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|オトナのスイッチ〜デュアルヒーローvs.専属メイドのスキンシップ〜
第3章 想い想われ不離ふられ
2.都合のいいメイド #3
*
七月もまもなく終わるというのに、とっくに帰国しているはずの健朗は、おにぎりを食べたという報告もしなければ、掃除に来いという呼びだしもしない。もっとも、おにぎりを食べたなどという詰まらない報告をしてくるはずもない。
もらっていたスケジュールは大まかなものばかりで、詳細まではもうわからなくなった。海外ツアーは、次にイギリスとフランス、そして八月の終わりにアメリカで最終日を迎える。ヨーロッパは来週にも出発するはずだ。
渡航の準備も最初だけで、あとは結礼が必要とされることはない。もともと健朗はだれかを当てにしなくても自分のことは自分でやれるのだ。裕福だからといってなんでもかんでも世話されて育ったわけではない。サッカークラブに所属したことで、自立心は早くから養われていた。
ずっと電話することをためらっていた結礼は、いまもまたスマホを持ったまま発信できないでいる。
いまなら電話をする口実があって、それをなくしたら、また声さえも聞けなくなってしまう。結礼は自分に云い聞かせ、ベッドに座ると一つ深呼吸をしてから発信ボタンにタッチした。
勇気を出して発したコール音は二回繰り返し、三回めの途中で虚しくもぷっつりと切られた。
夜の八時をすぎているが、飲み会でもしているのかもしれない。いや、マナーモードにしていないのだから飲み会だったら、あとで、と云うだけでも出られるはずだ。いや、それでも出られないなんらかの理由があるのかもしれない。
独りで押し問答をしていると、不意打ちで着信音が鳴りだした。結礼はびくりとしてスマホを取り落としそうになる。画面を見なくても着信音だけで相手がだれかははっきりしていて、結礼は慌てふためきながらスマホを握り直して通話ボタンを押した。
「はい、結礼です。すみま……」
『結礼さん、さと美よ』
思っていた声とはまったく違う声で、結礼は息を呑み、すぐには応じられなかった。健朗からの電話ではなかったのか。自分の目と耳を疑う。
『あ、ごめんね、びっくりした?』
「あ、いえ……」
『健朗ね、いま手が離せないの。もう少ししたらこっちからかけるように云うから待っててくれる?』
「はい、わかりました」
無意識にそう応えたものの、電話を切ってしばらくしてからかけ直しは不要だと云えばよかったと後悔した。
少し落ち着いてみると、電話の向こうは飲み会のようにうるさくなかったし、むしろだれもいないかのように静かだった。それは、健朗とさと美がふたりっきりであることを示している。
貴刀家では健朗の結婚話など、あれ以来、大智から以外はさっぱり聞かない。健朗がツアー中であることを考えれば、終わるまで待って進んでいくのかもしれない。
焦りとさみしさと、そんなものはお門違いなのに結礼は消し方がわからない。
気を紛らそうと入浴の準備をしていると、メッセージの着信音が鳴った。ベッドに行ってスマホを取りあげると、メッセージは和佳からだった。健朗だったら、とどきどきしたぶんだけ少しがっかりしながらメッセージを開いた。
『チケット、取れそう?』
首をかしげてにっこりしたスタンプが付随している。
ヨーロッパとアメリカの合間に、夏のロックフェスへの参加と、FATE単独でのライヴがある。そんな話をしていて、行きたいな、と云う和佳と、行ってみたいな、と云う蓮のつぶやきに飛びついたのは結礼だ。
『まだ連絡つかないの。もうちょっと待って』
返信をするととたんに着信音が鳴る。それは健朗からだったが、さっきは相手が違ったということもあって通話ボタンを押すのにためらってしまった。
「……はい、結礼です」
『どうしたんですか』
その云い方から、だれか傍にいるのだとわかる。いまは“だれか”ではなくさと美だろう。迷惑そうではないけれど、本心は見えない。
「あの……十九日のライヴのチケット、取れませんか。完売になってて取れなくって……あの、お金はちゃんと払いま……」
『だめですよ』
結礼に最後まで云わせないまま、健朗は却下した。
会えないならせめて一方的にでも健朗の姿が見たい。和佳たちを口実にすればいいと希望を持ったけれど、そんなことさえ贅沢なのだろうか。
健朗は、『家の手伝いがあるでしょう』と云い聞かせるように続けた。
「会えなくてもかまいません。見るのもだめですか」
気づけば、健朗の言葉をさえぎるように口にしていた。結礼が健朗に口答えをしたのははじめてだった。
一瞬の沈黙のあと、長いため息が届く。
『わきまえるべきです。いいですね? ……では』
ほんのわずかな間は結礼の返事を待つ気だったのか、何も云えないうちに電話は切られた。
自覚が足りない。まったく身の程知らずだ。
健朗とのこれまでの時間はきっと奇跡で忘れることはできないけれど、もうきっぱりとそんな時間とさよならしなければならない。どうやって、気持ちを切り替えられるだろう。
このまま、ただ十七歳のクリスマス以前のように、近くて遠い関係に戻るだけ?
違う。もう遠くて遠い関係になるしかない。関係という言葉さえ当てはまらないほど繋がりは希薄になっていくのかもしれなかった。いや、仮定ではなく、すでにそうなりかけている。
風呂に入るよう階下から母が叫び、我に返れば九時になっていた。呆然としていた時間の長さに、結礼は自分でも驚く。考えてどうにかなるものではない。
でも……けじめをつけられるきっかけくらい許してほしい。
健朗が会おうとしないのなら、それを叶えてくれるのは唯子しか思い浮かばない。結礼は唯子の電話番号を呼びだした。
『唯子よ。結礼ちゃん?』
「はい、結礼です。こんばんは」
『こんばんは。どうしたの? わたしに電話なんてめずらしいわね……というより、しばらく会わないわね』
云いながら唯子が漏らしたため息はどういう意味があるのだろう。その声音から、少なくとも唯子は、健朗が結礼に会おうとしない理由を知っているようだった。
「はい。あの、十九日のチケット三枚、手に入らないかと思って。お金は払います。もし手に入るとしても、健朗さんにはわたしがライヴに行くってことを内緒にしてほしいんです。それがダメだったらあきらめます」
『え? ……ちょっと待って』
唯子は眉をしかめていそうな声で云い、それから紙をめくるような音がした。『あった』とそんなつぶやきが聞こえると――
『いいわよ。健朗から今回は使わないからって預かってるし、だからチケット代はいらないわ。三枚、確保しておく。フランスから帰ってからでいいかしら?』
「大丈夫です。ありがとうございます。でもチケット代は払いますから。健朗さんにもし知られたら叱られます」
すると、唯子の長いため息が耳に届いた。
『同じ業界人だから迂闊には云えないのよね。ただね、健朗には健朗のやり方があるってことだけは結礼ちゃん、わかっててね』
なんのことだか、結礼にはさっぱりわからなかった。
はっきりしたのは、自分の気持ちに決別するカウントダウンが始まったということだ。
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