age 寧音17 輝也19
部屋の掃除を終わってフッと息をついた午前十時。ドアチャイムを鳴らす音が狭い部屋に響いた。
あまりない来訪者の知らせはちゃんと予定として頭にあったにもかかわらず、あたしはビクッと肩を震わせる。ハンディ型の掃除機を置いて玄関に向かった。
お兄ちゃんからは、だれが来ても、それがお母さんであっても独りのときは出るなと云われている。普段はそれに従って出ないところだけれど、今日はそういうわけにもいかない。
ドアスコープを覗いてみると、思ったとおり郵便配達の人だ。
「書留です。サインをお願いします」
A4判の
萌黄色をした封筒を差しだされた。サインをしたあと、封筒に貼り付けられていた紙は剥がされ、郵便配達人は帰っていった。
玄関の鍵を閉めて部屋に戻ると、テーブルの上に封筒を置いてその前で正座した。手をつけず、ただ眺めているなか、電車の通過音がすぐ近くに聞こえているのに、自分の呼吸音さえ止まった静けさを感じる。
「大丈夫」
膝の上に置いた手を一度ギュッと握りしめて、それから学校名のついた封筒を開けた。
“合格通知書”
その文字が目に入って、あたしのくちびるはお兄ちゃんが仕事から帰ってきたときみたいに広がった。
『お兄ちゃん、合格!』
すぐにお兄ちゃんにメールすると、待っていたんだろう、まだあたしの笑顔が消えないうちに返信があった。
『やったな。サイコーのバレンタインプレゼントだ。おめでとう』
仕事中のはずなのにいいのかな。
あたしは心配しながらも思わず声に出して笑った。
東京に出てきてから十カ月目。
はじめの頃にあった、どこか
朦朧とした落ち着かない気持ちは、夜中にドアが開くという日常がなくなって、朝目覚めるまでお兄ちゃんに包まっていることがあたりまえになって、だんだんと消えていった。
お兄ちゃんとふたりきりの生活は、経済的にいえばけっしてらくじゃない。東京という場所はあたしたちが生まれた地よりもずっと生活費がかかるうえ、お兄ちゃんは働き始めたばかりだし、お母さんからの援助の申し出も拒否している。ただ、お母さんといるときもらくだったわけじゃなくて、友だちよりはずっと地味だったと思う。
だから、つらいことはなくて、むしろ、いまはお兄ちゃんといられることで怖いくらいうれしいという気持ちが続いている。
それを壊したくなくて、半年まえ、家でのんびりしているだけだったあたしは、バイトでもいいから働こうと思ったのだった。すぐに了解することのなかったお兄ちゃんは数日後、高校に行けと勧めた。
そうすればもっとお兄ちゃんの負担になる。
今度はあたしがすぐに応えなかった。
おれがつらいから。
その言葉に負けた。あたしは高校なんてどうでもよかったのに、お兄ちゃんが中退させたことを後悔しているのは薄らと感じていた。
お兄ちゃんの中の後悔が一つでも減るなら、とそう思った。
高校はお兄ちゃんが調べてくれた。候補としてあがったのは、“伝統があって規律正しい”私立校ばかりで、あたしからすればどこもかわらなく思えた。都立のほうがお金はかからないはずなのに、それよりもお兄ちゃんは環境を選んだのだ。数少ないリストのなかから、いちばん近くにある高校を選んだ。
受験する人が多いところで、そのぶん受かったことに満足感があって、午後になっても浮き浮きした気分は続いている。
きっとお兄ちゃんと顔を合わせるまで落ち着かないだろう。そう思うと、ちょうどヴァレンタインデーだし、とふと
俄かの計画が浮かんだ。
近くの雑貨屋に買い物に出かけて、それから思い立ったままフォンダンショコラを作って、夕食の用意をしてから、夕方の四時にまた家を出た。
電車に乗って三つ目の駅で降りる。そこから周囲の景色を確かめながら、二〇分近く歩いて目的地にたどり着いた。全体的にこじんまりしたビルが多い町で、そのなかの一つにお兄ちゃんが働いている設計事務所が入っている。
何度か来てやっと場所を覚えたところだ。お兄ちゃんだったら、駅から十分で着くらしい。
事務所はビルの一階にある。窓の隅っこのほうで、ブラインドの隙間からそっと中を覗いてみた。お兄ちゃん専用のデスクに姿が見当たらないと思っていると、人影が動き、追ってみるとお兄ちゃんだった。お兄ちゃんはデスクにつくと手にした書類を眺め始めた。
顔を引っこめて、あたしはビルの壁に寄りかかった。まだ五時まえで、お兄ちゃんが終わるまでに一時間くらいかかるだろう。寒いけれど、驚かせたい気持ちのほうが勝ってなんともない。
待っている間に、あたしの前を通りすぎる人から怪訝な目が何度か向けられた。そのうち、顔の見分けがつかないほど暗くなってしまった。携帯電話の時計を見るとまもなく六時十分になろうかというところだ。
小さく息を吐いた直後、ドアが開いて喋り声が届いてくる。
目を向けると同時に、そのなかの一対の目があたしに向く。焦点が合う直前に事務所の灯りが消え、背後に外灯があるせいであたしの顔はかげっているはず。それでもお兄ちゃんは判別したようで、驚きにその目が見開いた。
「寧音!」
「おかえり!」
お兄ちゃんは足早に近づいてきて目の前に立った。
「なんでここに? 何かあったのか?」
半ば
急くようにお兄ちゃんが質問を重ねた。
あたしの昼間の心配とは比較にならないほど、お兄ちゃんにはいつもこんなふうに心配させている。ちょっと情けない気持ちで笑った。
「ううん。これ、渡そうと思って」
紙袋からフォンダンショコラが二つ入ったマフィンボックスを取りだして、お兄ちゃんに差しだした。赤いハートが散りばめられた四角い箱にはリボンをして、バラの造花を載せた。
「ここまで来なくたって……」
お兄ちゃんが云いかけている最中、その背後から社長と先輩たちが顔を覗かせた。
「お、寧音ちゃん、合格おめでとう」
「おめでとう。よかったね」
「はい。ありがとうございます」
「寧音ちゃんから連絡入るまでソワソワして仕事にならなかったみたいだからね」
社長の言葉に苦笑いしながらお兄ちゃんが、すみません、と謝っている。その間に、別の箱を五個取りだした。
「これ、作ったんです。甘いですけど、食べてもらえたらって思って」
「お、バレンタインデーだね。私は甘いもの大歓迎だ。有難くいただくよ」
「しかも、女子高生にもらえるってなかなかないからな。ありがとう、寧音ちゃん」
女子高生になるのはもう少しさきだけれど、と思いながらチラッと見たお兄ちゃんはおもしろがって首をひねった。
「いつもお世話になってるのに、これくらいしかできなくて」
「いい妹だなぁ。
輝、仕事バリバリやれるようになんないとな」
「はい。そのつもりです」
「しっかし、おまえたち、兄妹っていうより恋人に見えるくらい仲いいよな」
お兄ちゃんの手もとを指差しながら先輩がからかう。
「そうですよ」
お兄ちゃんのあたりまえみたいなすました答えにみんなが笑いだした。
「寧音ちゃん、将来たいへんだ」
「はは。そのときは私が旺戸くんを説得しよう。じゃあ、お疲れさん。寧音ちゃん、ありがとう。気をつけて帰りなさい」
「はい。お疲れさまでした」
一通り“お疲れさま”の挨拶が終わると、それぞれに散った。
「ここはあったかいね」
歩きだしたとたんのあたしの言葉にお兄ちゃんは小さく笑う。
「ああ。紹介してくれた先生には御の字だな」
「うん」
お兄ちゃんの手の中に自分の手を滑りこませた。
「手、冷たい。いつからいたんだ?」
「んーっと……覚えてない。ちょっとまえだよ」
嘘を見破った手があたしの手を強く握り返してくる。
「お兄ちゃん、お母さんがおめでとうって」
「ああ。おれにも電話があった。お祝い贈りたいってさ」
「……もらってもいい?」
「そう云っといた」
おずおずとしたあたしの手をギュッと握ったあと、お兄ちゃんは淡々と答えた。
お兄ちゃんとこっちに来てから、お母さんには二回しか会っていない。無断で出てきて――お母さんは家出中だったから当然といえば当然で、そのあとお兄ちゃんとお母さんの間にどんな話し合いがあったのかはわからない。
でも、お兄ちゃんがお母さんのことを見限ったことは確かだ。
あたしはお兄ちゃんがいればいい。それなのに、お母さんがかわいそうだと思うことがある。
もしかしたら逆かもしれない。あたしにはお兄ちゃんがいるから、お母さんのことをかわいそうだと見てしまう。
お兄ちゃんにもその気持ちがないわけじゃないと思う。だって、お母さんのことを完全に拒絶しているわけじゃないから。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「お礼はおれにじゃないだろ。それより、お祝いだな。どっかで食べてくか?」
「もう作ってる。家で食べるほうが落ち着くから」
「……そっか」
「うん」
「寧音」
「うん?」
「おれ、無理強いしてるか?」
思いがけない問いかけにあたしは足を止めた。合わせてお兄ちゃんも立ち止まる。
「なんのこと?」
「高校。もし気持ち的に負担になるんなら……」
「大丈夫だよ」
あたしは覗きこむように首をかしげてお兄ちゃんをさえぎった。ちょっとしたことでも、お兄ちゃんがあたしの気持ちに敏感に反応するということを忘れていた。
「一年生はちゃんと終わってたし、そのぶん飛んで二年生から始められたらサイコーだけど、とりあえず勉強は余裕があると思うし、だから楽しめるかなって思ってるよ。二十才で卒業っていうのは、独り老けちゃってないかってちょっと不安だけど」
お兄ちゃんが吹くように笑い、ホッとしたあたしにも笑顔が伝染する。隠すより、そのままを打ち明けるほうがお兄ちゃんには負担にならないのかもしれない。
「大丈夫だ。寧音はまだ中学生って云っても通る」
「お兄ちゃん、酷い」
「帰るぞ。早く、あったまらないと」
お兄ちゃんは可笑しそうにしながら強引にあたしの手を引いて歩きだした。
以前からそうだけれど、いつも傍にいると思うとふたりのお喋りは途切れがちだ。いまもほとんど会話はなく駅へと向かった。やっぱりお兄ちゃんの歩くペースは早くて、十五分もかからず駅に着いた。
「お兄ちゃん。家で食べると落ち着くっていうより、家にいるとお兄ちゃんにいつでもくっつけるから、だよ」
「襲われたいって云ってるのと同じだ」
「うん」
素直に答えると、お兄ちゃんは力なく息を吐く。覗きこむと、参ったという笑い方だったとわかった。
こういうとき云いたくなる言葉がある。なんとなく、これまで云えなかった言葉。
いまは、お兄ちゃんの“後悔”を知って、そして、ついさっきのお兄ちゃんの断言が、云ってもいいよと後押ししてくれたみたいに感じている。
見上げた口もとはかすかに笑っているようで、それが力になり、あたしは口を開いた。とたん、冷たい風を伴って視界がさえぎられる。駅のホームは風の通り道になっていて、あたしの長い髪が傾けた顔に纏いついたのだ。
その髪をお兄ちゃんが後ろにはらい、耳のところで押さえた。笑みの広がったあたしの顔を見下ろして、お兄ちゃんは少し目を細める。
「お兄ちゃん、さっきの『そうですよ』はうれしかった」
「ああ」
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「好き、って云っていい?」
「もう云ってる」
「うん」
お兄ちゃんは照れているのか、茶化して顔をそむけるようにうつむけた。
それから、ふたりはまた黙りこんで電車が来るのを待つ。
風は冷たくても黙りこんでいても、お兄ちゃんといるとポカポカした気分でいられる。それはずっとかわらない。
恋人みたいに。そう云われることはあっても恋人と認めてもらえることはない。だから、お兄ちゃんの中にはいろんな迷いがあって後悔があって。それもずっとかわらない。
ただ、それはお兄ちゃん自身のためではなくて、あたしのためだと知った。あたしにとっても、名前を入れ替えるだけの同じ気持ちがある。
それなら。わたしは後悔なんてすることないよ。そう云うかわりに――。
「お兄ちゃん、大好きだよ」
ずっと云い続ける。
そしたら、ずっとかわらずにいられるよね。
あたしは繋いだ手を離して、お兄ちゃんの正面に回りこんだ。もう一度。
「大好きだから」
「わかった」
素直にうれしいという顔じゃなく、ちょっと歪んだ表情を伴った『わかった』はあたしの告白の真の意味が伝わっている証拠に違いなくて。
刹那、お兄ちゃんのコートがあたしを包みこんで、頭の
天辺にキスが落ちてきた。