NEXTBACKDOOR|オトナのスイッチ〜デュアルヒーローvs.専属メイドのスキンシップ〜

第4章 スキャンダルキス

2.ヒーローになれないヒーロー   #4

    *

 電話だ。そう思い、結礼は無意識に音のするほうへ手を伸ばした。目を瞬きながらろくに相手の確認もせず、通話モードにして耳に当てた。
「もしもし……」
『どれだけ待たせる気だ』
 いきなり苛立った声が鼓膜をふるわせ、結礼は飛び起きた。
 さっと周囲を見回しながら思考をフル回転させ、自分が健朗のベッドにいることとその健朗の帰りを待つ間に眠ったことを把握する。
「健朗さま! すみません。眠ってました」
 うんざりしたのか、耳に届いたため息は重く感じる。
『いまどこだ』
「……え? あの、健朗さまのマンションです」
『ならいい。すぐ帰る』
 電話はぷっつりと切られた。

 ならいい、って……。
 思考をフル回転させられたのは一瞬だけで、いまの会話が理解不能で、結礼は意味もなくスマホを見つめた。マンションにいることは約束のはずだ。寝惚けていて、電話自体が夢の続きだったのかもしれないという、結礼は自分に疑心を持った。
 時計を見ると十時半をすぎたところだ。三十分も眠っていない。
 すぐに電話に出なかったことがそんなに苛立たせたのだろうか。そういえば、バイトが忙しいときにかかってきた電話のあとも機嫌が悪かった。意外に気が短いのか。それとも結礼に限ることなのか。
 とりあえず、健朗の着替えを用意して、酔い冷ましにコーヒーを淹れる準備だけやっておくことにした。


 健朗の帰宅はそれから三十分後という、『すぐ』という言葉が曖昧な時間を含むものではなく、本当にすぐ帰ったことに結礼は少し驚いた。
 キーが開錠された音を聞きつけ、結礼は迎えに出た。
「健朗さん、おかえりなさい」
 迎えに出るのも、おかえりなさいと云うのも、至っていつものとおりのことなのに何かそれが異変でもあるかのように、健朗は靴を脱がないまま結礼をじっと見ている。機嫌が悪そうかといえば違う。
「コーヒーの準備してます。シャワーがさきですか?」
 沈黙があまりに不自然で、それを断ちきるべく結礼は訊ねてみた。とたんに健朗は不機嫌さを纏った。
「シャワーだ」
 ぶっきらぼうに云い、健朗は靴を脱いであがった。脇に避けて健朗をさきに通し、結礼はあとをついていく。

「今日のライヴも楽しかったです。ファンもすごかったですね。行くたびに一体感が増してる気がします」
 ライヴの感想は無反応ですまされる。こんな様子では、さと美のことも話しづらい。けれど、黙っていることは、大丈夫かという健朗の気遣いを無駄にしてしまう。結礼が不安を感じているならなおさら知らせておくべきだ、きっと。
「健朗さん、シャワーのあとお話していいですか」
 トートバッグをソファに放るようにしておいた健朗は、つと結礼を振り向いた。
「いい話か」
「え……あの……あんまりいい話じゃないと思います」
 わざわざ云ったのは結礼のほうだが、健朗もまたわざわざいい話かどうかを訊ねるのはなぜだろう。しかも、いい話じゃないと云ったのに、健朗は笑った。口を歪めているけれど皮肉っぽくはなく、可笑しそうにしている。
「わかった。すぐ出てくる。コーヒー用意してろ」
 きょとんとした結礼を放って、健朗はバスルームに向かった。

 健朗の機嫌が直ったのは確かだ。結礼も気を取り直して、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
 どんなふうに話そうかという筋道を纏められないまま、コーヒーを二つ、ソファの前のテーブルに置いていると、本当に烏の行水ですませたらしく、健朗がリビングに戻ってきた。
 健朗はソファの端に座り、結礼はいつものようにその足もとのラグの上に座った。

「洗面台にマグカップがない」
 開口一番、健朗は思ってもいなかったことを云う。ちゃんと憶えていたらしく、それ以上に気にしている証拠でもあり、結礼は落胆とうれしさを同時に味わう。
「あの、割れてしまいました」
「割れた?」
「正確に云うと、割られました」
 健朗は眉間にしわを寄せた。
「最初から正確に云え。それで、どういうことだ」

「さと美さんが来ていたんです。スカーラホールで電話があったとき、さと美さん、すぐ後ろにいたのかもしれません。さと美さんは健朗さんのファンに写真を渡してました。マンションから出たときの写真で、わたしが健朗さんの車に乗ろうとしているところだと思います。和佳たちとは買うのが違ってたから別々に並んでいたし、それでファンの人たちに連れていかれて……」
「暴力振るわれたのか」
 健朗はますます顔をしかめて、結礼の支離滅裂な説明をさえぎった。
 結礼は慌てて、違います、と首を横に振った。
「ファンの人たちからは健朗さんとの関係を問い詰められましたけど、どうにかごまかせました。和佳たちのところに行こうとしたら自分で転んでしまったんです。ファンの人たちは起こしてくれたり、帽子を取ってくれたりして、だからファンは少しも悪くありません」

「そんときに割れたのか」
「いえ……ファンと別れたあとにさと美さんが来て、マグカップを奪われて……さと美さんが箱から取りだしたときは無事でした。そのまま袋に入れて手渡されたときに……」
「手渡さず落としたわけだ」
 健朗があとを次いだ。
「わざとですか」
 結礼が健朗に訊くのもおかしな話だ。案の定――
「おまえがいちばんよくわかってるだろ」
 と、健朗から呆れた返事が放たれる。つまり、それが健朗の答えでもある。

「あの、健朗さん、さと美さんから振られたことにしたのはなぜですか。好きじゃなかったら、嘘でもカノジョがいるって云えばすむと思います」
「嘘でも?」
 健朗は斜め上からじろりと結礼を見下ろした。何か云いたそうに口を開きかけたが、いったん口を噤むと、その云いたかったことは封じたようで、振り払うように一度首を横に振った。
「今日のことで、さと美がどんな人間かわかっただろ。男を手に入れるために嫌がらせを平気でする。おまえにそれが及ぶのを避けたかったし、さと美を脅す材料が見つかるまでの時間稼ぎが必要だった。その間に、振られたことにすればいいと思いついたんだけどな……」
 それじゃすまないってことだ、と健朗は宙を見据えてつぶやいた。

「健朗さま?」
 呼びかけると、健朗はソファに持たれていた背中を起こし、そのまま前に上体を倒してきて、結礼にぐっと顔を近づけた。
「徹底的に脅してやる。見てろ」
 まるで敵対しているのが結礼であるかのように睨めつけた。

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