−輝也−
築二〇年になろうかとするアパートはメンテンスもろくにされないまま、ただ古びていく。二階へと上る階段の手すりもあちこちが錆びついている。
そんなことも気にならないほど馴染んだ階段を上がりきると、左に折れた。いちばん隅のドアに向かいながら、おれは家の中に灯りがないと気づいた。
寧音?
焦るようにドアを開けて照明をつけると、寧音の靴はちゃんとあった。九時を過ぎていて、寝ているとしてもおかしくはない。そう自分に云い聞かせるようにして、まっすぐ正面の部屋まで進んだ。
そっと戸を開けてから目に入ったのは、布団も敷いていない畳の上で、投げだされたように横たわった寧音の裸体。
おれの中で最悪のシナリオが浮かんだ。
「寧音っ」
傍に
跪いたのと同時に、驚くでもなく、ぼんやりと寧音の目が開いた。
「お兄ちゃんの手、思いだしてやろうとしたんだけどわかんなくて。あたしの手じゃ全然うれしくないんだよ。お兄ちゃんがいなくなっても大丈夫なように、お兄ちゃんの手、教えて?」
シナリオは成立していない。
安堵したものの、寧音はどこかいつもと違う。まるで貝が殻の中に閉じこもっているように、何かが見えなくなっている。
それがどういうことか考え合わせられないうちに、寧音の頬に当てた手がつかまれた。寧音は脚を開き、冷たく乾いているそこに導いた。暖房がきいているとはいえ、夏とは違う。
「躰、温ためなきゃだめだろ」
寧音の右手に自分の右手を被せて指先を絡めるように動かすと、寧音は躰を反らすようにうねらせた。左手は平べったいおなかから胸へと擦りつけて熱を開いていく。胸の上で摩擦度を強くすると、連動して右手にも力がこもる。その力は、寧音の手が重なっているせいで緩和されているんだろう。痛いと訴えることはなく、逆に、絡めた指の下でそこは潤んできた。
胸に置いた手のひらの下では、いつもは肌に同化して隠れている花珠が飛びだして、壊れそうにくねっている。貝の中で生まれた真珠のように白い躰は、だんだんと淡い桃に色を変えていって、ついには脚がピンと張った。
静けさの中、おれと寧音の水遊びをする指先だけが音を立てている。
「お兄……ちゃん?」
イキそうになると寧音はおれを呼ぶ。絡んだ手を離し、寧音の中指をつかんでいちばん敏感な場所を触らせた。同時に胸先をつまんだ刹那、寧音はしなやかな弓のように躰を反らし、そして捕えられた魚のように跳ねた。
寧音はいつもくちびるを咬んで声が出るのを堪える。それはこの行為が秘め事だからだ。寧音も知っている。おれも知っている。
「お兄ちゃん?」
寧音は震えながらも起きあがった。余韻を示す躰はそれだけでおれを
誘う。寧音は正面でペタリと座ると、奥歯を咬みしめたおれの意思を
挫くように、股間に手を伸ばしてきた。ジーンズの下のおれは、寧音の胸先と一緒で隠しようもないほど硬く反応している。
*
三年まえ、思春期の兄妹を一緒の部屋に詰めこむという無自覚な母親のせいで、夜中、こっそりやっていたつもりが寧音に自慰行為を見られた。
十三才になった寧音はただの痩せ細ったガキを脱していた。それでも夏は平気で風呂場から裸のまま出てくる。ただ、そんな寧音に発情したわけじゃなくて、昼間、友だちの家でエロ本を見せられたせいだった。
いまみたいに、お兄ちゃん? と、そうつぶやいて起きだしてきた寧音はイッたばかりのおれをつかんだ。見つかったことで焦ったおれは、その感触に冷や汗をかいた。自分じゃないだれかに触られたことなんてない。中学に入ってからよく告白を受けたり、ダチが紹介してきたりしたけど、その頃、カノジョなんてつくる気には更々なれなかった。
当然、セックスの経験はなく、抑制もできずに、寧音の手の中でまたイキそうになる。それを知ってか知らずか、寧音は手をおれに添って動かした。ずっとおれの行為を見ていたんだろう。ビクッと脈打つたびに寧音の動きは速く強くなる。止めるべきだという理性は呆気なく崩れて、おれは寧音の手を汚した。
「お兄ちゃん、苦しい? 気持ちいい?」
おれの表情を考えあぐねた寧音は無邪気に訊ねた。寧音の手をきれいにしながら、ばつの悪さと後ろめたさに、ごめんな、と謝ったおれの口調はぶっきらぼうで、寧音は顔を曇らせた。
「お兄ちゃん、ずっとあたしといてくれるから、お返しがしたかったんだ」
「そんなこと、あたりまえだ」
「ううん、違うよ」
寧音はうれしそうに笑った。
そのとき、その笑顔を本気で守りたいと誓った。
普通にあった、妹を守ってやるんだという気持ちが守りたいという意志になったのは、父さんが家を出ていってからだ。
父さんは自分の持ち物だけ手にしてとうとつにいなくなった。最後に会ったのは寧音だ。小学校から帰った寧音の前で荷物を詰めこみ、出ていった。
母さんは一時期、狂ったように荒れ、その心を表すかのように家の中は雑然と物が散らばっていた。
あの人は色狂い。私だって。
独り言のようにつぶやいて、それから母さんは変わった。生活していかなきゃならない。夜の仕事に変わったところまでは理解できた。
けど、あれほど男を取っかえ引っかえしなきゃならない理由は少しもわからない。
いつものように学校から帰ってきたある日、ポツンとドアの前にいた寧音の姿はいまでも鮮明に甦る。さみしさも何もない放心した表情で、お母さん、出てっちゃった、とつぶやいた。その時期に付き合っていた男のところへ行くと云い残して、母さんは寧音を置き去りにした。
感情が消え、顔のパーツだけがそろったような寧音の無表情さは、もうもとに戻らないんじゃないかと思うくらい少しも動かなかった。
学校まで送って迎えにいって。それを繰り返しているうちに、やっと寧音は笑った。
お金を置いていったのは母親のかろうじて残った良識か。が、それも尽きそうになって、中学生になったばかりだったおれは途方に暮れた。そんなとき、母さんはふらりと帰ってきた。ごめんねぇ、と、こっちが怒る気になれないくらいあっけらかんとしていた。
母さんの奇行にもそのうち慣れた。けど、寧音は慣れきっていない。じゃなきゃ、お返し、なんて言葉が出てくるはずはない。兄が妹を守るのは普通に考えて当然のことだ。
けど、寧音にとっては普通じゃない。それほど寧音の中に深い傷みがあるのだとそのとき知った。
それからしばらく寧音の戯れを許した。違う、許したというのはおれの罪悪感を裏返した言葉だ。
「おれはちゃんと寧音といるから」
いったんはやめなければと
疾しさが勝って、おれは云い聞かせた。寧音は触れてこなくなって納得したんだと思っていた。けど、母さんは違う男とまたいなくなった。心細くなったに違いない寧音はその日、おれの布団に潜ってきた。
たぶん、お返しをしなければ安心していられない寧音。おれは苦しさに喘ぐ。
父さんは何をしたんだ?
寧音の手に反応してしまうおれはそこから逃れようと、逆に寧音を襲った。拒絶もなければ驚きもない。寧音は当然のようにおれの行為を受け入れた。
再び戻ってきた母さんにおれは怒鳴りつけた。悪びれることなく、わかったわよ、と云った母さんは出ていかないかわりに男を連れこむようになった。いつ母さんがその男と出ていくのか、そんなことを考えるんだろう。寧音はそのたびに怯えておれの布団に潜りこむ。
抱きしめるだけでいいんだ。そう思っているのに、寧音が触れてくると常識は無効になる。わずかに残った理性のもとでおれは寧音を不安から解放する。
儀式のようで、タブーという意識はあっても、罪悪感なんてものはもう消えてしまった。
けどいま、寧音はまだ解放されていない。
寧音は知っている。母さんから聞いたんだろう。おれが出ていくことを。
ジーンズのジッパーを下げようとする手を止めるかわりに、おれはまた寧音の脚の間に手を忍ばせた。声はあげないまま、見下ろした寧音の口がかすかに開く。指先を伝って手のひらに寧音の雫が滴る。寧音の手はジーンズから離れ、縋るようにおれの顔に伸びてきた。膝立ちした寧音を抱きしめながら、揺れる腰の間を
弄った。
「おに……いちゃん」
その呼びかけを合図に強く大きく、繊細な神経を揺さぶった。寧音は静かに躰を硬直させ、その直後、激しく腰を揺らした。
寧音の鼓動が落ち着くと、剥きだした肩に脱いだジャンバーをかけ、布団を敷いた。下着とパジャマを着せてやる間、寧音は、子供みたい、と笑っていた。おれはちょっと安心する。
「母さんに聞いたのか」
「うん」
「悪いと思ってる。けど、置いていくわけじゃないから」
「大丈夫。お母さんがね、あたしにはすぐカレシができるんだって。そしたらお兄ちゃんの手もいらなくなるのかな。でもいまは、お兄ちゃんが行っちゃうまでに、あたしはお兄ちゃんの手を覚えようと思うんだよ」
「寧音……」
「大丈夫。お兄ちゃんにもすぐカノジョできるよ?」
おれも寧音もわかっている。こういう秘め事をいつまでも続けられないこと――いや、やってはいけないことを。
それから一カ月して高校を卒業した三月。おれは独り東京へと行った。
置いていくわけじゃないから。
それならなんだ?
迎えにいく。おれと寧音の間で、けっして保証にはならない約束の言葉。
云わなかったことで寧音は気づいていたのかもしれない。
延ばしに延ばしてきた卒業後の進路。迷ったすえ、おれが“東京を選んだ”ことを。
毎日、電話した。
うん、大丈夫。
繰り返される言葉。
ようやく仕事の雰囲気をつかんできた四月の終わり、いつの時間に電話しても寧音の背後が無音であることに気づいた。
記憶の中にある、おれを見送る寧音の笑った顔がだんだんとかすれて見えなくなっていく。たった五〇日まえのことなのに。
本物の笑顔は、そのずっとまえ、殻の中に隠れてしまっていたからだ。
独り部屋が欲しい。そう思ったことがある。それが叶ったというのに満足した気分は一瞬も味わえていない。何かが欠けている。
違う、そんな曖昧なものじゃなく、欠けているものははっきりしている。
カノジョなんて考えられないんだ。
寧音が『カレシ』と口にしたとき、存在もしない奴を突きつけられて息が詰まるほど苦しかったんだ。
その証拠に、カレシできたか、そんな簡単な質問さえできていない。
もし、寧音が同じ気持ちなら。
連休に入り、寧音に内緒で里帰りした。二カ月近く離れていた町は、季節という温度は変わっても、覚えている風景に変化はない。
寧音の喜ぶ顔が見られるだろうか。単純に思いながらドアチャイムを鳴らし、鍵を差しかけた。とたんにおれの手は、内側からいきなり開いたドアに撥ね退けられた。持っていた鍵が手すりの向こうに飛んで落ちていく。
おれのすぐ脇をすり抜けていったのは見知らぬ中年男だった。それが母さんの男だろうということまで見当つけた。
そのさきは……。
「寧音っ」
以前と同じシナリオが浮かんだ。
怖れながらもずっと解決策をとらず、後回しにしてきた自分をめちゃくちゃに殴りたい。手が、躰が、震えだすほど頭に血が上った。玄関から真正面にある戸は開けっ放しで、服を乱して無造作に投げだされたような、間違いなく寧音の躰が見えた。靴を脱ぐのももどかしく、転がるように部屋に滑りこんだ。
「寧音っ」
抱きかかえた寧音はぐったりとして、もろに腕に体重がかかる。素早く寧音の躰を確かめた。カーディガンのボタンは明らかに引きちぎられているが、スカートは乱れているだけで、その下に手を潜らせると下着も身に着けている。
「……お兄ちゃん……」
寧音の声は夢の中にいるように虚ろで、その表情も同じだ。それは、母さんがいなくなったあの日を思い起こさせた。
「寧音、何をされた?!」
「お兄ちゃん、いなくなって……いろんなこと……もういいかなって思った」
「寧音っ、何もされてないか?」
「お母さん、また出てった……戻ってきたのかって思って開けたら……帰ったのはおじさんだけ。お兄ちゃん、来たから。たぶん……何もされてない」
おれは力の限りで抱きしめた。寧音が呻くくらい抱きしめた。
*
待つ時間は手遅れにしかならない。
「お兄ちゃん……あたし……いいのかな」
おれの部屋の前で――おれたちの家の前で、寧音はためらうように見上げた。ここに来るまで、「うん」と「ううん」としか云わなかった寧音は、その間ずっと自分に同じことを問いかけていたのかもしれない。
寧音をさらってきたのはおれなのに。わかっている。寧音から不安が消えていないことは。
「よくない理由なんてもうない」
どこにいるかわからない母さんには電話で知らせた。おれがどんなに怒り狂ったところで、母さんは母親としての良識をとっくになくしていて意味がない。
父さんがいた頃、母さんは父さんに頼りきっていた。父さんにとって、浮気がさきだったのか、母さんにうんざりしたのがさきだったのか、それは父さんにしかわからない。
ただ、父さんが出ていったときから母さんがおかしくなってしまったというのははっきりしている。
おれができるのは、おれが何より望むのは、寧音を絶対にそうさせないということ。
「……うん」
寧音はこっくりとうなずいて家の中に入った。ものめずらしそうに狭い部屋を見渡している。
笑顔が戻るように。
寧音を抱きしめた。
「お兄ちゃん……シて?」
はじめて合わせたくちびる。貝が開くように寧音の口が
綻んでいく。
部屋は吐息に
鎮まり、欲しくて止まない無言の悲鳴に満ちたあと、寧音の手がおれを解放した。
零下の心と灼熱の躰。
おれは
貫く。
真逆の温度、その間で風は生まれ、上昇する。
癒合した鼓動は
篤く震えた。