかもしれない亜夜を怖れて、あるいはさみしいと思っているのかもしれない。やっと見せてくれた笑顔は、ふたりの関係を修復するための掛け橋かもしれない。
 けれど、亜夜は聖央の腕を取ることができなかった。けんかしたあとはいつも甘えるように聖央の腕に絡みついて仲直りをしていたのに、なぜかいまはそれができない。
 そのためらいは離れていた時間のせいに違いなかった。
 ふたりはすぐに隣同士の家に着いた。
「家に寄ってから寮に戻る。明日は日曜日だし、チームの練習はないけど……来週も来るのか?」
「……うん、そのつもりだったけど……セーオーが嫌なら……」
「亜夜がしたいようにすればいい」
 亜夜の言葉をさえぎった聖央のぶっきらぼうさは、やさしさからくるものなのか、突き放すためのものなのか、判断がつくことはなかった。

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