失いたくない

第1章 ノーサイド  1.とまどい

  

 Jリーグディヴィジョン1(J1)の常連サッカークラブ、ブレイズ川口のホームスタジアムの入場口をくぐった。
 家からそう遠くは離れていないが、スタジアムのなかに入ったのははじめてだ。中田亜夜は二階客席の最上階に立ったとたん、二月の冷たい風に煽られた。肩をすぼめてぷるっと身ぶるいしたが、それは寒いせいばかりではないかもしれない。
 スタジアムを見渡すと、想像していたよりもずっと広かった。グラウンドを走りまわる選手たちの姿は小さくて、有名な選手の姿でさえ見分けることが難しい。
 けれど独りだけ、どんなに遠く離れていても、顔が見えなくても、確信できるひと≠ェいた。
 自然と亜夜の目がそのひと――彼、を追う。
 彼のことは試合中継のテレビ画面を通して何度も見ることができた。長い間、会わなかったとはいえ、じかに彼の姿を見て特別変わったとは思わない。
 けれど、何かが違っている。
「亜夜、座ったら?」
 いつまでも立ちっぱなしの亜夜を、付き添ってきた母が気遣った。
 二重の意味でスタジアムに来ることを怖れていたにもかかわらず、ひとつの怖れは気にする必要もなかった。
 もうひとつは……問題だらけのまま。
「うん、さきに帰ってていいよ、独りでも大丈夫だから」
「そう? じゃあ、そうするけど。寒いし、あまり遅くならないでね」
 母はわずかに心配顔で、けれど亜夜のしっかりとした口調に安心して帰っていった。
 亜夜はグラウンドからいちばん遠い場所を選び、目立たないように小さくなって座った。
 一階には熱心なサポーターが数多く見学している。これが休日だったら、もっと見物人は増えるのかもしれない。
「弥永! ちょっとこっち来い!」
 その大声にハッとして、亜夜は視線を彼に戻した。
 彼の名は、弥永聖央。ブレイズ川口の、そして、日本代表チームの司令塔と異名をとる若き天才ミッドフィルダー。
 そして、亜夜の幼なじみ。
 聖央は心持ち走って、監督のところへ近づいていった。
 高校時代までは風になびくほどさらさらだった髪が、いまは少しウエーブがかっている。見た目の変化はそれくらいしか挙げられないのに、亜夜にはなぜか見知らぬ人のように感じられた。
 何よりも好きだったサッカーなのに、いまの聖央にとっては意味をなしていない。
 もしも、聖央にとってサッカーがどうでもいいものになっているとしたら、そのうえで自分が下した強制だけが聖央をサッカーに縛りつけているのなら、それは終わりにしなければいけない。
 ずっと見てきた亜夜がそう思うほどに、聖央のサッカーは苦痛に満ちている。
 聖央の人生を無駄にするつもりなど微塵もなかった。
 そう謝ったら、聖央は許してくれる?
 聖央は監督の話を聞いているのかいないのか、その顔は常にグラウンドを転がるボールの行方を追っている。
 感情の見えない聖央の姿が哀しい。
 それからもずっと亜夜は聖央の練習風景を見守った。解散の声があがったのは夕方。
 聖央はうつむきかげんでグラウンドをあとにする。
 亜夜はその姿も見守った――と、亜夜の視界から消える寸前、聖央は急に立ち止まった。
 熱心な視線に気づいたかのように聖央の頭が持ちあがり、亜夜のいる方向へと目線が移動する。
 ――!?
 それがピントを合わせるまえに、亜夜は慌てて身を縮めて顔を伏せた。心臓が速く、大きく脈を打つ。しばらく顔を上げることができなかった。こそこそと、ただ聖央を見るために来たわけではないのに。
 たぶん気づかなかったと思う。
 この距離でだれ≠ゥを判別することなど不可能だろうし、亜夜がここにいるとはまさか思いもしないだろう。
 二年はふたりにとって長い時間だ。
 意識して会うことを避けてきた。聖央は亜夜が髪を短くしたことを知らない。
 たぶん。
 永遠と思えるほどの五分間をすぎて、ようやく亜夜が顔を上げたとき、グラウンドにはもうどの選手の姿もなかった。
 亜夜はほっとひとつため息を漏らして、座席に手をついて立ちあがった。
 寒い時期は痛めた膝に響く。横に立てかけていたステンレス製のステッキを取って左手に持つと、不自由な足を引きずってゆっくりと歩きながらスタジアムをあとにした。
 いま、再び会うことになって亜夜を目のまえにしたとき、聖央は何を思うだろう。
 受け入れてくれる?
 ――そんな戸惑いが集う。

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* 第1章のタイトル【ノーサイド】はサッカーではなく、ラグビーで試合終了のこと
  試合が終わったら敵味方がなくなるという意味