失いたくない

第1章 ノーサイド  2.限界

  

 次の日も、亜夜は聖央の練習風景を見るためにスタジアムに足を運んだ。
 心のないサッカーを見ていてつらくなっていく。
 聖央の声が聞こえない。
 高校生だった頃、うらやまれるほどの判断力――才能という言葉で称賛されていたけれど、それをフルに活かして吠えるような声でイレブンに指示を出していた。高校を卒業してプロ選手になってまだ二年しかたっていないのに、いま、そんな聖央の姿はどこにも見られない。ロボットのように、これまでの経験値からフォーメーションされたプログラムによって動いているみたいだ。
「弥永ーっ! やる気がないんならグラウンドからおりろっ! 遊びでやってるんじゃないんだっ!」
 監督のひと際大きい怒鳴り声がスタジアムに反響して、それが途絶えると水を打ったように静まり返った。亜夜は自分が叱責を受けたように感じて身をすくめた。
 聖央の無気力さは限界を超え、すでに監督の目をごまかせるものではなくなっていた。
 選手たちもサポーターたちも亜夜も、そこにいただれもが身動きできずに息を呑んで聖央の動向を見守る。
 聖央は片手で額にかかった髪を無造作に掻きあげると、足もとのボールを思いきり蹴った。そのボールの行方を追うことなく、聖央はゲートへと向かう。
 蹴られたボールはゴールポストのバーに勢いよく当たって跳ね返り、力を失って当てもなくさまよい、やがてやんだ。
 まるでいまの聖央さながらだ。
 あんなふうに云われて、黙って引きさがるの? だってこのままじゃ、あんまりだよ。
 すべての視線がゆっくりと立ち去る聖央の姿を追うなか、亜夜はもどかしく席を立った。だれもいない二階客席の前方へ、鈍いながらも急いだ。聖央がゲートに消える瞬間に間に合う。
「セーオー!」
 亜夜は身を乗りだして聖央の名を叫んだ。それがスタジアム中にこだましても気にしている場合ではなかった。
 聖央の足が止まり、ゆっくりと顔が上がっていく。その瞳が亜夜を捉えた。
 ――――。
 互いに見入ったまま、時間が止まったような錯覚に陥った。
 遠く離れていても見てとれる、聖央の生気の感じられない眼差しに、亜夜は呆然とする。
 いつから聖央はこんなふうになったのだろう。聖央をこんなふうにするつもりなどなかった。
 絶対に。
「……亜夜……?」
 聖央の瞳が揺れる。
 亜夜はうなずいた。
 聖央は、亜夜が想像していたような驚いた様子を見せない。
 その表情はむしろ――。
「なんでここにいる!」
 むしろ、怒りだった。
 亜夜は怯んでしまう。
 その隙に、亜夜の答えも待たずして、聖央はゲートへ消えてしまおうとする。亜夜は挫けているときではないと自分を奮い立たせた。
「セーオー! いま、ここから出ちゃだめ。このまま出てったらだめだよ。もう強制しないから、セーオーをサッカーに縛るつもりはないから。あたしが云ったこと、全部忘れていいから。でも、逃げないで。中途半端で投げだしたら許さない!」
 視線を合わせることはなかったが、聖央は足を止めていて、急いで口走る亜夜の言葉に耳を貸しているように見えた。
 聖央からどんな言葉を待っているのか、亜夜からどう声をかければいいのか、何も見いだせなくて、空気が有り余る大空の下なのに息苦しくなった。そのとき――。
「亜夜ちゃんの云うとおりですよ」
 だれかが口を挟んだ。
 声の主は、と辺りを探すと、一階客席からゲートのほうへと歩いていく人が目についた。
 あの後ろ姿はもしかして。
「健朗くん!?」
 ブレイズ川口のオーナーである貴刀グループの社長子息、貴刀健朗(たかとうけんろう)だった。
「はい。久しぶりですね、亜夜ちゃん。足の具合はどうですか」
 二階を見上げて健朗が訊ねた。
 育ちの良さか、はたまた温厚な性格がもたらすものなのか、相変わらずの丁寧な口ぶりだが率直なところも変わっていない。
 へんな気遣いをされるより、こっちのほうが亜夜にとってはずっと気がらくだ。
「うん、段差がなかったら杖なしでも平気」
「そうですか。がんばったんですね」
 安心したように微笑むと、健朗は聖央に向き直った。
「じゃあ、今度は聖央のばんです。いったいどうしたんですか」
「どうもしねぇよ」
 聖央の乱暴な返事に、健朗はかすかに眉をひそめて不快な気分を表した。
「ならば、戻ってきっちりと練習をしてください」
「それはオーナー側としてか、それとも友だちとして云ってるのか!?」
 聖央はまるっきりけんか腰だ。
「いまはどちらの気持ちも同じですよ」
 対して、健朗はあくまで和やかに応じた。
 聖央は目に見えて苛立っていたが、やがて小さくため息をつき、「オーケー」と片手を上げてグラウンドへと向きを変えた。
 ひとまずほっとして肩をおろしたとき、聖央が亜夜のほうを振り向いた。
「亜夜、おまえにはここにいてほしくない」
 強く冷たく拒絶を放った聖央の言葉に少なからず亜夜は傷ついた。
 聖央は……変わってしまった。
 以前の聖央なら、どんなに亜夜に対して怒っていようが、こんなに冷たい云い方はしなかった。そう思うと泣きたくなる。堪えたぶん、のどの奥が痛い。
 亜夜はくるりと反対を向いて階段をゆっくりのぼり始める。
 右足を引きずりながら歩く亜夜の後ろ姿を聖央は追う。その口から今度は音が立つくらいの深いため息が漏れた。
「健朗、頼む」
「わかってますよ」
 泣きそうになるのを自ら戒めていた亜夜には、その会話が聞こえるはずもなく、聖央の言葉に従って出口へと向かった。
「亜夜ちゃん!」
 スタジアムから出ようかとしたとき、健朗が亜夜を呼びとめた。
「びっくりしました。聖央の調子がよくないと耳にして来たんですが、まさか亜夜ちゃんがいるとは思いませんからね」
 健朗は、ついてきてというような素振りで亜夜を促した。
「セーオーも知らなかったの。昨日も来たんだけど……タイミングがつかめなくて……」
「あんな聖央を見ては、そうでしょう?」
「うん……セーオーは変わってしまってる。会わなかった間に知らない人になってるみたいで……あたし……間違ったことしたのかな……」
 いつも抱いていた疑問だ。亜夜は独り言のように、歩調を合わせてくれる健朗に投げかけた。
 健朗が亜夜の決心を知るわけもないのに。けれど。
「間違いとはだれにも云えませんよ。まぁ、僕の計算よりは長かったでしょうか」
 健朗は亜夜の真意を先刻承知のように、謎めいた返答をして笑みを浮かべた。
「亜夜ちゃん、誤解しないように。聖央が云ってるのは、聖央の近くということではなくて、スタジアムに、ってことですよ」
「……でも――?」
 そのさきは意味するものに気づいて言葉にするのをためらった。
 健朗は亜夜の無言の問いかけに応えてうなずいた。

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