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DOOR|オトナのスイッチ〜デュアルヒーローvs.専属メイドのスキンシップ〜
ちょっとしたミスは、いかにも動揺しているといわんばかりで、少なくとも健朗には伝わっているだろう。血の気が引くような、反対にカッと血がのぼってくるような、そんな焦りのもと結礼は無自覚に顔を上げた。
すると、拍子抜けを喰らう。結礼の自意識過剰にすぎず、健朗と一成は向かい合ったままこっちに目を向ける気配もない。
一方で、自ずと視線を転じて早苗を見れば、磁石のN極とS極が吸い寄せられるようにぴたりと目が合う。そして真逆に、磁極が同じになって反発し合うようにぱっと離れた。いや、結礼に疾しさみたいなものはあっても、早苗にはそうする理由がなく、結礼が目を逸らしたにすぎない。早苗がおかしなふうに思っていないよう、内心で願った。
常日頃から、何か異変があればまずは深呼吸だと云われている。何があろうと冷静沈着に対処することが勤仕者たるもの、というのが夏生家の家訓みたいなものだ。健朗が不満そうに結礼を冷静だと云ったことがある。幼き頃からインプットされてきた賜物(たまもの)だ。
それでも動揺してしまうほど、一成の発言は結礼にとって衝撃的だった。
結礼は、一度ゆっくりと深呼吸をした。気持ちを切り替えるのは難しくても、どうにかなだめられた。
新しいコーヒーカップとソーサーを出そうと、結礼は背後の食器棚に向き直る。それが合図だったかのように、どこか不穏だった沈黙が健朗によって破られた。
「冗談でしょう」
揶揄したような云い方で、笑みさえ覗く。
「九歳の息子に云っているわけではない。二十九歳になればもう充分考えてもいいことだ」
「いまどきお見合いなど、時代錯誤ではありませんか。財閥時代のことならともかく」
「健朗、立場をわかれ。結婚して子を持つことは、貴刀一族本家の長男の義務だ。絶やす気ではあるまい?」
「姫良の息子がいるではありませんか」
「姫良は紘斗くんと新たな一族を築いていく。貴刀家との縁が切れることはないが、本家と一緒くたに考えるわけにはいかない。つまり、貴刀の名を孫世代へと繋げるのはおまえの責務だ。第一、姫良の息子一人だけでは後継者問題が片づくはずもない。おまえがいい例だろう。貴刀グループの後継者を蹴って、好き勝手な道を選んだ」
貴刀本家の当主としてもっともな云い分だ。
そこまで云われれば、健朗は反論もできないだろう。結礼の読みはけれど、裏切られる。ちょっとした沈黙のあと、健朗は論外だといった気配で、ため息混じりに笑みをこぼす。
「やはり、時代にそぐわないですよ。世襲など大企業では通用しませんから。僕の仕事についてはプロになるまえに散々話し合ったはずです。蒸し返すのは歳のせいですか」
「バンドをやめろと云っているつもりはない。後継するものがあるなら、それを継ぐ者を望むのは当然だと思うが。おまえは私と早苗の子だ。野心があるからこそ、簡単にはいかない道を進んだんだろう。それはそれでいい。好き勝手に極めればいいことだ。だが、自分のわがままばかりで終わってもらうのは話が違う」
一成が云いきると、健朗との間でぴりっと空気が張りつめた。
結礼が音を立てないようにトレイにコーヒーをのせていると、早苗が近くにやってきた。
「わたし、野心家ですって」
早苗はこっそり結礼に耳打ちをした。
確かに、早苗はミザロヂーを経営したり、実家が貴金属業ということからブランドを起ちあげてジュエリー店を経営したりと行動派だ。加えて、けして道楽でやっているのではなく、実際に経営者として奔走していて、結礼の尊敬するところだ。唯子と似たタイプだと思う。
早苗はさと美ほどではないが結礼よりも背が高く、見上げると、優雅にカールした髪を揺らしながら早苗はおどけた素振りで肩をすくめた。結礼は釣られて笑う。
「奥さまは野心家というより、憧れるくらいパワフルです」
「そうでないと、あの人を守ってた殻に太刀打ちできなかったから」
早苗は謎めいて云い、くすりと笑った。
その実、早苗の云いたいことはなんとなくわかった。祖母の麻美子から、お節介なお喋りではなく、失礼なことのないように、あるいは貴刀家の人々を傷つけないようにという理由で昔のことを聞かされたことがある。
早くに病で亡くなった姫良の母親、紗夜は一成の幼き頃からの許嫁であり、相思相愛だったこと、亡くなったあと、後継者が必要だとやむを得ず両親たちが勧めた相手と結婚をしたこと。後妻としてお見合いした女性が早苗であり、早苗にとっては、始まりはお見合いにすぎなかったが純粋に一成を慕っていたこと。
結礼が恋だ愛だのを理解できるようになった頃はすでに、一成夫妻は仲睦まじかったから何も苦悩があったとは思っていなかった。亡くなった紗夜と対峙しなければならなかった早苗には、相応のさみしさとか悩みとかあったはずだ。
「結礼ちゃんも、頼りなく見えて根気あるわよね。そういうの大事だから、なくさないでね」
それがどういう意味なのか、早苗は健朗とそっくりな微笑を向けたあと、「ありがとう。あとはわたしがやるから、もういいわよ」とトレイを持っていった。
結礼と早苗の会話は声を潜めていても、沈黙がはびこっている以上、筒抜けだったはずが、健朗も一成もなんの反応も示さない。
話の続きを聞きたいという気持ちは山々でも居座るのはずうずうしすぎる。結礼はそっとため息をついてキッチンを出た。
「わがまま、ですか。嫌でも結婚しろと? 結婚相手は親が決めるから従えと?」
そんな言葉を背中の向こうに聞きながら結礼は廊下に出た。一成の答えを聞くことは適わなかった。
健朗が邸宅から出てきたのは、それからまもなく、コーヒーは飲んだのだろうかというくらい早かった。
早苗か一成か、もしくはふたりそろって見送りに出てくるかと様子を見ていたが、エントランスのドアは健朗が出て閉まったあと、開く気配はない。
すぐに健朗は車のところまで到達し、運転席のドアに手をかける。こもった音がしてドアが開き、車内の照明が灯ると同時に――
「結礼、いるんだろ」
と、結礼の隠れ場所さえ見当をつけていたように、健朗の顔は迷うことなくまっすぐに向いてきた。
「こういうとき、犬ならシッポ振ってご主人さまに挨拶しにくると思うけどな」
健朗が来たとわかったときは、確かにそうするつもりだった。けれど、一成との話がそうするのをためらわせた。どんな顔を見せればいいのか、なんと云っていいのかわからなかった。
結礼はおずおずと、エントランスの大きな柱の陰から出た。
「昨日は遅かったですか」
「飲みすぎてダウンしてた」
「云ってもらえれば……」
「おまえがうろうろしてると気が散る。一人で眠ってるほうがらくだ」
ひどい言い草でペット扱いされるのはいつものことだが。本当に独りですごしたのか、ふたりですごしたことをカムフラージュしているのか、いまはどちらなのか判断がつかない。
「はい」
結礼は曖昧にうなずいた。健朗は気に喰わなそうに目を細めた。
「明日の夜は、いかにも素材の味を活かしましたみたいなあっさりした肉じゃがを食わせろ」
つまり、味の染みこんでいない下手な料理だと云われたのだが、健朗らしく元気づけているというのも汲みとれた。なぜ結礼が気落ちしているのか、その理由が二つあるとわかっているのかどうかはわからない。それでも、いま健朗が気遣っているのは結礼に限ったものだ。
「はい!」
さっきとは打って変わって張りきった返事に、うるさい、と面倒くさそうに吐いて健朗は車に乗った。
遙か向こうの門扉まで車が走り去るのを見送りながら、せっかく上々になっていた気分はまた下降した。こういう見送るだけの日々にいつか――いや、もうそんな日々が間近に迫っているのだと、結礼はさみしい以上に泣きたくなった。