真逆の温度、その間で。

first -躰のカタチ-

 真冬の寒夜。
 熱い吐息。
 窓の向こうと壁の向こう。
 その間で。
 あたしは纏いつく。
 おれは抱きしめる。


   −寧音−

 金曜日の放課後、教室を逸早(いちはや)く抜けだして、いつも待ち合わせる、一、二年の校舎と三年の校舎を繋ぐ渡り廊下へと走った。教室前の廊下から渡り廊下へと折れたとたん、すでに待っていたお兄ちゃんの姿が見えた。冷たく通り抜ける風に首をすくめながら駆けていった。
寧音(ねね)、走らなくていいって云ってるだろ」
 息のあがったあたしの頭にお兄ちゃんの手が載っかった。
「おめでとう、お兄ちゃん! って早く云いたかったんだよ」
「おれよりうれしそうにしてる」
 高校三年になったお兄ちゃんの就職活動は、なかなか思うような仕事が地元になくて一月になっても宙ぶらりんでいた。それがやっと決まったのだ。
「なんの仕事?」
「小さいとこだけど設計事務所だ。先生に探してもらった」
 建築科にいるお兄ちゃんには打ってつけの就職先だ。
「そんなにすぐ見つかるんなら、早く先生に云っちゃえばよかったね」
 何気なく云ったのに、どことなくお兄ちゃんの顔がかげった気がした。さっきの『おれよりうれしそうに』っていう言葉がリンクして、あたしの中で何かが引っかかった。お兄ちゃんに関するかぎり、あたしのアンテナは高性能になる。
「お兄ちゃん?」
「寧音、今日のバイトは遅くなるから。ちゃんと鍵閉めてろよ」
「わかってる。いってらっしゃい!」
 教室に戻りかけて校舎に入る寸前、振り返るとお兄ちゃんはまだそこにいて、早く行けよ、というようにあたしの教室の方向を指差した。
 うなずいて、室内の廊下へと続く短い階段をのぼった。とたん。
「寧音、今度、寧音んち行っていい? 旺戸(おうと)先輩、紹介してほしいんだけど!」
 同じクラスで仲良くしている子は待ち伏せしていたらしく、切羽詰まったようにあたしに迫った。
「ウチはダメ。狭いから。それにお兄ちゃんはいつもバイトでいないし、ウチよりも学校でのほうが捕まえやすいよ?」
「学校でだったらその他大勢になっちゃうじゃない。寧音の友だちだから覚えてもらえる確率あがるんだし。それに一年の身で行っちゃったら先輩たちに睨まれそう。いいなぁ寧音は。あんなお兄さんがいて、しかも仲いいし」
 心底うらやましそうで、あたしは笑った。

 お兄ちゃんはお兄ちゃんでそれ以上にはなれない。でも、お兄ちゃんがお兄ちゃんでなければ、カッコいいからってあたしにはなんの意味にもなっていなかったと思う。
 それくらい、お兄ちゃんの全部はあたしの全部なんだよ。

 家に帰るといつものようにごはんを作って、お母さんとふたりで食べた。お母さんが六時に仕事に出たあと、今日はその五時間後にお兄ちゃんが帰ってきた。
 お兄ちゃんがお風呂に入っている間に、安心したあたしは眠っていたらしい。
 どんなに深い淵で眠っていても、玄関のドアが軋むほんの少しの音はあたしを目覚めさせる。今日は二つの足音。そうわかってはっきり目が覚めた。
 暗闇に慣れる必要もなく、目はすぐに室内の影をすべて捉えた。この部屋はちょうどアパートの外灯が差しこむ場所で、薄っぺらなカーテンを通り越して真夜中でもほんのりと明るい。
 起きあがると布団から這いだして、もう一つの布団の傍で正座した。温もっていた躰はだんだんと冷え、部屋の向こうではだんだんとむっとする熱気がこもりだす。自分の腕を抱いて肩をすぼめた。
「お兄ちゃん……」
 壁際に敷いた布団の中、あたしに背中を向けて横になった躰がもぞもぞと動く。
「寧音?」
「いい?」
 呼吸さえ聞こえそうなくらいシンとした。
 そんなあたしとお兄ちゃんの間に、くぐもった声が割りこむ。意味はわからなくても、きれいには聞こえない言葉を吐くしゃがれた声とそれに答える媚びた声。ここ最近、またこういうことが増えた。
「寧音」
 お兄ちゃんが開けてくれた布団の中に潜りこんだ。背中を引き寄せられると、ひんやりしたパジャマが躰にくっついてちょっと身震いする。
「冷たくなってる。なんで早く云わないんだ」
「ちょっと我慢してみた」
 お兄ちゃんの腕がきつくなった。
 お兄ちゃんは十八になって躰がぐんと大きく力強くなった気がする。大人になってるんだなって思う。それに比べると、十六にしてはあたしの躰は小さくて、だから置いてけぼりにされたように感じている。一緒にお風呂に入らされていた頃は、ふたりとも胸はぺったんこでそんなに変わらないって思っていたのに、いま、躰は全然形が違ってきた。
「眠れるか」
「うん」
 ちょっとした嘘。お兄ちゃんからあたしの顔は見えなくて、あたしは目を開けて部屋の影を眺める。
 狭いダイニングを除けば二つしかないアパートの一室。
 あたしたちの部屋は呼吸が音になるくらい静かなのに、もう一つの部屋は会話じゃない声が飛び交う。
 あえていうなら獣の会話。耳をふさいでもなんにもならないくらい、その会話は大きくなっていく。そして、死にそうな気味の悪い咆哮(ほうこう)が聞こえたかと思うとぷつんと途切れた。そのあと忍び笑うような声が聞こえて、やっと静かになった。

 頭の上でお兄ちゃんの吐く息が長引いて、きつかった腕が緩む。
 腕の中でくるりと方向を変えて、上側になった左手をふたりの躰の間に忍ばせた。パジャマの上から、あたしにはないお兄ちゃんの形に(まと)わりつく。
 フニャフニャした感触が一気に形になって、背中に回った腕がまたきつくなった。痛いよりも安らぐ。そうしてくれるお返しに、その形に添って何度も何度も手を上下させる。
 顔をつけた胸の奥の鼓動は早く強くなっていく。合わせて手の中の形も力強く撥ね返すように、ドクンドクンと動いている。
 もう少し。そう思ったとき、お兄ちゃんの腕が緩んだ。
 左脚が持ちあげられてお兄ちゃんの脚の上に載る。背中からパジャマの下に手が潜りこんできて、ショーツの下にまで入りこみ、お尻を撫でた。そのままぐるっと腰の側面を回っておへその下、そして、そこを薄く覆うあたしのカーテンを掻きわけるようにして脚の間に侵入した。
 今度は、お兄ちゃんの指先があたしの形に沿って何度も何度も上下する。
 もう少しだったのにいつもみたいに止められて、お兄ちゃんの形に集中できなくなった。
 指先にくっつくように引きつっていたそこは、徐々にヌルヌルしていって、あたしの形はお兄ちゃんの虐めから逃れる。逃げたくなんかない。くっついているほうがいい。けれど、ヌルヌルはグチュグチュという音に変わってますますお兄ちゃんの指を()けている。
 本当は、虐められてるんじゃなくてやさしくされてるんだって知っている。
 だから、あたしは背中をピンと反らして押しつけた。ほら、やっぱりあたしの形がうれしいって云ってる。
「おに……ちゃん……?」
 囁く声に答えたのはお兄ちゃんの形。手の中でうなずいた。
 静まり返った部屋の中、暗闇は一瞬だけ眩しいほどの光に満ちて、そのあと、あたしの躰はお兄ちゃんの腕を飛びだしそうになるくらい、ものすごく震えた。
 お兄ちゃんの腕があたしを連れ戻す。
 あたしは嘘じゃなく眠れた。

   *

 土曜日、午後の三時を過ぎてやっと、お母さんの部屋からごそごそと身動きする気配がした。
 もう一つの足音の主もまだいるんだろうか。まったくの他人が家にいるというのはめずらしいことじゃない。それでも慣れることがなくて、ただ落ち着かない。
 お母さんは夜の仕事をしていて、朝方になって帰ってくることが多い。お父さんはずっとまえのある日、突然出ていって、それを考えると夜の仕事でも仕方ないと思う。
 お兄ちゃんは学校が終わると夜まで絶えずバイトをやって家計の手伝いをしているし、高校にのんびり通うだけのあたしは居心地が悪い。だから、家事をするのはあたりまえだって思っている。お兄ちゃんは、のんびりしてることのほうがあたりまえだって云って、あたしにはバイトをさせてくれない。
 そのことはともかく、お父さんでもない男の人が家の中で息をしているのは好きじゃない。
 お母さんの部屋の戸がすっと開いた。ガスを止めて振り返ると、フリースのガウンを羽織ったお母さんが髪を撫でつけながら出てきた。
 昨日の獣の啼き声が嘘みたいに、お母さんは起きぬけでも清楚に見える。あの時だけ、もしかしたら狼男みたいに変身してるんじゃないかと疑う。
「お母さん、おはよう」
 おはようと云うには時間的に不釣り合いだけれど、あたしの家では普通のことだ。お母さんを通り越して開けっぱなしの戸の向こうを見ると、だれもいなくてほっとした。
「おはよう。今日は何、酢豚?」
「うん」
輝也(てるや)の好物ね。何かあった? 輝也は?」
「お兄ちゃんはいつものとおりバイトだよ? お兄ちゃん、昨日ね、やっと就職が決まったんだって」
「ああ、そうだった。昨日、メール入ってたんだわ。東京行っちゃうんだってね」
 水に溶かした片栗粉を鍋の中に流しこむ手が止まった。
「東京?」
 パッと振り向いたあたしの顔を見て、お母さんは不思議そうに顔をかしげた。
「なんだ。聞いてないの? まあ……あんたに云ったら引き止めちゃいそうだもんね。寧音、いいかげん兄離れしないとだめでしょ。輝也、カノジョもつくれないじゃない。あんたも高校生になったんだし、カレシができれば輝也のことはどうでもよくなるわ」
 お母さんはだから、どうでもよくなるように次から次に男の人を連れてくるの?
 あたしは違うよ。あたしはお兄ちゃんさえいればいい。あとがどうでもいいことなんだよ。お母さんのこともね。
 くちびるを咬んで云いたいのを堪える。
 その間、お母さんは幼い女の子にするみたいにあたしの長い髪を撫でながら、勝手なことを云い続けた。
「輝也はお父さんに似てほっとかれるような子じゃないし、あんたはお母さんに似て可愛くなってる。ふたりともカレシカノジョなんてすぐできるわよ」
 お父さんに捨てられたくせに恨みとかは全然なくて、もしくは忘れている。お父さんの血を引いていてもあたしたちを邪険にすることはなくて、いまも、お兄ちゃんがお父さんに似てるってうれしそうに云う。それは幸いなことなんだろうけれど、あたしはお母さんのことがよくわからない。
――おまえは母さんにそっくりだ。纏わりつくことしか知らない。
 腕に(すが)った手は撥ね退けられた。
 そのとおり、あたしはきっとお母さんと似てる。あたしはずっと当てにしてるから。
 でも……お兄ちゃんは……。
 出ていかないで。
 けっして云っちゃいけない言葉。


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